感じた。
 が、床に入り、四辺が静になると、自分は、激しい悲しみに捕われて、気が遠くなるほど歎いた。
 憎い、どうでもよい者に、誰が此程涙を流そう。母よ。貴女も、今、そちらの静かな闇の中で、斯様な悲しみに打れて居らっしゃるのですか。何と云うことだ。辛いことだ。然もそれが避けられない――。彼の家で育った二十幾年かが、津浪のような記憶で、自分の感傷を溺らせた。
 翌日、自分は心が寥しく病んだようになり、一日床についた。
 その夜から、十一月の四日迄、まる一箇月、自分は到頭林町に足踏みしなかった。
 今までの、何時、彼方から呼ばれるか判らないと云うような気分もなく、一寸、仕事がつかえても、行って見ようかな、と云う遊び心に動かされず、当分は、却ってさっぱりと、心が落付いたような気分がした。
 国男さん、英男、スエ子も時々遊びに来る。その度に母の様子を間接にきき、彼女が、あの時、逢わずに死ぬかも知れないと云われたような切迫した心持では居ないらしいのを聞いて、私《ひそか》に安心する。彼女の方でもきっと、皆に、それとなく自分の様子を尋かれるのだろう。
 始めの間は、皆が、事の内容を知らず、何かあったらしい位で居たらしい。然し、時が経つに連れ、祖母が私可愛ゆさから気付き始めた。
「何故、近頃は百合子もAさんも来ないのか。何かあったのか」
 しきりに気を揉み、私の家にも来、声をひそめ、眉をあげて、訳をきかれる。
 八十の老女に云ったとて、判ることでもなし、自分は只、微笑した。それでも満足されないと
「いつかゆっくり行きますから、安心していらっしゃい」
と云う。
 けれども、母が、自分の胸一杯にある感じに負け、会田さんに万事の輪廓を話してから、母と我々との不調和は、少くとも家内では公然なものとなった。
 子供のうちから私を知り、白浜の海岸や飯坂の温泉に長い旅行を一緒にしたことなどのある彼女は、私を、深く愛して居るように見える。母が、私の身の上を心配し、泣き乍らAの不満なこと、殆ど悪人に近いような観察を話されると、半信半疑になってしまうのだろう。
 スエ子を連れて来、
「如何うして、左様なんでしょうね、真個に、思うようではないもんですねえ」
と云って、小皺の多い口元を震わせ、慌てて涙を押える。
「おかあさまの仰云るのをきくと、Aさんは、まるで悪い方のようなんですものね。貴女が、そんな方と一緒に居らっしゃる筈はないと思っても、矢張り、何だか心配で。――其でも斯うやってお目にかかるといつも元気にして被居るから、安心のようだけれども。……」
 祖母や会田さんに、心配され、口説かれる程、自分に困ることはなかった。何と云ったらよいか、わからない。彼女等の力で、如何うして貰えることでもなし、一緒に歎けることでもなし。底には云い難い淋しさを沈め乍ら、自分の活力が、その打撃に堪えて居るいつもの快活さで彼女等に対すほか、自分には仕方がないのである。
 又、頭では、芸術に対する自分と彼女との、曖昧に出来ない理解の差が、はっきりと光って居る。
 けれども、十一月に入り、新年が近づくにつれ、自分のその冷静な頭脳の明るみは、次第に他の感情で包まれるようになって来た。
 仕方がない。彼女の解って呉れる迄、自分は自分の生活を、すっかり独りで営もう、と云う自足《セルフコンテンド》の感情は、やがて、此、淋しく離れ離れになった有様で、新らしい元旦を迎えなければならないか、と云う、淋しい孤独感となって来た。
 大晦日や元旦の朝を、自分は子供の時から、いつにも増して賑やかに、家族揃って歓び迎える習慣をつけられて居た。
 クリスマスの贈物も、大晦日まで繰のべられる。部屋部屋の大掃除、灯がついてから正月の花を持って来る花屋、しまって置いた屠蘇の道具を出す騒ぎ。其処へ六時頃、父上が、外気の寒さで赤らんだ顔を上機嫌にくずし乍ら、
「どうですね、仕度は出来ましたか」
と、何か紙包を持って帰宅されるだろう。
 私や父は、いつも、家中の者に、何か一つずつ、気に入りそうな贈物を買い調えた。自分は早くから、父はその晩、皆の歓声をあげさせるような何物かを持って居るのだ。
 御きまりの、然し愉快な晩餐。それがすむと、私が
「さあ、皆、眼をつぶって!」
と、大きな盆の上に、綺麗に飾った包物を盛りあげて、正面の大扉から現れる。その時の、罪のない亢奮!
 光景《シーン》が、活々と目に現れた。その団欒の裡から、あの、真に物を遣れる者を持つ悦ばしさ、共に歓ぶ嬉しさを味う歳末の夜から、自分がのけられ、小さい唯三人限りの家で、ひっそりと笑いもせずに其晩を送るのかと思うと、何とも云えない心持がした。
 林町へ行くことが出来なければ、兎に角何処へか行かずには居られない。到底、此家に、吉祥寺の一〇八の鐘を聞いて坐っては居られない
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