徳永直の「はたらく人々」
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お下髪《さげ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三九年十二月〕
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 生産的な場面での女の働きは益々範囲がひろがって来ているし、そこへの需要も急速に高まっているけれども、一応独立した一個の働き手として見られている勤労婦人の毎日の生活の細部についてみれば、それぞれ職場での専門技術上の制約があり、男対女の慣習からのむずかしさがあり、更に家庭内のいきさつで女はまだまだ実に重たい二重の息づきで暮している。
「はたらく人々」で徳永直氏は、印刷工場の解版女工であるアサを中心に、この複雑きわまる今日の働く婦人の問題にふれているのである。
 女主人公アサとの対照として作者は用意ふかく愛子、シゲという二つのタイプを描き出し、結婚に対する態度、工場の高度の技術化のためにおこる解版女工の失業についての身のふりかたにコントラストを示している。どうせ共稼ぎの結婚なんて馬鹿くさくて、という愛子は妙な男づきあいをしつつ、失業とともに喫茶ガールになってゆく。シゲは全く古い職人肌の亭主をもって、脚気の乳をのまして赤ン坊に死なれたり、これまでの工場が駄目になると、只身を落した気易さだけに満足して時代おくれの小工場へ落着く。アサは自分の身の上にかかって来る同じその事情のなかで、愛子の生きかたにもシゲの受動的な日暮しの態度にもあき足りず、困難をしのいで女に例の少い女文選としての技術を身につけ、同時に、女が働くのは嫁に行くまでだという勤労者の常識にさえ滲みこんでいる考えかたを自分で破って行こうとする。小説はそういう心持にアサが辿りつくまでの経緯、腕のいい職工であるが勝気で古い母に圧せられ勝な良人の山岸との心持の交錯、大変物わかりのよい職長梶井のうごきなどを語って展開されているのである。
 深い興味をもって読んだが、この長篇の前半と後半との間で、何かアサの心持の成長を必然として納得させる一貫したものが欠けている、或は書き落されているような印象を与えられたのは私だけであるまいと思う。
 後半、工場で自動鋳造機を入れるようになってからのアサの心のありようは、非常にはっきりとしているばかりでなく勤労婦人として、自分の技術に対してあれだけの自覚と熱意をもつ女は、そう
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