スのだった。ボーイ・スカウトの指導者として来ている佐伯というひとは、甲板にあつまった見物人たちの前でスカウトのボーイたちに向って、君たち、よく見たまえ。この奥さんの方がいくら姿勢がいいか。みんなもそういう風にシャンとしているものだ、と云った。多計代は、仮装のとき、その夫人に向って佐伯という人が、奥さん、何てよく似合うんでしょう、僕、踊りたくなったと云っているのをきいていた。あれやこれやが、多計代の感情には男女の享楽的な雰囲気として、つよく刺戟的にうけとられた。そして、船室へかえって小枝までしかられた。日本の女は、男にこびるようにばかりしていて、みっともないと云って。
「わたし、そのときは何のことをおっしゃるのかわからなかったけれど、あとから思いあたったわ。いつだったか、わたしが珍しくおかあさまのお云いつけで日本服で食堂へでたことがあったでしょう。あのとき佐伯さんが、わたしにはずっと洋服の方がいいなんて云ったの、それを覚えていらしたのね」
 そういう話をする小枝の柔かな若い声のなかには、人生をたのしみたい無邪気なはげしい欲望が響いた。病弱だのに無理な海外旅行に出て来た多計代が、不健康なために自分からうばわれる楽しみの一つ一つに彼女流の道徳的な解釈をつけて、良人の泰造や若いものたちに不自然な心の重荷を負わせることになっているのがよくわかった。多計代が無理な旅行に出ているということが、何につけてもみんなの無理のかなめ[#「かなめ」に傍点]となっている。伸子は、多計代がパリか、ロンドンで長く臥《ね》つくようなことにならなければ幸だ、とまじめに思った。泰造の経済力は、そこまでの負担にたえるとは思えない。
「お母さまの健康、よっぽどひどいのかしら」
 だまってみんなの話をきいていた素子が、おこったように、
「見たってわかるじゃないか」
と云った。
「――お兄様、三井さんとお話しになったんじゃない?」
 多計代の信頼している家庭医の名を云って、小枝が和一郎をかえりみた。
「三井さんは、はじめっから絶対反対さ。医者として保証しないって云ったんだ」
 保が死んでから、多計代は見ちがえるように健康を失ったのだった。
「それでも、おっかさんがきかないもんだから、おやじも仕様がなくなったんだろう」
 そうならば、伸子は考えるのだった。つや子や和一郎夫婦をごたごたとひきつれて来るよりも、実質的に多計代をたすける能力をもった、語学ができてしっかりした女のひとを一人つれて来るべきだった。そのひとと、泰造の助手となれる若い男のひととを。――どうせ、多計代を中心にしての計画ならば、どうしてみんなはそういう風に、整理された旅行の方法を考えつかなかったのかしら。
「あなたがた、やっぱり一緒に来てみたかった?」
「冗談じゃないよ、姉さん!」
 心外この上ないという、にらむような表情で和一郎が伸子の言葉を否定した。
「僕たちは、来たいどころか、来ないですましたいと思って、いくたびことわったかしれやしない。使っていい金があるんなら、もうすこしあとんなってから、僕たち二人でちゃんと計画して来る方が、僕のためにもなるんだからって。――そりゃ、全くそうなのさ。小枝はおふくろの小間使い。僕は小使いなんて、志願するもんか。無理矢理さ。ついて来ればいいんだっていうから、ついて来ているだけだ」
 和一郎はそれだけをいうにも、見かけは柔和らしい面長の顔に、ふてくされてけわしくなっている神経の表情を浮ばせた。マルセーユ以来、和一郎自身は、そういう感情を両親に対してあらわに行動した。そのために小枝の立場は、いつも双方への心配にみちて、板ばさみにされているのだった。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で和一郎と小枝の結婚について多計代からの知らせをうけとったとき、伸子には、二人の結婚が多計代に承諾されたということさえ意外のようだった。和一郎にたのまれてモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ立って来る前の晩、人気ない洋風客間で彼が小枝と結婚する決心でいるということを立ち話したとき、多計代は何と云ったろう。多計代は、娘の伸子の顔にさぐるような視線をすえて、そんなこと言っていたかい? とそのひとことに、はっきり不承知をふくませた。和一郎のおくさんなんて! そのとき多計代は、小枝が夫を扶けて発展させるたちの女ではない、あんまり享楽的だ、と云った。そういう話を、弟にたのまれるままにひきうけて母に告げる伸子を、多計代は、煽動しないでおくれ、ときびしい声でとがめた。
 三月に式をあげて、五月下旬に両親やつや子とフランスへ出発して来た和一郎と小枝との結婚は、伸子がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で単純に思っていたように、とうとう若い二人も、がんばりぬいた、というだけの愛嬌のある婚礼ではないらしかった。和一郎や小枝としては、二人が結婚するということだけをがんばったつもりにちがいなかった。けれどもその要求は、多計代がどうしても外国旅行をしようと決心したについての老巧な計画性と、微妙にからみ合わされ、若い二人にとっては、ひとぎきだけ華やかな海外への新婚旅行として、まとめあげられてしまった形だった。
 和一郎は、憤懣にたえない若い男の口元の表情で、むきだしにそのいきさつを姉に説明した。
「小枝を小間使いにするためだってことがはじめっからわかれば、僕、決して、あのとき結婚するなんて云い出しゃしなかったんだ。のばして平気だったんだ――その点、僕、小枝にほんとにすまないことをしたと思っている」
 ホテルの小部屋で、寝台に並んでかけて話している和一郎のわきで、彼がそういうのをきくと小枝はさっと顔をあからめて涙ぐんだ。そして、何か云おうとしたが、やめた。
 結婚式についても、いずれ外国から帰ってのち改めて、ということで至極手軽にすまされたし、花嫁の結婚支度も、双方の親の話しあいで予算の三分の二はこんどの旅行の費用として、現金で泰造にわたされたということだった。
「――それで、それだけのお金は、あなたがたが持っているの?」
 伸子は、自然そういうことまで訊かないわけにいかなくなった。
「それが、そうじゃないんだ。一緒くたになってしまっているんだ。僕たち二人なら、出るたんびにタクシーにのるわけじゃないし、一流のレストランへ行きたいわけじゃないし、倹約に、能率的に、若いものらしくつかえるんだ。今のまんまなら、結局、総額は頭わりで、不合理きわまるのさ。おやじにだって、そんなことぐらいわかりきっているはずなんだ」
 若い二人は、船の上でも、パリへついてからでも、少額ずつ小遣いをあてがわれているだけだ、ということを、伸子は、その晩の話しで知らされたのだった。
 段々話が深く具体的になって行くにつれて、伸子は苦しくなった。そして、ことのいきさつ全体に恥しさを感じるのだった。和一郎と小枝の結婚を承認するということを、こんどの旅行へ結びつけた親たちのやりかた。伸子のきもちからみると、どことなくすっきりしない小枝の婚資のつかいかた。そと目に派手で、内実、それほど充実したものでない佐々の家の風からおこる無理、というより伸子に云わせれば、いやしさと知らない中流的ないやしさで、ごたついている一家の旅姿を、伸子はせつなく思うのだった。
 泰造の、いわゆる英国紳士らしい常識、良い判断とよばれているものが、このいきさつに関して一向はたらきをあらわしていないようなのも、新しく伸子を考えさせることだった。泰造はすっかり、多計代の企画にしたがっているだけのように思える。保が死んだ失望と歎きは、泰造の心もちを、そんなにうちくだいてしまったのだろうか。多計代のいうなりにする、ということの中に何か泰造の言葉にあらわさない保への供養があるのではないだろうか。ナポリで、上陸しない船の上から街の灯を見て泰造が泣いた、というみんなの話は、伸子の胸をさしとおした。みんなの病的に過敏にされている感情と、泰造の神経のつかれが感じられて。
 話したかったことを、ともかく話しきったという様子で、タバコをふかしはじめた和一郎に、長い沈黙ののち伸子はぽつり、ぽつり云った。
「何しろ、うちはむずかしいうちなのよ。小枝ちゃんだって、姪とお嫁さんと、こうまでちがうもんだっていうことは思わなかったでしょう? 佐々のうちには、たしかに特別つよく特徴があらわれているんだけれど、つまりは日本の旧い家族というものの考えかたよ、ね。それに日本の中流というものの経済的な貧弱さよ、ね」
 デュトに住んでいる画家の磯崎恭介とその美しくて忍耐深い妻の須美子が、故国の親との間にもっている辛い関係にしろ、佐々のうちでもめている事情の別の一面なのだった。
「外国へ出ると、誰でも一応日本のいろんなことから自由になったように思うし、自由にしていいはずだと思うから、矛盾がひどくわかって来るんだわ。自分の国で窮屈な思いをしている国の人ほど、外国へ出ると、外国は自由だと思ってのびようとするのよ。だけれど、ここでだって、セイヌ河からみもちの若い女の溺れた死骸が毎日あがっているのよ。新聞でみてるでしょう? 木炭ガスで自殺している貧しい親子があるわ。あなたがただって、もうどうせここまで来てしまっているんだもの、できるだけ智慧をはたらかせて、生活のいろんな面のなかから自分たちの方針を立てて行かなくちゃ。いま、和一郎さんが腹を立てているのも、もっともだけれど、だって、怒るために、何もパリまで来たわけじゃないんでしょう。ねえ、小枝ちゃん」
「わたしは、正直なところ、お兄さまがおこるのさえ、やめて下すったらと思うの。わたし、背中のぬけるぐらい、平気なのよ。すこしの間恥しいのを辛抱すれば、それでいいんですもの」
 船で、小枝が夜の服に着かえてから、多計代の和服の帯をしめる。暑い船室でのその仕事は、せっかく身じまいした小枝に汗をかかせて、薄い、きれいなレースや何かの夜の服の背中まで汗をにじませることがある。和一郎は、そういう小枝を見ると、不機嫌になるのだった。
「和一郎さん、それは御亭主のエゴイズムというものよ」
 伸子は、気のつまる話の末に、くつろぎたくて、
「そりゃ、小枝ちゃんみたいに、きれいな若い奥さんをもてば、汗をかかせている姿なんか見せたくないでしょうけれどね」
と、すこし笑った。
「小枝ちゃんの、いいところよ。そういういいところで、和一郎さん、もしかしたら、あなた小枝ちゃんの御亭主になれているのかもしれないのに」
 しかし、和一郎は、むっとしている顔つきをゆるめず、白眼の光る視線で伸子をちらりと見た。
「僕は、そういう自分の気分で、小枝のことをいうんじゃないんだ。小枝だって、僕の気もちを、姉さんにそういう風に話すなんて変だ。僕は、おっかさんの、あの荷物がいやなんだ」
 伸子の顔にも緊張があらわれた。和一郎は、保の分骨がはいっている錦のつつみものをさしているのだった。パリへついてからずっと、それは、いま二人とも出かけていないアンテルナシオナールの泰造と多計代の室の、奥に並んだ二つの寝台の間におかれている枕テーブルの上に飾られてあるのだった。
「僕たちにしろつや子にしろ、みんなおっかさんは気の毒だと思って、それぞれにやって来ているんだ。そうでも思わないんなら、ここまで来るもんか。それだのに、おっかさんときたら、ちょっと何か満足することがあると、そういうことは何でも彼でも、『彼』のおかげにするんだ。僕たちがやったことでもだよ。そして僕たちは、あらいざらいの気にくわないことの張本人にされる。生きてるものが、そんなに死んだものの犠牲にされるなんて、あることかい? そんなに『彼』がいいんなら、おっかさんは何だって、袋をもったりタクシーを止めたりすることだって『彼』にさせればいいんだ」
 和一郎が、多計代の携帯品である錦のつつみをきらう原因は、ただ保の肉体についての思い出からばかりではないのだった。
「僕は、ホテルの女中でも、あれを何かと間違えてなくしちゃいでもしたら、かえっていいと思ってるくらいだ」

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