鈍・根・録
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)氷嚢《ひょうのう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)文学的[#「文学的」に傍点]な大きい身ぶりで
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 六月十三日に、ぬがされていた足袋をはき、それから帯をしめ、風呂敷の包みを下げて舗道へ出たら、駒下駄の二つの歯がアスファルトにあたる感じが、一足一足と、異様にはっきり氷嚢《ひょうのう》の下の心臓にこたえた。その時着ていた着物とは全くかかわりなくすっかり夏になりきっている往来のカンカンした日光の強さと、足の裏から体に伝わったその下駄の歯の感覚を、僅かに七八歩あるいただけだがわたしは恐らく一生涯忘れ得ないであろう。
 ペンがこうして原稿紙に当ってゆく抵抗の感じに、すっかりそのままというのではないが、やっぱりその下駄の歯から心臓に伝って来た感覚に似たものがある。書くという動作を意識せずには、書けない。今自分が生活の中から感じていることは、多様で、刻み目も深い。だが、そのどれをも同じほどとことんまで書くことが、可能であるとは云えないのである。

 がらくたが永年つくねてある場所から、わたしは籐でこしらえた妙な坐椅子のようなものを見つけだして来た。
 寝床の上へその坐椅子を置き、しびれて曲りにくい脚をなげ出し、わたしは何通もの手紙を書いた。
 二十になる妹がそのわきに長くころがって手紙を書いているわたしの様子を眺め、
「お姉さま、よくそうやってかけるわね」
と云った。わたしは昔のひとがやるように巻紙を片手にもち、筆のさきをもって手紙を書いているのであった。書きながら上の空でわたしは、
「うむ」
と云い、やや暫く間をおいて、
「おかあさまにおそわったんだよ」
と、筆に墨をふくませつつ妹の顔は見ず云った。
「ふーん」
 顎を振るようにしておかっぱの髪をパラリとさばき、黙っていたが、やがてころりと仰向きになって、
「――何だか気ぬけがしちゃった」
と、弱々しい、しなやかな余韻のある声で云った。
 わたしは黙っている。自分はどの手紙にも、母が今生涯を終ったことは、母にとって最もよい終焉であったと書き、その手紙にもそのことを大きい疑いをもたぬ字でかいているのであった。
 母が父の存命中、生涯を終ったことは、母にとって、一家にとって、一つの幸福であると云う考えは、明瞭につよくわたしの心を貫いて存在している。
 葬式の前、一寸人が絶えた時、袴のひだをキチンと立てて坐っていた父が、そこに一人だけ離れて坐っていた自分に向って、
「もうすこし生かしておいてやりたかったが、結局今死んで、おっかさんは却って満足出来ただろう」
と云った。父と、蝋燭の光が花と花との間に瞬いている祭壇の方を見やりながらわたしは、娘というより寧ろ総領息子のような風で、
「おかあさまがあとにおのこりになったら、万事に不満ばかりで、われわれも困ったし、自分もきっと不仕合わせに思いなったでしょうから、よかった」
 そう答え、暫くして笑いながら、
「お父様、私が十一ぐらいのとき、団子坂の方へ散歩につれて行って下さったとき、道を歩きながら、お前のおっかさんにも困ったものだ。今更離縁すると云ってもお前たちがいるし、とおっしゃられて、ひどく困った気持になったことがあるんだけど、覚えていらしって?」
ときいた。
「へえ、そんなことがあったかね」
 父も笑い出し、若やいだユーモラスな目つきで、
「ちっとも覚えていない」
と云った。そして、二言三言つづけて、妻としては全く世間ばなれのした妻であった母を軽く揶揄《やゆ》するようなことを云ったが、不図、自分が思わず耳にとめた咳ばらいをして、
「ああ、神官さんに葭江《よしえ》の略伝のようなものをやらなければならんが、お前一寸書いてやってくれないか。その中へこれまで何回も重病をわずらったが奇蹟的に生きたことを入れた方がいいと思うが――」
と云った。
 母は多病であったばかりでなく、娘であるわたしが屡々、世間のあたり前の女親が娘に対して示す具体的な情愛について自分の経験とは対蹠的なものとして考えたことがあるような独特な性格をもって、一家の真中に構え、生活していた。
 夫婦なかのよい義妹が何かの話のとき、
「ゆうべ、また例のようでね。お父様が、お母様に、お前なぜ一昨年病気したときに死んでしまわなかったのだと云って、涙をおこぼしになったのよ」
とおだやかな口調で云い、云い終るときっと唇を締め、身じろぎをせず私の顔を見つめたことがあった。出かける前か何かで立ったままきいていたわたしは、そのとき、
「ふーむ」
とより答えようがなかった。母が子等とだけ老後を送らなければならなくなったら、それは皆の不幸であろうとわたしが日頃思っていた根柢には、経済的に母が
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