水の上では、出来るだけ幅広く、短く、さっと渡り切ってしまうことを希い、断崖の上では、一斉に、坐席《シーツ》の上で身動きすることさえも憚って、出来るだけ、細長く、しなやかに、すらりと危い角を辷りたく思う。――
 うるんだように白っぽく輝く空の下に、やや黄味を帯びた浅黄色の水面、金色のきらめく繊細《デリケート》な枯葦の上を、翼の淡紅色な鶴に似た鳥がゆるやかに円を描いて舞う光景が、暫く自分に我を忘れさせた。

        五

 ニュー・オルレアンスの、小さい雑駁な停車場に降りて見て、始めて、自分の心持は、長閑《のどか》な Tourist の心境と、どれほど異ったものであるかを知った。
 合衆国有数の棉花市場で、一八〇三年かにジェファソンに取られるまでは仏蘭西《フランス》の植民地として、今でも或る部分には、少なからず仏国風の慣習や気分を保っているというこの市は、廻って見たら決して詰らない場所ではないだろう。
 我々は、次の列車に乗込むまで、およそ六時間ほど、余裕を持っていた。若し、気さえあれば、相当に賢いサイト・シーイングが出来ない訳ではなかったのだ。
 けれども、手間を取って荷物をシアトルまでリチェックし、二三日滞在する予定になっているロスアンジェルスの知人に電報を打ちなどすると、先ず自分が、神経的に精力を失ってしまった。
 屋外には、紐育の復活祭《イースター》時分のように烈しい日光が照っている。
 停車場の附近は一帯の黒人街で、いかにも南方の植民地らしく拱廊《アーケード》になった歩道の片側には、塵まびれの小店が、びっしりと軒を並べて詰っている。
 屋蓋つきの荷馬車が、鞭で打たれるドンキーに挽かれて、後から後から凄じい勢で駈け去る車道の明るさと相反して、強い暗がりが、拱廊の奥を領している。
 そのうちに、ストゥールにちょいと跨《またが》ったシャツ一枚の黒奴が、閃く眼と、古物の短銃、短刀、馬具類の金属を不気味に光らせて、行人を見守っているのである。
 歩道を縫い、車道を横切って暫く行くうちに、自分は、人種が混雑し、感情と意欲が激しく錯綜した市街の空気を明に嗅ぎ知るような心持がした。それと、同時に、今の自分の心持とは、余りに懸け離れた雰囲気であることをも感じずにはいられない。
 騒音や雑踏、絶間ない動揺は、もう飽きられた。どこか安らかなコオジー・コオナーに、暫くでも静に黙っていたいという欲望が、激しく自分達二人の胸を満しているのである。
 然し、歩けば歩くほど、市中の喧囂に深入りしてしまう。
 生憎、昼餐の前後なので、歩道という歩道は、暫時外気を楽しむ事務員や店員やで、溢れるように賑っている。紐育の女事務員や売子のように、濃厚な白粉気はなく、いかにも身軽な白衣に素頭の若い女達が、一種独特の活溌さ、或は、常に侮蔑する対照を持ち馴れたものの粗暴さで、漫歩している。
 止まった自動車は、歩道の傍には寄せられず、却って車道の真中に、列を作って眠った大きな甲虫のように輝きながら並んでいる。――
 自分は強いて感興を湧起すように、彼方を眺め、此方を見して歩いた。けれども、一向面白くない。心のしんでは、ちっともこんな処を歩いていたくないのに、ほかにどこにも居処のないという、漠然とした寂寥で、我々は捗々《はかばか》しく話しもしないのである。
 列車が駛り、その進転に従って、いやでも外界が注意を他に牽く間、私共は、殆ど強制的に懶さを晴し、自然や村落を観察する。けれども、強いて引張るものがなくなると、我々は互の顔を見る。心を感じる。そして、家のない、不安な、行く処まで行ってしまわなければ、到底落付けない旅路を思い知るのである。
 午後七時に、また車室の座褥《クッション》が我々を迎えるまで、二人は、云い難い心持を互に堪えながら、本屋を訪ね、図書館に行きして、時を費した。
 ニュー・オルレアンスという街は、たとい黄金で道路を葺《ふ》いてあっても、我々には淋しいストレンジャアであったろう。
             ○
 昼見ると夜見るのとでは、同じ場所でも全然異った感じを与えられる。
 晩食を早めに終って停車場へ来て見ると、燈光が隅々まで煌めき渡った建物の内部は、まるで今朝来た処とは思えない。一時預けにして置いた手荷物を取り、赤帽に荷の始末を頼んで、我々は、発車に間のある列車に這入《はい》った。
 窓枠や扉の仮漆《ヴァニッシュ》は、相変らず天井の燈で燦ついている。暗緑色の座席には、同じように微かな煤煙の匂いが漂っている。
 暫くで馴れた光景を見出すと、自分は深い懐しさを覚えた。ここでは、少くとも、二人で腰かけていられるだけの場所がある。――
 我々は、ちらほら人のいる幾つもの車室を抜けて、最後尾の展望車に行って見た。
 デックに立って見ると、ちょうど、改
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