様につよく写った。母はショックをうけ、とりみだしていたようだった。お化けはないもの、迷信はばかげたもの、と占いやまじないの話に子供の興味がひきつけられないようにしている母だのに、この白い鳩が座敷へ迷いこんで来て、偶然、神棚へとまって二三度羽ばたきし出て行ったということを、一つのいい前兆としてうけとった。道男という弟は、この鳩が入って来たばかりに西村道男となった。そして、中学三年の秋、チブスで死ぬとき、母に僕は、ほんとにお母さまの子だったの? ときいて、母に悔恨の涙をしぼらせた。姓がかわっていたばかりでなく、この下の弟は、全く母に似て、ぼーっと肥った大柄だった。わたしや上の弟が父ゆずりで小柄だったのにひきかえて――こういうことは、みんなずっとあとにおこったことがらだった。そのころはまだ田端の汽車や、牧田の牛や子供の生活をみたす豊富な単純さで、昼と夜とがすぎた。

 道灌山へいっていい? と母にきいて、さておきまりの一隊が出発するようになった時分、わたしは、きっと母からだったのだろう。太田道灌の話をきいた。みの一つだになきぞ悲しきと云って、娘が笠の上に花の咲いた山吹の枝をのせて、鹿皮のむかばきをつけて床几にかけている太田道灌にさし出している絵も見た。この絵は、『少女画報』という雑誌にのっていたと思う。
 太田道灌が、あっちからこっちへと武蔵野をみまわして、ここは都にするにいいところだと云った山が、道灌山だということだったが、わたしたちが行く道灌山で、見晴らしのきくのは田端側の崖上だけだった。その崖からは三河島一帯が低く遠くまで霞んで見わたせた。低いそっちは東で、反対の西側、うちのある方は、見はらしがきかなくて、お寺になっていた。
 お寺の庭は土がかたく平らで、はだしで繩とびをするのに、ひどく工合がよかった。春のまだひいやりする土が、柔らかな女の子のはだしの足の裏に快く吸いついた。三人の子供は、もうおさな児から少年少女になりかかって、はげしく体を動かして遊戯するようになっていた。
 道灌山の深い草は、かけまわるにも、その中へしゃがんでかくれるにも好都合で気にいっていたのに、こわいことがあって、わたしたち子供は、もう道灌山へは行かなくなってしまった。
 夏のはじまりごろの或る午後だった。上の弟が目をつぶって後向きに立ち、十をかぞえて鬼になり、わたしと小さい弟とが逃げ役で、草のしげみを、だっと走り出した。三人はしまりのない山の中でもひとりでに範囲をきめて遊び、さがしたり、つかまえたりするのにこわいようなところまで陣地をひろげることはしなかった。はじめの二三歩は、小さい弟の手をひくようにして走ったが、四つ年上のわたしは、じき自分の走る面白さに夢中になって弟をのこし、道灌山と崖ぶちの柵の道とを区切っているからたちのしげみに沿って、体を内側へすこし傾かせながら大迂廻をし、ずっと道灌山の入りぐち近く逃げて来た。肩よりも高くしげっている草の間を息せききってかけて来て、惰力で、まだ幾分駈け気味に段々とまりかけたとき、唇を開き息をはずまし、遠くまで逃げ終せたうれしさでこっそり笑っている女の子のわたしの前に、いきなり、ひょっこり蓬々と髪をのばした男の、黒いよごれた大きな顔があらわれた。顔だけ出たのではなく、びっくり箱のふたがあいたように、蓬々の頭と大きい黒い顔と、ぼろをまとった半分むきだしの肩とが、いちどに、にゅっと深い草の中から現われた。わたしがとまった地点のさきは、草にかくれて見えなかったが、ゆるい凹地になっているらしかった。乞食! と思ったその男は、その凹みの草のなかに臥てでもいたのだったろう。
 にょっきり草から半身を現した黒い大きいきたない顔は、ものも云わず笑いもせず、わたしを睨むように見た。私も、二間ばかり離れたこっちから目を据えてその男を見守っている。どっちも動かない。すると、ピクッと、ぼろの間から出た男の裸の肩が動いた。途端に、わたしは全速力でみんなのいる方へ逃げだした。何とも云えず、こわかった。うしろを見るのもこわく、しかし見ないとなおこわくて、ちょいちょいふりかえりながら逃げて、もうつかまっている弟や大人の女のいるところまで辿りついた。
 でも、どうして、わたしは、そんなにびっくりし、そんなにこわかったのに、家へかえってから、そのことを母に話さなかったのだろう。一緒に行ったひとが、来たときの道をとおってまた柵の方の道からかえろうとしたとき、わたしは強情に、こわい人がいるから、あっちはいや、と云って、道をかえ、佐竹ケ原をまわってかえって来た。一緒に行ったものも、こわい人、について問題にしなかった。
 道灌山の曇りない楽しさは、おびやかされた。青々とはれた空へ翔んでゆきでもするように高い崖から遠くを見晴らすときの面白さ。草をかきわけ走る
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