お私の頭を手でまわして髪の間をしらべるのであった。
 大体田舎での私の生活は東京へ帰ってから余り話題にならなかった。田舎が与える新鮮で鋭い印象は全く感覚的なものであったから、それをどうとまとめて話すということも難しかった。それにその頃の親たちの毎日の暮しは、おばあさんや子供の生活と或るところでは接触し、しかし或るところでは全く離れてもいた。女の児の精神と肉体との中に無言の作用を営む田舎の感覚は、親たちの生活の感情からはどっちかと云えば離れた方の部分に属していたと思われる。

 私が十七になったとき、弟たちは十五と十三で、だんだんその弟たちも、夏はおばあさんのところで暮すようになった。
 連山を見晴す風通しのいい茶の間で三人の孫がチャブ台をとりまき、盛りあげた飯の上に枝豆を青々と弾きかけ、おいしそうに食べている。おばあさんの御飯はとうにすんでいる。糊のこわい白絣の膝の上へ肱をつき、長煙管でゆっくりとあやめ[#「あやめ」に傍点]をふかしながらおばあさんは孫たちの食べる様子を眺めていたが、ふっと、
「お前ら、帰るまでには一遍どこさか連れてって呉れずばなんめえなあ」
と云った。孫たちは、
「つれてって!」
「連れてって!」
「あした連れてって!」
と湧き立った。倹約なおばあさんにしては全く珍しい。
「どこさいぐ?」
 そう云われると子供らは急にどこへというような場所をかねがね知っているというわけでもないのであった。
「浄土松さでも行って見るか?」
「岩のある山でしょう? 詰らないわ」
 私は、
「猪苗代湖へつれてってよ、ね」
と云った。
「それも涼しくっていいか知んねえなあ……」
 私は弟たちも湖というものはまだ見たことないのを知っているのであった。
 私共がお八つにゆでた玉蜀黍を食べている間に、おばあさんは黒い紗の袂を暑さに透かせ小さい蝙蝠傘の黒い影を赤土の上にくっきり落しながら、猪苗代湖行きの相談にどこへか出かけて行った。
 程なく手にカンナの花の剪ったのをもって帰って来た。
「本当に、おばあさん、あした行くんでしょ?」
「そうよ、しか」
 夜になって茶の間に風呂貰いの人々が集ると、おばあさんは炉辺でぐるりと皆に茶を注いで出しながら、
「あしたは孫どもをひとつ猪苗代湖さでもつれてって呉れべえと思ってなし」
などと、どこか改った言葉つきで云った。私共は傍に並んで坐って、そんな応答を聴いている。それは、何だかふだんとはちがう夜に感じられるのであった。
 翌る朝目が醒めると、もう家じゅうが開け放されていて、おばあさんが一人で茶の間にいる。生憎曇って、茶の間からいつも見える山がその朝は見えなかった。それでも、弟たちがステーションへ先発した。おばあさんと私とは俥で、後から家を出かけた。
 ステーションの在る町は村から小一里離れていた。田圃の中にポッツリ一軒唐傘屋があって、そこから次第に餅屋、蚕種試験所と町並が始るのであったが、恰度《ちょうど》二台の俥がつづいて左手に高い石崖のある小学校の角を停車場通りに向って曲った時であった。ジリーンと妙に濁ったベルの音が一つ響いたと思うと、二間ばかり先を駈けていたおばあさんの俥が、幌へ風でも孕んだような工合にスーと後へ顛覆した。極めてゆるやかに、極めて軽やかに梶棒を上にしてひっくり返った。私をのせた若い車夫は惶《あわ》てて体を反らせ、惰力を制して止った。いそいで降りて、ひっくり返った俥の横へ行くと自転車が一台ラムネ屋の屋体の下に横倒しに放《ほっ》ぽり出されていて、夏羽織姿のおばあさんは俥夫と衝突したどこかの小僧とに扶けられてもう地面に立っていた。何とも云わず、あたりまえに蝙蝠傘を突いてそこに立っているが、片方の手をあげて抑えている額は蝋のように血の気を失っている。まわりに人だかりもない。この瞬間、異常な出来事が信じられないように夏の午前の空気は透明なままに澄んでいる。
 私はおばあさんを支えて、そろそろと前の牛肉屋の店頭まで行って、そこの店先をかりて腰をおろさせた。俥夫を薬屋へやって、葡萄酒をとって来させた。その牛肉屋の店先には茂った葡萄棚があるので、おばあさんの滑らかな小さい額は一層蒼ざめて見えるし、その下で口元へさし出す葡萄酒の赤い色はコップの中に重く沈んでなお濃く見えるのであった。
 暫く休んでから、改めて近くの医者のところへそろそろと歩いて行った。玄関で私が書生に訳を話していると、簾《すだれ》の奥から浴衣姿の年とった奥さんが、
「まアおばん様、あぶなかったのし」
と国言葉で云いながら出て来て、祖母を扶けて座敷へ上げて呉れた。
 そうこうしているうちに汽車に乗るはずの時刻は夙《とう》に過ぎた。絣姿の弟たちはステーションでさぞ待ちかねて不安でもいるのだろう。私は、
「おばあさん、きょうはおやめにしまし
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