「顔つきになったばかりだった。そして、それについて、ふた親の方から何も云わないとおり、伸子も何も云わない。多計代は、伸子のうけた衝撃について、全く理解しないのだった。伸子に、錦のつつみものの内容が、どんな苦痛を与えたか。多計代はそれを理解しなかったばかりでなく、期待したような表現で愁歎を示さない伸子を、やっぱり冷酷な娘と思ったことが伸子に、ひしひしとわかった。冷酷な姉になんか保は頭を下げて貰うに及ばないのだ。伸子は、多計代の眼のなかに、言葉となってそう光っている光をよみとった。一層伸子を苦しい思いにさせたのは、その瞬間の反撥の火花のなかで、多計代の結論が目に見えることだった。多計代の考えかたは、きまっていた。ロシア――ボルシェビキ――伸子の思想――と。多計代は、突嗟《とっさ》にそれを口に出して議論するだけまとまった反撥のよりどころを伸子に対してもっているわけではないのだった。
 錦のつつみもの、そのものから直接にうけた衝撃と、それをきっかけにはたらいた多計代の態度への苦しさとが加わって、伸子はかたくなな心になった。保へのいとしさから、伸子がそっと錦のつつみの上に手を置くことがあるとすれば、それは誰もいないとき、誰も見ないとき、そういうときだけされることなのだった。
 和一郎と小枝にくっついて行っていたつや子が、室へもどって来た。ドアを入りしな、つや子は素早い視線を煖炉棚へ向けた。そして、そこにのせられているものを見ると、強いてそれを見なかったような、そんな表情を少女の顔の上に浮べた。
 伸子は感じるのだった。この様子でみればつや子も、おそらくは和一郎も小枝も、心のなかではこの錦の包みものを重荷として感じているのだ、と。泰造さえ、あるいは、こういう形で保をつれまわることを、多計代の満足のためにだけうけ入れているのかもしれなかった。多計代をのぞく佐々のうちのものは、みんな目前に生きていて、あるときは自然に、あるときは軽率に生活を肯定してゆくたちの者たちなのだった。
 あくる日の朝、パリへ向けて出発するまで一昼夜たらずの間に、伸子が、うけた印象は非常に複雑だった。複雑になる根柢には、多計代の健康が弱っているという事情があった。それに加えてもう一つの原因があった。それは多計代が、迎えに来た伸子をいれて目に見える一行六人のほかに、見えないもう一人保という存在をはっきり自分の感情のなかにおいて、旅行に出て来ているという事実だった。
 夜ねる前に和一郎と小枝の部屋へ行ったとき、伸子は、
「おかあさま、船のなかでも、あの錦へつつんだもの、ああやってずっと飾っていらしたの?」
ときいた。小枝は、若い良人である和一郎の方を見ながら、
「そうなの」
 当惑そうに答えた。
「お兄さまは、うんといやがってるんだけれど……」
 こんどの旅行に出る二ヵ月ばかり前に、思いあっていた従兄である和一郎と結婚したばかりの小枝は、こまかい事実を知らないだろうけれども、去年の八月、暑中休暇のがらんとした動坂の家で、姿の見えなくなった弟の保をさがして、父の泰造と二人、竹藪のなかや古井戸をしらべたのは和一郎であった。土蔵の地下室に保を発見したのも、そこから運びだしたのも和一郎であった。和一郎の記憶は錦のつつみを見るごとに刺戟され、それは新婚の彼にとって苦痛であることが、伸子には同情をもって思いやれるのだった。
「おっかさん一人で旅行しているんなら、すきなとおりにしたらいいのさ。でも僕たちは、やりきれやしない。つや子だって、あれから、ずっと妙になっているのに」
 和一郎のそういう言葉の調子には、船にのっていた四十日の間に、たまって来ている感情のくすぶりが抑えようもなく響くのだった。
「パリへ行けば、あなたがたの逃げ場もあってよ」
 深い話をさけて、伸子は冗談のように云った。ノアイユでの午後に見られたいくつかの情景――たとえば、マルセーユ市街見物に泰造と和一郎が出かける。小枝もつれて行こうかどうしようかという場合のごたつきかた、それからホテルの食堂での晩餐のとき多計代が小枝にもとめたこまかいサーヴィスの模様。小枝がこんなにも多計代の気にいっていないという発見は伸子を困却させた。二十一になったばかりで苦労を知らず、人につかえた経験のない小枝が、伯母であって姑という関係におかれるようになった多計代に対して、どう親愛をあらわして行ったらいいのか、気おくれがさきに立って、自分からきっかけがつかめないでいる様子を、多計代はじりじりしたまなざしで、追っているようだった。
 晩餐後、伸子は、父の泰造とホテルのロビーへ出て行った。遠洋航海の果てにある港の都市のホテルらしく、ロビーは華美で逸楽の色彩にあふれている。そのころ流行のスペイン風のショールをむきだしの肩にかけたりして、それと見まがうことのない身なり化粧の女たちが、多勢あちこちにたたずんだり、ぶらぶら歩いたりしていた。泰造と伸子とは、そのロビーの植込みのかげにひっこんだしずかな一隅で、トマス・クック会社の店の男と明日のパリ行列車の切符についてうち合わせた。伸子は、船で一緒だった人々と別れて、六人もいるうちのものだけ、特二等という車室にすることを力説した。トマス・クックの店のものの説明によると、その車室は、マルセーユ※[#二分ダーシ、1−3−92]パリ間だけに接続されるもので、アメリカからの観光客のために、プルマン式に、開放的につくられている車室だった。きょうマルセーユについた外国船はカトリ丸一艘だから、あしたその車室もすいているというのだった。
「わたしはその車室を推薦します。四十日間小さい箱に入って旅行して来た人たちには、開放された席の方がいいでしょう」
 トマス・クックの男に伸子はそう云った。
「ねえお父様、一等にしなけりゃほかの人たちに対して御都合がわるい? さっきみたいなことが、あした汽車にのっている間じゅうつづいたら、面倒じゃない?」
 ホテル・ノアイユには、その日カトリ丸から上陸するとすぐにパリ行の列車へのってしまわなかった、幾組かの日本人がとまっていた。晩餐のために食堂へ出た佐々の六人が円くかけたテーブルは、間接照明にてらされている大食堂の、噴水の奥で、水滴の音の爽やかな気持のいい場所だった。木《こ》がくれたような風情をもったそのあたりには、金色のスタンドをつけて、幾組かの粋《いき》な二人用小卓もしつらえられているのだった。海辺のホテルでの献立には新鮮な魚介もあって、多計代は満足した表情で、あたりを見まわしていた。その多計代の目が、ふと、そのどれにも、華やかな夜のなりをした女と男とむかいあっている小テーブルの一つにとまった。
「おや、小枝さん、あすこのテーブルは、大高さんじゃないかい」
 前から、その小卓に、眼隈の濃いマルセーユの女とさし向いでいる日本人に気づいていたらしい小枝は、
「さあ」
と、云ったきり、そちらを見ようとせず、うっすり赧い顔になった。
「そうだろう? 和一郎さん」
「よくわからない」
「おかしいこと! みんな急に目が悪くでもなったようだね。わたしの眼はわるいけれど、ちゃんと見えますよ」
 銀色のシャンパン冷しをわきにおいたテーブルの上に両肱を立て、こちらに横顔を見せながら女に何か囁いていたその半礼装の日本の男は、あいての女の視線が急に好奇心でひきつれられた方角を追いかけて、ひょいと佐々の家族が囲んでいる円卓の方へ、酔いの出ているその顔を向けた。彼はすぐ顔をもどして、女に何か云い、女もほほえみをたたえたままじっと多計代の和服姿に注いでいた視線をそらした。伸子のかけているところからはすっかりその様子が見えた。
 多計代は、食慾をそこなう不快なものをさけるように、椅子の上で少し体をむきかわらした。
「けさのけさまで、あんなに奥さんのお産を心配しているようなことを云って、みんなの同情を買っておきながら――あれが、大任を負った軍人さんのすることだろうかね」
 困った表情で、泰造は、用のすんだ献立表をまた手にとって見るようにしながら、
「船でのつき合いは、船の上だけということにしておきなさい。そういうものだ」
「そりゃそうでしょうけれど」
 なお執拗に多計代はこだわった。
「ひとをふみつけるにも程がある――」
「おかあさまあ」
 いとわしそうに、悲しそうに、つや子が大粒のダイヤモンドで飾られている母の手をひっぱった。
 食堂につづいたテラスへ出てコーヒーをのみながら、多計代は、船旅の模様を知らない伸子あいてに、また大高の話題へもどった。ひまをもてあましているカトリ丸の一等船客たちのサロンで、飛行将校である大高が、自分の優越感をたのしみながら、愛国の情に感激した調子で、飛行機の秘密をさぐるためにイギリスへ派遣されてゆくことについて講演したりした雰囲気が、多計代の話ぶりから伸子にもまざまざと描かれた。
「どんな小さい秘密でも、知る機会があったら国のために協力してほしい、なんて云っておきながら。――あの様子を見せられちゃ、口車だとしか思えやしない」
 大高の上陸第一夜の放蕩についてそれほど不機嫌になって拘泥する多計代の心理を、伸子は単純に、いつもの母の正義派がはじまったとだけ理解した。
「ひとのことはひとにまかせておおきなさいよ、おかあさま」
 伸子は、淡白に云った。
「外国へ来て、ひとはどうせいろんなことをするんだもの。厚かましいやりかたにはちがいないけれど、いちいち、それを気にしていちゃ、御自分が愉快になるひまがなくなってしまう」
「伸ちゃんは、あいかわらずだ」
 まるで、一年半わかれていても、そういう伸子を見出すのを待って来たとでもいうように、多計代は先入観でかたまった声を出した。
「伸ちゃんがエゴイストだってことはわかっていますよ」
 苦笑してだまっているために、伸子は努力した。そして心のなかに思うのだった。四十日も、船のなかでごちゃごちゃして来たのがわるいのだ。みんなが少し、神経をどうかしている。早くパリへ行くことだ。そしてそれぞれに気をちらすことだ、と。
 伸子はつや子をつれて別に部屋をとり、そちらで眠るつもりだった。けれども、多計代の主張で、夫婦の寝室にもう一台寝台がはいり、伸子もそこへ泊ることになった。
 日本浴衣のねまきに着換えた多計代は、煖炉棚の上においてある錦のつつみものに向って、よく響くかしわで[#「かしわで」に傍点]を二つうちならした。それから、寝台にはいった。伸子は、気まずい思いでその儀式の終るのを待って、多計代のわきへ横になった。母のもう片方の側には、つや子がくっついた。
「おかあさま、うれしい? サンドウィッチだから」
 昼間のいろいろなことであんなに伸子を傷つけた、そのひととは思えないうれしさのあふれた眼つきで、多計代は大きい白い枕の上で、頭をあっちに動かして、いくらか汗っぽい下の娘の十三歳の顔を眺め、こんどは頭をこっちに向けて、さっぱりしたうちにも、表情の成熟して来ている三十歳の伸子の顔を見た。そして、伸子がきかえた薄黄色地に小花模様の両腕の出る寝間着を、
「かわいくて、いいこと」
とほめた。
「それにしても、よく吉見さんが伸ちゃんを一人でよこしたね」
 そんなことを云っている多計代はほとんどあどけないようで、一つ枕の上に並んだ多計代の髪が前髪をつめられ、八分どおり白くなっていることも、そこに不手際に黒チックが塗られていることも、伸子の心を動かすのだった。若いうちから最近まで多計代の御自慢だった、顎から喉へかけての柔かくゆたかな線がやせたためにゆるんで、喉に、年よりらしい二つのすじが立って見える。多計代の柔かな顎の下へ伸子は顔をおしつけた。伸子は小さな声で、
「やっぱりおかあさまのにおいがする」
と云った。
「何だろう、この人ったら。牛の子みたいだよ」
「こっち向いて! おかあさま。このひとも牛の子にして」
 電燈を消そうという気になる者のいない寝室で、妻と二人の娘が一つ寝台の中でごたついている光景を、泰造は隣りの寝台からまばたきもしないで眺めていて、笑った。
「なか
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