曇天
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)彼此《かれこれ》

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(例)広い室屋[#「室屋」に「ママ」の注記]の中に
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 此頃、癖になって仕舞ったと見えて、どうしても私は九時前には起きられない。
 今日も、周囲の明るさに、自然に目を覚したのは彼此《かれこれ》十時近くであった。
 髪を結ったり、髪を洗ったりして食堂に行くと、広い室屋[#「室屋」に「ママ」の注記]の中に母や弟達が新聞を読んで居た。
 ボソボソと、独りでシチューで御飯をたべる。
 なまけた重い眠りが、まだ瞼や頬にまといついて居る様で、御飯の味もろくにしなかった。
 此間電話を掛けて呉れて、その時一寸覚えで居たまま忘れて仕舞ったK子の住所が気になってたまらない。
 彼の時一寸、宿所帳に書きつけて置けば何でもなかったのにと、及ばない後悔が湧いて来る。
 もう、一生彼の人には会う機会も、便りをやる所もなくなってしまった様な気がして、彼あ云う家業が家業だけに余計思い患われる。
 そんな事を思いながら、本を読んで居たけれ共、何にも気が入らないので、何だか落つかないいやな空合を窓からぼんやりながめて居ると、今仕かけて居る仕事のはかどらない歯がゆさにむずむずして来る。
 この八月中に下書きだけでも出来上らせて仕舞わなければならないと思って居るのに一向に筆が進まない。
 考ばかり美くしく生れて来ても、手の方で甘く行って来ないのを思うと、私の頭が如何にも空虚な様で悲しくなる。
 毎日毎日の真面目な努力も、、何の甲斐のない様に感じられて、こんなで居て、まとまったものを出版したいなどと云うのは、あまり思いあがりすぎて居るのではあるまいかと云う様になって仕舞う。
 此頃の様に、或る一つ事に対しての興味が、単に趣味と云うより以上のものに進んで来ると、その間に、又一歩進んだ嬉しさと、苦痛がある。
 それが幸福でもあり不幸でもある。
 私共の周囲の多くの人々の様に只生きてのみ居る事は、到底私に堪え得ないのを思えば、その瞬間毎に変化する複雑な悲哀と、歓喜を持つ事が快くもある。
 モーンフル、メモリーとでも呼びたい様な、重い沈んだ気持で、陰の多い部屋に静座して居るのも、顔の熱くなる様な興奮に身をまかせて、自分の眼に写るすべての物を、美くしく、快
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