ハりぬけるがらんとした控間のすれた赤いカーペットの上には、二つの大きい鋲うちの航海用トランク、泰造用のインノヴェーション・トランク、そのほか大トランク、小トランク、荷物の山がある。奥の寝室には、夫婦のための二つの寝台のほかに、もう一つ、つや子のベッドまで入れてあって、どの寝台も起きたままだった。ひろい部屋じゅうは混雑していて、引越し最中のように落付かなかった。椅子の上に、多計代の手まわりのスーツ・ケースがふたをあけてのせてあった。多計代は、ねまきの手綱染めの単衣《ひとえ》の上に伊達巻をしめた姿で、化粧台に背をもたせ、もう一つの椅子に素足の両足をのせていた。泰造は一つのベッドの上にはすにかけ、和一郎は、窓じきりにもたれて、むっつりとした表情でいる。
三人のそんな様子、小枝のよろこびかた。マルセーユでうちのものと一緒になってからきょうで四日目の伸子には、およそのいきさつが察しられるようになった。伸子は、
「お早うございます」
あっさり父親に挨拶して、多計代のそばへよって行った。
「いかが? お眠れになって? つかれは?――ゆっくりしてごらんになると、やっぱり相当でしょう?」
「ああ、お早う。よく来られたね」
素子に向って多計代は、
「ごめんこうむりますよ、脚がむくんでしまって痛いもんだから」
と、椅子に足をのばしている云いわけをした。
「どうぞ、どうぞ」
多計代は、髪を結ったばかりでいるけれども、泰造も和一郎もきちんとした服装だった。朝飯はすまされ、コーヒー道具が、壁ぎわのテーブルに片よせてある。
「さて、それじゃ伸子も来てくれたから、わたしはそろそろ出かけますよ」
泰造が、そう云ってベッドから立った。多計代は、椅子の上に足をのばしたまま、視線を泰造の動きにからませて、
「あなた、それで、何時ごろお帰りです?」
ときいた。
「早めに帰っていただかなけりゃ。豊原さんたちのお迎えが何時ごろ来るのか、わたしは伺っていませんよ」
「大丈夫だ、夕方までには帰ります」
泰造が控間で身じたくして出てゆくと、多計代は、
「さあ、あなたがたも出かけたらいいだろう」
不機嫌に窓ぎわに立っている和一郎に云った。伸子が日本にいたころの和一郎は、美術学校の最上級生だった。この春卒業して、父の事務所につとめはじめた。和一郎は、若い良人らしく大人びた。和一郎は、純白のカラーの上に、神経質な口元をむすんで、返事しない。
「だれもとめてやしないんだから、出かけたらいいじゃないか。小枝さんをごらんなさい。もうさっきからすっかり支度ができて、お待ちかねですよ」
多計代の云いかたには、小枝のために、伸子を苦しくさせる響きがあった。きかないふりをしている小枝の、おとなしい顔が、案の定こころもち赧《あか》らんだ。小枝は、ちょっと居場所のないような身のこなしをしたが、
「おかあさま、お召をそろえましょうか」
つとめて、話題をかえるように云った。
「どれをだしましょう」
「そうねえ、夕方までは、どうせどこへも出ないんだから何でもいいけれど。――あの裏葉色の裾模様はどこに入れたっけ」
「さあ。――船で召さなかった新しい方のでしょう?」
小枝はこまったように、
「大トランクの方だったように思いますけれど――見ましょう」
大トランクというのは、控間の方に置いてある鋲うちの入れものの方だった。
伸子は、小枝について控間に出て行った。そして、正直に自分でトランクの鍵をあけようとする小枝をとめて、大きい声で、
「和一郎さん、ちょっと来て」
とよんだ。
「鍵がうまくまわらない」
和一郎が来て、トランクの鍵はもとよりすぐあいた。伸子は、多計代にきこえない小声で和一郎に云った。
「あなたまで不機嫌にしていちゃ、小枝ちゃんはどうしていいかわかりゃしないことよ。――出かけなさい。ひきうけるから。――いい?」
和一郎は、
「うん」
と云った。
「夕方ちょっとかえっていらっしゃいね。そして、おかあさまたちを送り出してから、みんなで夕飯に出かけましょう」
「ああ」
「さ、行った方がいいことよ」
和一郎はそのまま控間から出て自分たちの部屋へ帽子をとりに行った。しかし、小枝はそれについて一緒に行こうとせず、一人だけのこって大トランクにかがみこみ、つまれた衣類を一枚一枚丁寧にわきへどけながら、云われた着物を見つけようとしているのだった。
「これだけの中を、ほじくりかえすのじゃ、とてもだわ。いいわよ、小枝ちゃん、わたしがあとでゆっくり見ておいてあげるから」
小枝の気づかいがひどくて、伸子は見かねた。同時に、多計代との間にそういう習慣をつくり出してしまった和一郎や小枝その人に対して、はがゆい気持が湧いても来る。伸子はこっちの部屋から、
「それでいいでしょう?」
と寝室の多計代に声をかけた。
「ついでに、キモノ展覧会をしていただくわ。よくこんなにもって来られたこと」
そこへ和一郎が帽子をもって入って来た。
「そら小枝さん」
こんどは多計代が、和一郎の機嫌をとり結ぼうとしてトランクのところにいる小枝をせきたてた。
「あなたも早く帽子をかぶっておいでなさいよ。和一郎さんは、もうそれで出られるんだろう?」
「ああ」
「もういいから。――小枝さん」
やっと若い一組が外出した。
多計代は、
「やれ、やれ、相もかわらずひと騒動だ」
と椅子にもたれこんだ。
「小枝さんてひとは、ほんとに何をさせてもお姫様のなぎなた[#「なぎなた」に傍点]だからねえ」
甲斐性がなくて、ずるずるしているというわけらしかった。伸子には、あんなに美しく、樹のぼり上手と云われていた女学生の小枝が、嫁という立場では全く自信をなくして、おどおどしている様子ばかり目にはいるのだった。
ひとやすみしてから、多計代は化粧台に向きなおってゆっくり化粧にとりかかった。毛のさきをぷつんと短くきった細筆のさきに桐をやいてこしらえた軽い墨をつけて、両眉をかわりばんこにもち上げて、口をすぼめるような表情で鏡を見ながら眉を描く手つき。手鏡を顔ちかくよせて、仕上りをしらべるまじめな顔つき。実の娘の伸子の前では、多計代ものんびりと一人きりのように化粧に専念している。伸子も、何年ぶりかで母の化粧するのをわきから見ていて、その家庭的な情景を珍しく、ある興味をもって意識するのだった。
素子はさっきから、ぎごちない空気のみなぎっている寝室をさけて、控間の露台に出て行っていた。そこからはディエナ通が見おろせた。つや子も素子について、そっちにいる。
そばでみると、多計代の髪は随分白くなっていた。それを、上から黒チックで黒くして、前髪のつまった束髪に結っているのだったが、黒チックは多計代の形のいい額の生えぎわをきたなくしているようだった。伸子は、
「おかあさま、もしかしたら、そのチックやめてみたら」
と云った。
「地のまんまの方が立派じゃないかしら。血色のさえた顔色をしていらっしゃるんだから、かえって引立つと思うけれど……」
「さあねえ……」
伸子のいうことには賛成できない風で手鏡を見ていた多計代は、一遍化粧台の上においた眉筆をまたとりあげた。そして、両方の眉のはじまりのところを、すこしずつ強く黒くした。そうすると、眉に起筆のアクセントのような調子がついて、いわばその不自然さが多計代の若いときからの美貌の特色をはっきりさせるのだった。
古びた紅いカーペットをしきつめて寝室のごたごたしたなかで化粧する多計代の手もとに気をとられながら、伸子の心の底は何かの不安――どうかしなければならないことの予感にみたされているのだった。
三
七月の晴れた朝のマルセーユの港で、まだ船からおりずにいるうちのものの姿を見たとき、特に父の泰造の顔とやつれきった多計代の様子を見たとき、伸子の心はしめつけられて、ほんとにみんなのために頼りになり、役に立たなければならないと思った。みんなの必要が、たとえ伸子としてどう判断されるにしろ、それを批評するよりは実際的に解決してゆく力とならなければならない。それは、この長い旅行をとおして泰造の負担を軽くすることでもある。伸子はそう決心して、マルセーユのホテル・ノアイユの一晩を、早くから横になった多計代のベッドのわきにいて過したのだった。
その一晩で、佐々の全家族のこんどの旅行のむつかしさが、伸子に、はっきり感じられた。伸子をおどろかしたのは、みんなの心もちが、なぜだかひどくくいちがっていて、それがむつかしく入りくんでいることだった。長い長い航海のあげくマルセーユへ上陸したのだから、一家一同くつろいで、しんみりと、この一年半わかれていた間におこったことが話されるだろう。伸子はそう期待した。保のことを話して、多計代はどんなに新しく歎くことだろう。あるいは、伸子をせめるかもしれない。伸子はそれをおそれた。伸ちゃんの顔を見たら、もうわたしは動きたくなくなった、と云われることさえ想像した。船の上に見た多計代は、そのくらい憔悴《しょうすい》していた。
ホテル・ノアイユへ着いてひと休みし、和一郎と小枝とが自分たちの室へひきとってゆくと、多計代はそれを待っていたように、
「お父様、すみませんが、あれを出して下さいまし」
と、泰造に云った。そんなにいそいで出さなければならないあれというのは何だろう。伸子はそう思って、泰造が背広の背中をこちらに向けて、黒皮のボストン・バッグをあけるのを見守っていた。泰造は、銀色っぽい錦のきれで包まれた小型の壺の形をしたものを両手の間にもって、そこに立ったまま、
「どこへ置くかね」
クリーム色のびろうどで張られた長椅子の上にいる多計代にきいた。
「さあ」
多計代は、港町のホテルらしく華美に飾られている室内を見まわしていたが、
「すみませんがそこへ置いて下さいまし」
鏡のついている高い炉棚の前をさした。それは多計代がその上に半ば横になっている長椅子の後方だった。泰造は、多計代のたのみのままに、銀色の錦の包みものを両手で、恭々《うやうや》しくそこにのせた。
伸子は、唇の色が変ってゆくような気持になった。それは保だということがわかったのだった。その銀色の錦のきれにつつまれた小箱は保の一部分なのだ。思いがけない衝撃で、伸子はかけている椅子の上で体じゅうがこわばった。そして目の中に、苦い汁が湧いた。伸子の心に保は生きている。――死んでしまったいとしい保として、生きている保よりなお哀切に生きている。八月一日という日は、伸子にとって、いまもなお平静に感じることもきくこともできにくい日づけである。日本から来たうちのものみんなの心の中に保もはいって来ていると思えばこそ、伸子はその心と結びつこうとする自分を実感し、それに対して誠実であろうとしているのだった。
痛切に愛しているものが、どうして、その愛するものの骨をもち歩くことに耐えるだろう。保に関するちょっとしたヒントにさえ、ほとんど肉体的な鮮やかさで死んでも生きている保を感じて、さむけだつような伸子に、ホテルの炉棚の上の骨箱との対面は、あんまりだった。伸子は、暗い刺すような視線でその錦の箱を見すえたまま、息をつめ、頸をこわばらしたまま声も立てなかった。伸子は、マルセーユのホテルでひとことの前おきなしに保の骨を出しかけられようとは考えてもいなかった。
多計代は口をきかない。泰造もだまっている。ものを云えず、体もうごかせないようになった娘の自分を見つめて、ふた親が沈黙しているということにさえ、伸子は、しばらく気づかなかった。我にかえって、その異様な雰囲気をさとり、それが、多計代にどううけとられているかを直感したとき、伸子は両手で顔をおおいたかった。
多計代は、伸子をためしたのだった。伸子は、はっきりそう感じた。錦のつつみものが保だとさとったとき、伸子はそれにすがって泣きでもするだろうか。あるいは椅子から立ってお辞儀でもするだろうか。そうならば、それは多計代に伸子のやさしさが示されたことであった。だが伸子は涙をこぼさず、ただ蒼ざめて、こわいこわ
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