ざらにあるまいと思うように描かれている。「やはり自分は働こう、働けるだけ働いて自分の技術をたかめよう。経済的にもそうしなければならなかったし、自分が働くことでこの赤ン坊が不幸とは思えまい。そしてそれが、自分を女という古い掟で縛りつけ圧服してしまおうとする凡ゆる古い力に対抗し得るたった一つの道だと思った」女としての感情がここへ来るにはアサが単にお下髪《さげ》の使い屋から苦労してたたき込んだ腕をもっているというだけが理由ではない生活感情、社会的な感情が土台となって初めて可能なものではないだろうか。作者は姑との軋轢に苦しむアサ夫婦の心持を、旧套の力がのしかかる大さの感覚でうけて観ており、後半では作者自身の理想に立ってアサの成長を描いているようにも思える。アサが、誰にも負けるもんか、負けるものかと思っている、そういう前半の自然発生な女の勝気から、後半の、良人の古い半面にもめげず、自分の技術を高めようとすればあらゆる種類の仕事に従う現代の働く女が誰しも感じる働く女としての孤独感に到る心の過程、そのような勤労婦人としての成長をもたらしたモメントは、アサの生活のどこにあったのだろうか。前半から後半へうつる第四章の冒頭で作者は周到に、「一つのことについて明瞭になるまで十分に考えられない」状態としてアサの生活をも語っている。しかし、読者が作家に求めるのは、アサ自身は或は無意識であるかもしれないそういう人間成長の急所についての心にふれて来る物語ではないだろうか。利害相剋の緩和者として出現している梶井のありかたも、いいが、気になる何かが在るところも面白いと思う。アサが文選の仕事を見習いはじめてからの情景、山岸がアサに「お前帰れ――家へ帰れよ」と云う夫婦の心持の縺れの描写のあたりは(五章の三)職場での男対女の感情のしきたりを描いた五章の一のあたりとともに、生彩を放っている。
働く女が働くものとして自身の技術を愛する熱意はそのものとして美しく、描いて美しいが、今日の現実にあっては、『中央公論』の九月号に藤田進一郎氏が働く婦人の問題について語っているとおりの実状だから、作者としては十分女の主観の外まで歩み出して、梶井という人物の偶然の物わかりよさで納まってゆく範囲を踰《こ》えたものとして力づよく率直に読者の実感に訴えてよいのだと思われた。
[#地付き]〔一九三九年十二月〕
底本:「宮本
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