つや子は、一人ぼっちで誰もいないひろい両親の室へ臥ているのをいやがって伸子、素子、和一郎、小枝とつまっている室の、一つのベッドにはいっていた。
若い四人は、つや子を眠ったものと思い――そう思ったというよりむしろそこにつや子がいるのを忘れて話していた。
和一郎のはげしい語気に、たれ一人口をきくものがなくて、ひっそりしたとき、伸子はふと、ベッドのなかでつや子が泣いているのに気づいた。伸子は、思わずはっとした。目で、ほかのものの注意をつや子のベッドの方へ向けさせた。
「つや子ちゃん、ごめんね」
伸子は立って行って、白い掛けものに顔をかくして泣いているつや子の、少女らしく汗ばんだ肩を撫でた。
「みんなであんまりいやな話ばかりして、泣けた? 大丈夫よ。ね。いちど話して、これから、気もちよくやるようにするんだから」
つや子は、伸子の頸に片方の腕をまきつけて、伸子の顔を涙でびっしょりになっている自分の顔にすりつけた。そして、しゃくりあげながら、
「そうじゃないの、そうじゃないの」
とささやいた。
「いいの、お兄さまが、みんな話すの、うれしいの。このひと、ほんとにどうしていいかわからなかったんですもの。――保ちゃんみたいに死んでしまえば、お母様は、このひとも可愛がってくださることと思っていたんだもの」
伸子は、だまってきつくつや子の体をだきしめた。伸子の眼にも涙があふれた。
五
うちのものがパリへ来てから、その日はじめて伸子は父の泰造と二人きりで外出した。ひるすこし前にいつものように親たちのとまっているホテル・アンテルナシオナールへ伸子が行くと、めずらしく泰造がまだ室にいて、手袋を買わなければ困ると云っているところだった。
「だって、あなた、この暑さに――手袋なんて」
小規模な上に、設備の不十分なホテル暮しで、じき七月十四日のパリ祭をむかえようとする都会の暑気を多計代は凌ぎがたく感じはじめているのだった。
「こっちの習慣で、夏でも正式の訪問には、手袋をもっていることになっているんですよ」
「おやおや。はめるためじゃなくて、持っているための手袋なんて――暑いのに御苦労さまだこと」
多計代は、そういうパリの習慣をおかしがるように、また、年をとっても外国の習慣には従順であろうとしている泰造を、おしゃれだと思っている眼で、娘をみて笑った。
「丁度伸ちゃんが来たから、一緒に行ってお買いになったらいいじゃありませんか」
そのとき和一郎も小枝も外出してしまっていた。それでも多計代が、伸子に出かけていい、というのは、気分のいい証拠だった。
「じゃ、そうしよう。じき伸子はかえしますからね」
男子の正式な訪問用手袋などというものを、どこで買っていいのか、伸子も知ってはいないのだった。ちゃんとした百貨店で、ちゃんとしたものを買えばいいのだろう。そう思って、伸子は売子の一人は必ず英語のわかるトロア・カルチエへ泰造と行った。泰造は、そこで鹿皮の手袋を、二種類買った。
トロア・カルチエの前の歩道のマロニエの樹かげにたたずんで、泰造は、
「さて、――どうしますか?」
と伸子に云った。これは泰造のくせだった。東京で、伸子が泰造の事務所へよって昼飯を一緒にたべたりしたあと、泰造はいつもこれを云った。そして、伸子の予定をきいた上で、そのまま別れることもあったし、どうせ、次の約束までにはまだ時間があるから、と伸子に便利なところまで車で送って来てくれることもあった。いま、パリの繁華なブルヴァールのマロニエの下で、
「さて、どうしますか?」
と、いつもながらの父の云いかたをきいて、伸子は何だか胸が急にいっぱいになるような、まごついたような心持になった。
「お父様は?」
娘としての習慣から、伸子はひとりでにそうききかえした。パリで、はじめて父と二人きりで外に出ているという条件は、その日の外出のはじめから伸子をいくらかふだんと違うこころもちにさせていた。伸子には、父にゆっくりと隔意なく訊いて見たいようなことがいろいろあるのだった。こんどのヨーロッパ旅行について、父のもっている全体の見とおしについて。それから、和一郎夫婦の処置について。それほどまとまったことでなくても、とにかく何かにつけて、おちおち父と話しているような落付きさえないホテル暮しの毎日が、伸子には苦しい。四十日の航海の間、絶えずしっくりと行かなかったらしい和一郎夫婦とのことが、泰造を苦しませていないわけはないだろうし、現在、和一郎が益々両親夫婦に反撥して、神経をたてている、それが父親である泰造に何も感じさせないこともあり得ないと思える。伸子には、しんみり父に甘えたい気分がある。それといっしょに気がかりなあれこれを年かさの娘らしく話しあってみたい心をもっているのだった。
ところが泰造の方は、せめてパリにいるときだけは日本のことからできるだけ離れていようとしているようだったし、外出している間だけでも、ホテル・アンテルナシオナールとそこの一室で、沢山の荷物とともにごたついている妻や息子たちのいざこざから自由になっている自分をたのしもうとしているようだった。
泰造は、そのときも、ふっさりとしりぶとな眉毛のある年よりの快活で血色のいい顔に、ひときわ屈托のなさそうな、明るい表情をたたえてプラタナスの樹かげにたたずんでいるのだったが、素早く指を一本立ててタクシーをとめた。
「いいチャンスだから、ひとつパリの骨董店を見せてあげよう」
泰造は運転手に向ってボナパルト街と、行先を告げながら腰をおろした。こんな風な骨董商歩きも、東京で、泰造と伸子とが一度ならずつれだったなぐさみである。
タクシーのなかで、伸子は軽く父の手を自分の手のなかへ執った。その動作で、泰造の注意を自分の言葉に集注させるようにしながら、
「ねえお父様、アンテルは、お母様にもう無理よ」
と云った。
「きのうも、ここには煽風機もないんだね、って歎いていらしたことよ。何とかしなくちゃ」
「うーむ。どうしたものかね……」
泰造は、避けて来ていた重苦しい問題の前に心ならずもひき据えられた表情になった。
「どこかさがしましょうよ。夏なんだから、もう少しは居心地いいところでなくちゃ、体のためにわるいわ。――お父様、賛成なさる?」
「そりゃ大いに賛成ですよ。しかし、さがすにしても時間がない」
「お父様が賛成なら、さがす方は、わたしたちがやるわ。ただ、わたしたちのつき合いは狭いんだから、お父様が、いろんな人に会ったとき心あたりをきいて下さらなくちゃ」
「そりゃいいとも! 早速そうしよう」
しばらく黙って、走っているタクシーの窓から街の風景を見ていた泰造は、不本意そうに、むしろ悲しんでいる語調でぽつんと云った。
「本来なら、こういうことは和一郎がするべきことだのに、あの男は一向動こうとしない。――船の中だって、そうだ」
保がいたら、と泰造は云わないのだった。伸子は、そこに泰造の泰造らしさを感じ、その心によりそった。
「和一郎さんたちは、あの人たちだけで、しばらく離しておいてやる方がいいんじゃないの?」
「或はそうかもしれない」
もう少し何か云いたそうな様子だったが、泰造はそれだけでやめた。
泰造と伸子とは、それから、三四軒、骨董商を見て歩いた。クラシックな趣味の建築家である泰造はルネッサンス前後の家具と陶器に着目した。この日の巡遊記念に、日本の柿右衛門をロココ風に模倣したセーブルの小さな白粉入れを伸子は泰造からもらった。
帰りに、泰造は伸子をつれてフリードランド・アヴェニューにあるホテル・キャンベルへよった。往きのタクシーの中での提案が早速実行にうつされたわけだった。泰造の知人がここに滞在していて、ほめていたということで、どこからどこまでこぢんまりと、行儀よく清楚な雰囲気のホテルであった。
「ホテルとしてはたしかにいいけれど。――でも、お母様にはどうかしら」
荷物がごたついたなかに、つや子の寝台まで夫婦の寝室においているアンテルナシオナールの室の光景を伸子は思いくらべた。
「お母様には、こんなところ、きゅうくつ[#「きゅうくつ」に傍点]じゃないかしら。ちんまりしすぎていて……」
多計代は、外国へ来ても、それが無作法でないかぎり、日本人の習慣で生活してわるい法はないと信じていて、そのとおり実行した。十三にもなった娘の寝台を、親たちの寝室のなかへおかせていることが、ホテルの召使いたちの目にどんな風に映るかなどということは問題にしなかった。伸子がそれとなく注意したとき、多計代は、
「伸ちゃんは、つや子がどんなに神経質だか知っているのかい?」
気色を害された顔で云った。
「お前ってひとは、何でもそうだ」
つや子を多計代からはなそうとするのを、防衛しようとでもするような眼づかいだった。
しっとりと物しずかなホテル・キャンベルの雰囲気と、多計代が身のまわりにもっている大がかりな空気とは、どこかそぐわないものであることを、泰造も直感したらしく、
「お前のおっかさんは、何しろひろい室でなくちゃ気に入らない人なんだから」
と云った。
アンテルナシオナールを引きはらうという計画は、多計代をよろこばせた。その話をきいて、小枝は、
「まあ! ほんと?」
輝く眼を見はって和一郎と顔を見合わせた。
「だから、和一郎さんも、その気になってうちさがしを手つだってくれなくちゃ駄目よ、ね」
単純に明るくそういう伸子に、
「うん」
和一郎は重く考えながら答えた。
「僕たちが、のりきになるのもよしあしなんだ。早く別になろうとして、珍しく御熱心だねなんてやられちゃ、やりきれないや」
「――そんな」
伸子は、こじれている和一郎の感情におどろいた。
「まさか!」
「ねえ、伸ちゃん」
多計代のいないところで、従姉としての伸子をよぶよびかたで、小枝は不安な身ごなしにあらわして云った。
「ほんとに、アンテルを引っこすとき、わたしたちだけ別になれるとお思いになる?」
「どうして? 別になれるような条件で見つけようとしているんじゃないの」
「もしそうできたら、どんなにいいでしょう」
和一郎は、やっぱり家さがしのために動かなかった。一箇所、これも泰造が教えられたアパルトマンがあって、そこへは多計代も一緒に見に行った。最新式の建築ということで、コルビュジエのガラスを多くつかった様式とアメリカのライト式をくみ合わせたような建てかただった。家具も直接的でパイプ椅子がおいてあるアパルトマンの室の天井は、思いきり低くて、風通しもよくなさそうだった。
「おや、これじゃまるで帝国ホテルだ!」
多計代のひとことが、泰造や伸子のうけた印象を率直にあらわした。内幸町の帝国ホテルの建てかたは、多計代の気に入っていず、泰造もすいていなかった。このアパルトマンの「最新式」は、要するに四階のところを五階にして、室数をふやしたための云いわけにすぎなかった。
伸子は、素子とつれだって、パリから一時間ほど郊外電車にのってアンギャンまで貸別荘を見に行ったりした。
貸別荘というのは、別荘の一部をかす、というわけで、つまりパンシオン式の食事つき貸室だった。家そのものは町の高みにあって、糸杉の生えた心地のいい庭園に面して露台のある広い室だった。別に、かりられる小室もあった。庭に面した広い室の露台に立つと、遠いむこうに湖の端がちらりと光って見えた。それは、そのおかげでその町が避暑地とされているアンギャンの湖であった。週末や、近づいている七月十四日祭の夜は、夜明け近くまで湖畔のパゴーラから音楽がひびき、踊る人々のさざめき、笑う声などが水の面をわたって、対岸の丘の中腹にあるその家の露台まできこえて来るのだろう。夏のパリの郊外らしい風情が想像された。
しかし、それも現実には多計代向きと云えなかった。パンシオンの食事にあきて多計代はきっと日本食をほしがるだろうし、そのために市内へ出るにしても、ここではタクシーがなかった。タクシーのないことは、泰造もここでは暮せないことを意味した。
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