て来る乳牛の大きさとこわさと畏敬とをごたまぜに感じるのだったが、多分牧場のそこの側は、日かげか何かで余り牛どもの気に入りの場所でなかったのだろう、決して竹垣の下まで近く牛のよって来たことはなかった。
田端の汽車は、いつも動いているから目をはなせないし、牧田の牛はのろりのろりと動くから、また面白くて、なかなかその竹垣からどかれなかった。
大きい方の弟が、牧場の土のところどころにある黒い堆積をさして、
「ねえ、あれ、牛のべたくそ?」
と大きな声できいた。
「そうですよ」
一緒に牛をみている女中が、のんびりした調子で答えた。
すると、下の弟が、
「べたくそみせて!」
と、のびあがった。
「あれ、べたくそさ」
権威をもって大きい方の弟が、牧場の土の上に、いくつもあるかたまりを指さしてみせた。
「ふーむ。べたくそ?」
「べたくそ、さ」
わたしは、べたくそに弟たちほど熱中を感じない。わたしには牛の匂いが気にいっているのだった。風の工合で、竹垣のところから、牛小舎の匂いがほんのりきけるときがあった。牛小舎の匂いは、すべっこくて、柔かくて、そして甘かった。におっていると、いいこころもちがした。牛小舎は、牧場のむこうにトタン屋根を光らせている。
子供たちがうっとりとなって、のびやかな動きかたをする牛を見ている間に、母は、よくひとりで祖父の墓まいりをすました。わたしはお墓はきらいだった。祖父の墓は、小さい木の門がついた一区画のなかにあって、大きな槇の木の下には丸い手洗いが置かれ、高い、いかめしい墓石のぐるりにも木が植っていて、いくらか庭のようだった。
けれども、祖父の墓のとなりに、墓標だけの新墓があって、墓標の左右に立っている白張提灯がやぶれ、ほそい骨をあらわしながらぽっかり口をあけていた。四角くもり上げた土の上においてある机が傾いて、その上に白い茶わんがころがっている。太い赤い鶏頭が咲いているのも普通でなく見えた。
母が毎月演芸画報という大判の雑誌をとっていた。お化けなんかありませんよ、と母は云うけれども、その演芸画報には、お化けの芝居の写真があった。お岩だの、かさね、法界坊など、すごいお化けだった。これらのお化けは、いつもやぶけた提灯だの、墓場のそとうばと関係があり、そのそとうばは、昼間日のよくさしている養源寺の墓地にもやっぱりいっぱい古いのや新しいのが立っているのだった。
考えてみると、母はよくその頃、養源寺へお詣りに行った。子供たちの父親がロンドンに行っている留守でひまだったからというばかりが動機ではなかったと思う。母方の家は、ごたついていて龍太郎さんという母には甥に当るあとつぎを廃嫡した。その父の、母の兄に当る一彰さんというひとも前から勘当されて神田の方に謡曲の師匠をしていた。
龍ちゃんと云われた母の甥は横浜のラシャ屋へ婿に行った。行ってみたらば姑に当る四十こした後家が水色のゆもじを出して立て膝で酒をのみ、毎晩ばくちを打つ。その上、はたできいている子供たちには諒解されないもっといやなことがあって、龍ちゃんがインバネスをきたまま火鉢にまたがるようにして、母に「いくら俺がやくざだってよくもあんな外道の巣へ追いこみやがった」とおこって云っていたことがあった。世話をしたのは、母ではなく親戚のうちの誰かだった。龍ちゃんは、その婿になって行った家から出ようとしていた。「娘だって、何をしているのかしれたもんじゃないさ」とも云った。そういう有様で、祖母はわたしの下の弟を相続人として養子にするという話をもち出していた。きっと、その前後、母はロンドンにいる父に相談するにも遠すぎるいろいろの心持から祖父の墓詣りをしばしばする心もちになっていたのだったろう。
紛糾しつづけている西村の家へ下の弟を養子にやることを母は躊躇しきっていたのに、到頭それを承知してしまった。あとからこのことは家庭内の悲劇となったのだが、母が道ちゃんとよんだその弟を西村という姓にすることを承知したきっかけは、鳩だった。
祖母と母とが、その日も南向きの茶の間でしきりに話していた。話すというより、むしろ、すこし喧嘩っぽく論判していた。わたしたちは大人のそういう雰囲気に影響されて、ふだんよりおとなしく庭で遊んでいた。すると、急にどっかからつよい羽音がきこえたと思うと、茶の間にいる母の、
「あらっ! 鳩! 鳩!」
という叫び声がきこえ、同時にすーっと軒さきをくぐるようにして、ほんとに白い鳩が家のなかからとび出して来た。
「鳩が入って来たのよ――鳩だったろう?」
いそいで、縁側に立って来た母が、息をはずまして、鳥のとび去ったこぶしの梢の方をみた。
あっけにとられた子供たちの目には、いきなり座敷へとびこんだ鳩よりも、縁側にかけ出して来て外を見た母のひどく動かされた表情が異
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