冒険的なたのしさ。どこまでも響いて、しかも自分たちの声だけしかきこえない静かな眩ゆい崖上の明るさ。そういう子供の官能の陶酔は、にょっきり草の中から半身あらわしたこわい人によって道灌山から遮断された。

 田端へ汽車を見に行ったり、こうして道灌山で遊んだりしたとき、子供たちと一緒に来たのは、誰だったのだろう。
 母ではなかった。母は美しく肥っていて、歩くのが下手だった。田端の駅まででも俥にのって来た。もとより祖母ではなかったし。――
 わたしたちの子供時代、うちにはずいぶんいろんなひとがいた。下島のおじさん。これは祖父の弟で、子供たちが下島のおじさんというものを知るようになってから、いつも長い八の字髭をはやし、色のさめた黒木綿の羽織を着て頬っぺたがときどきピクピクとつる人だった。自分用の小さい中古の急須と茶のみ茶わんとをひと重ねにして、それを手のひらで上から包むようなもちかたでもって、台所へ出て来た。昔風に南側が二間の高窓になっていた、そのかまちの上に急須と茶わんをのせて、七輪の方へ来てやかんをとり、自分ののむ茶をいれた。茶をいれる間も、下島のおじさんは片手を黒木綿の羽織のなかへ懐手したままだった。
 高窓のところによりかかって、溢れそうにいっぱい注いだ茶わんへ顔をもって行って、高い音をたててお茶をすすり、頬をピクリピクリとさせながら、よく面白くなさそうにひとり言を云っていた。その頃四十越したぐらいの年配だったこの下島のおじさんには、男の子がいて、中学生だった。俊ちゃんと云ったその子は、祖母のいた開成山で育っていた。下島のおじさんは明治のはじめ頃、大学の農科を出て大変ドイツ語がよく出来た。ドイツへの留学生を選抜するため農商務省でドイツ語の論文をかかせられ、一等になって、もう旅券が下りるというとき、あれは下島にしては出来すぎだ、兄が論文を書いたのだろうという中傷が加えられた。そして、二等だった誰かべつの人がドイツへ行った。下島のおじさんはそのときから、人間は信用できない。働こうとすれば世間が働けなくする、といって、もうどこにも勤めず、甥である父のところに寄食していた。
 台所の高窓のところで、茶をのんで、ひとりごとを云っている下島のおじさんのそばによって、ピクつく頬を下から見上げていると、黒木綿の羽織のあたりの脂くさいような煙草くさいにおいがし、可哀そうなような、こわいような、いやなような気持がした。下島のおじさんは、時々夜なかに酔っぱらってかえって来て、中の口の戸をドンドン叩いて母にあけさせることがあった。そうでないときは、いつも玄関わきの「おじさんの部屋」で新聞ばかりよんでいるか、台所に来ているかした。子供たちと一緒に御飯をたべなかった。台所の三畳たたみの入っているところで、つかわれている人たちと食べた。母が拒んだらしかった。下島のおじさんと遊ぶことも禁じられていた。
 たしかに、下島のおじさんは妙なことを教えた。わけのわからない匂いのことを云ったり、指の変な形をしてわたしたちに見せて、知っているかときいた。子供たちは、匂いのことも、指の形も知らなかった。おじさんは説明しない。自然、子供たちは、お母さま、ああちゃん、とそれぞれのよびかたで母に向って、おじさんからきかれたことをそのままくりかえして、なあに、ときいた。そのたびに、母は顔色をかえるぐらい怒った。子供のきくことに答えるよりさきに、下島のおじさんをよんで、面と向って、はげしく罵るぐらいに怒った。母の怒りがあまりつよいから、母とおじとをとりまいて息をこらして見物している子供の心には母の怒のはげしさに焼かれ清潔にされたように、おじさんの云った変なことより、母の迸る憤りがやきつけられるのだった。

 富樫という書生もいた。書生といっても髭をはやしていて、おかみさんもうちにいた。おかみさんの方が、富樫よりも体が大きかった。富樫さんはノミの夫婦と云われていた。そばかすが頬にあるのを、わたしは珍しく思った。そして、はつ[#「はつ」に傍点]、これなんなの? と云って頬っぺたの雀斑をさわった。そしたら、はつ[#「はつ」に傍点]は、乱暴にくびをふってわたしの指をはらいのけ、どうせ、はつ[#「はつ」に傍点]はお母さまのようにきれいじゃありませんよ! と、わたしを自分のそばからつきのけた。そう云いながらぐんとつきのけた。その感じからはつがきらいになったほど、荒っぽくつきのけた。
 このはつ[#「はつ」に傍点]は、ある朝いきなり北海道からうちへ来た。そして、富樫とひどい喧嘩をした。紫の紋羽二重の羽織に丸髷で、母のところへ挨拶につれて来られても、母に何か云ってくってかかった。このときも、母は非常におこった。お前にこそ、富樫でも大事な御亭主だろうが、このひろい世間で、あんな男一匹が、という風に、母
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