貧乏になることのほか、母自身の特色ある性格が大きい原因となっていたのであった。
母とわたしは、女対女の関係で暮して来、生活態度の上でどちらも徹底した譲歩というものはしなかった。
一九二八年八月自分がレーニングラードにいた時、二十一歳であった次弟が自殺をしてから、母は、その弟の短い生涯と死に対して自分などから見ると殆ど恐るべき影響を与えた非現実的な熱情の中へ、一層傍目もふらずおちこんでしまった。そういうファンタスティックな力で、好んで人間の高く勁く燃ゆる精神の活動について話すのであったが、問題が実際に起ると、その同じ母が信じられぬほどの理由ない卑屈さや小さい打算や卑俗さによって頸根っこをつかまれたように言動し、而もそれに賛成しない良人や子等に対して我執をはりとおすのであった。
母に現れるこの矛盾の瞬間は悲惨であると同時に、屡々娘である自分の胸に鋭い憎悪の火を点じた。昨年十二月末、宮本がとらわれ、一月十七日に「犯罪公論」的に扮飾された記事が出た次の晩であったか、言葉にすればほんの十語に満たぬ応待であったが、その間にわたしは母の娘としてこの世に生きる心のきずなが、余りすっぱりと切り離されていることを知って、忿《いか》りも湧き立たぬほど索漠とした気持を経験した。
その気持のままで、私の日常生活には変動が生じた。荒川放水路のそばの、煤煙がふきこむ檻の内で自分は、母からの達筆な手紙を読まされた。文学的[#「文学的」に傍点]な大きい身ぶりで母が娘を思うことが説明されて終りに和歌の書添えてある手紙であったが、手紙に添えた唯一足の足袋は、コハゼがぶらぶらになったのを袋に入れて洗濯屋がかえしてよこした、それなりを袋の中もあらためぬまま持たしてくれたものであった。
わたしは片手に、徒に真白なばかりで、穿けぬ足袋をもち、片手に手紙をもち、思わずも無言のまま佇んだが、その時憤りは感ぜず、静かに、だがつよく、母がもしこのような文学的教養めいたものをまるで持たない女であったら、そしてたとえば自分によって食ってゆく立場にあるとしたらどうであったろうかと思った。もう二度と物を云うことのない息子の顔を犇《ひし》と胸元へ抱きよせながら、
「おおここがえらかったか、おウおウ」
と泣いてコメカミを撫でてやっていた小林の母の小さい濡れた顔が髣髴《ほうふつ》と目に迫った。
寒気の中で、ふところでをし、出来るだけ少く身動きをするように正坐し、その日は久しい間文学的才能とか、文学的教養とかいうものとそのひとの社会生活における、実践との間にある活々した関係について考えた。丁度そのことのあった前に、チラリと新聞で「ナップ」解散の報道を瞥見《べっけん》したばかりの時であったし、誰かからもっとはっきり状況についての説明を聞くということも不可能な環境であったから、実際の生活からとびこんだ小さい例証も、関心の中心に在る問題とむすびつくのであった。
チェホフ全集の広告、ジイド全集発刊の広告。それらも、やはりこの前後に、手にとることは出来ない新聞の上で見た。チェホフ全集が出ると知った時、自分はチェホフがその手紙の中で、小商人の伜として育った自分はいくじなく頭を下げる癖を克服するだけにでもどれほど闘ったか知れぬと云う意味のことを書いていたのを計らず思い出した。また、帝政時代のロシア・アカデミーがゴーリキイを一度は会員として決定しておきながら、ゴーリキイが政治的注意人物で、室内監禁をうけたりしたことがわかったら、あわてふためいて決定をとり消したことがあった。その時、そのようなアカデミーであるならば自身が会員であることをも寧ろ屈辱とすると云ってアカデミーをゴーリキイとともに去ったチェホフ。そういうアントン・パヴロウィッチ・チェホフの面を、こんどチェホフ全集発行の任にあたるひとは、現代の状勢にあって、どのように評価しているであろうかとも考えた。日本にも文芸院とかいうものが警保局長の手でこしらえられるというより合いの時の写真を見て、わたしはこのチェホフとアカデミーとの歴史的関係をまざまざと思い起したのであった。
その実際を知ればしるほど非人間的な条件の深刻さがわかるような生活の連鎖の中で、母に対する自分の心持が変化をうけるようなことが起った。三月になってからであったか、或る日、風のたよりに宮本がひどく病気であるという噂のあること、だが何処に置かれているのかさがしても所在不明であるということが、わたしの耳にはいった。
わたしは、そのことを知らなかった前と全く同じように、次の日も朝は僅々二尺四方ばかりの冬の日向に立って五分間体操をやった。乾いた手拭で裸の胸をこすった。弁当をもくった。一人の牛盗人に向って帳面をひかえた警官が、どうだ、お前金歯があるか? 口をあいて見ろと云い、ふむ、したない
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