湛えたまま、片手を欄干にかけて下を覗いていると、右手の昇降口に近く立っている良人の処へ、一人の男が近づいて来た。
手真似で彼を呼び、上と下とで、延び上り、身を屈《かが》め何か云っている。
自分は、構わず工夫の働いているデックの下を見つづけた。と、急に彼は振返り、私の腕に触って、
「中へ入ろう」と促した。
「何故?」私は、良人の顔を見あげた。
「寒くはなくってよ、ちっとも」
「そうじゃあない。入りましょう、早く!」
言葉が英語だったのと、彼の表情が余り気色ばんでいたのとで、囲りの二三の顔が、怪訝《けげん》そうに我々を見較べる。
自分は黙って、彼の先に立ちデックと室内とを区切る戸と硝子扉とを押して内部に入った。
「どうなさったの?」
「今の男がね、変なことを云ったから、気持が悪くなったのさ」
「まあ、何て?」
どこからも視線の届かない奥の腕椅子にかけてから、良人は、始めて理由を話した。
先刻の男は、彼に金をくれと云ったのだそうだ。
それを断ると、暫く黙っていてから、
「どこから来なすったかね」
と訊く。何心なく紐育からだと云うと、今度は、この汽車でどこまで行くのか、あの女の人
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