フ木曜会なるものの性格が伸子に断面を開いたような感じだった。ここも一種の学界みたいなのだろう。先輩後輩の関係やら会員同士にもいろいろと面倒くさい留学生らしい感情があるのだろう。その木曜会のしきたりにとって、伸子のもの云いの簡明率直さはおのずと笑いを誘うようなところがあるだろう。伸子に質問している人が、格式にかかわらず、学問上のことについては若い専門家たちから批評をもって見られている人であるらしい感じもうけた。
血色いい角顔に半白の髭をつけて、金杉英五郎にどこか似た面ざしのその人は、伸子の話から一座に流れたソヴェトに対する好感的な印象を、そのまま人々の胸に沈められることをきらうらしかった。
「医学にかぎらず、すべて学問というものは、学問それ自身として重大な多くの問題をもっているものなんでね。あなたに云っても無理だろうが、まああなたの話は、要するに医学というよりもソヴェトというところの社会状態の紹介さね」
ここにいる学者たちにとって、それだけで価値をみるには足りないのだ、ということを伸子にわからせ、同時にほかのききての自尊心も刺戟しようとするようだった。
「ところで、どうですかな、予防医学なんかの方面は――」
「――予防医学って――結核や流行病の予防なんかのことでしょうか」
伸子は津山進治郎にきいた。
「そんなようなことです」
「結核のサナトリアムは随分できていますが――どうなんでしょう」
伸子は不確に答えた。
「御承知のとおり一九二二年、三年まで、饑饉のチフスであれだけ死んだんですから、ソヴェトは決して無関心だとは思えません。でも、一般に予防注射なんかどの程度やっているかしら……」
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に一年半ちかくいた間に、伸子たちはそういう場合にめぐりあわなかった。
「性病予防の知識を普及させることは労働者クラブなんかでも随分行きとどいてやられて居ります」
「そりゃそうだろう」
半白の髭をつけた人は、満足そうにうなずいた。
「かなりな乱脈ぶりらしいからね。政府としても放っちゃおかれまい」
ソヴェトでは女が共有されているとか、乱婚が行われているとかいう種類のつくり話を否定しきろうとせずに、その半白の頭の中にうかべているらしいそのときの表情だった。
「いずれにしろ、現在予防医学の進歩しているところはアメリカだね。つぎが、戦前のドイツ」
「でもね」
その人がひとつひとつにひっかかってくる云いかたにだまっていにくい気持につき動かされた伸子は、
「この間、宮井準之助さんがジェネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の国際連盟で報告なさるとき」
と、木曜会員なら知らないわけにゆかない、知名な伝染病と予防医学の大家の名をあげた。
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へよって何かしらべていらっしゃいました。案外、何かあったんじゃないでしょうか。予防医学という学問そのものとして[#「学問そのものとして」に傍点]……」
聴いていた素子が、にやりとしてこころもち顎をつき出すような形でわきを向いた。その素子を見たとたん、伸子は、ほんとだった。なんてばかばかしい! と自分がひっかかっていた予防医学という専門語の鉤《かぎ》から身をふりほどいた。この医者は伸子がまごつくような質問をするためにだけ質問しているのだった。伸子の話をすらりときいていた人なら、ソヴェトでは予防医学というものの枠がひろげられていて、予防注射とかワクチン製造とかいうせまい範囲から、もっと広く深く勤労生活の日常そのものを健康にしてゆこうとする現実に移って来ている事実がいくつもの実例のうちに理解されたはずだった。伸子の話全体が、いわば新しい予防医学の現実だったのに。――そのことに思いついて、伸子はあらたまった顔つきになった。彼女は半ばその半白の髭の人に向い、半ばその席にいあわせるすべての人に向って、
「ちょっと、ひとこと追加させていただきます」
椅子にかけたまま、にぎりあわせた両手をテーブルの上において云い足した。
「みなさまは、いつも専門的な言葉でばかり話される報告に馴れていらしって、わたしのように、あたりまえの言葉で毎日の生活の中から話す話は、よっぽど、おききになりにくかったんだろうと思います。さもなければ、失礼でございますが、ただいまの御質問ね」
と、伸子はさっきから、伸子の話が与えた印象をつき崩そうとしている父親のような年配の半白の髭の人に向って、云った。
「ああいう御質問は出なかったんじゃないでしょうか。――ああいう御質問いただくと、なんだか、わたしのお話したことを、どこできいて頂いていたのか、わからないみたいで……」
控えめだがおさえきれない笑いがカミンのわきにかたまっている人々の間から湧いた。それはテーブルのぐるりまで波及した。
「どっちみち、みなさまソヴェトの様子は御自分でじかに見ていらっしゃるのが一番いいんです」
伸子は、本気で他意なくみなにそれをすすめた。
「わたしの話をもの足りなくお思いになったり、半信半疑でいらっしゃるのは、当然だわ。よそと全くちがうんですもの。ほんとに、どなたにしろ、行って御覧になればいいのに――経験も自信もおありになるんだから……ここからモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]までは一晩よ」
そう云って、伸子は反響をもとめるように若い人々がかたまっているカミンの横の席の方を眺めた。さっき、怜悧で皮肉な微笑を泛べながら伸子を見ていたひとは、やっぱり腕組みした肩を軽くカミンにもたせ、くみ合わせた脚をふっているが、視点は低く足許のどこかにおかれている。テーブルに向っている半白の髭のひとは、こげ茶色の服を着て鼻髭のある隣席のひとと、伸子にはそれが伸子を無視したことを示すものだと感じとれる態度で私語しはじめた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へみんなが自分で行って見て来るように、という伸子の実際的なすすめは、その夜、伸子が話したどの言葉よりも吸収されずに、伸子のそういう声がひびいたそのところにそのままかかっているのだった。
ひきつづいて何かうち合わせをするという皆より一足さきにその室をでるとき、伸子と素子とは木曜会の客として、来週のうちに二ヵ所で行われる見学――セント・クララ病院とベルリン未決監獄の病舎の視察に招待された。提案をしたのは津山進治郎であった。それはあっさり通った。伸子のまたいとこにあたる津山進治郎は、ただ一人の医学博士であるというばかりでなく木曜会には何かの角度から発言権をもつ存在であることが感じられた。
あと味のわるい気もちで、伸子と素子は息ぐるしい室を出た。そして、控間へ出たとき、伸子はそこに思いがけないものを見た。そこから奥の室にいた伸子が丁度見える控間の一隅に、人むれができていた。伸子たちが奥から出て来ると同時にそのかたまりもほぐれて、玄関のホールへ出てゆく人たちの後姿、廊下から階段をのぼってゆく人々。まだそこに佇んでタバコをつけながら、通りがかる伸子と素子とを目送している人達。こんなところに立って話をきいていた人々があった。ベルリンには日本人が千人あまりもいるそうで、そこに三々五々見えている人たちの中に伸子の知った顔はなかった。でも、その人たちは、そこで伸子の話をきき、自然な雰囲気で、出て来る伸子にふれた。冷淡にその人々の間を通りぬけてしまってはわるいと感じた素振りで、伸子は、ちょっと歩調をゆるめた。しかし、何ということもなくて伸子は、身のこなし総体にさようなら、という気持をあらわしながら、日本人クラブの玄関を出た。
重くカーテンをしめこんだ室内では、夜更けのようだった午後九時すぎも、戸外へでてみるとまだほのかに明るい初夏の宵だった。どれも同じな薄黄色い正面入口から歩道へおりて来る伸子と素子に、
「――御苦労さま」
リンデンの街路樹の下にいた日本人のかたまりの中から、中館公一郎の声がよびかけた。
「なんだ、みんな来てたのか」
すぐ素子がよって行った。
「きいていらしたの?」
きまりわるそうにいう伸子に、
「初舞台《デビュー》だっていうのに、きかなくちゃわるいだろうと思ってさ。すすめた義理もあってね。万障くりあわせ」
答えたのは、背の高い頭にベレーをかぶった川瀬勇だった。
もち前のやわらかな口調で、
「佐々さんて、相当なもんなんですねえ」
中館公一郎がいつも、まじめな内容をさらりという調子で云った。
「お歴々一視同仁という光景はなかなかよかった」
伸子は、のぼせている頬に手の甲をあてながら、
「でも、あの半白なひと。――意地わるねえ」
子供らしく訴えた。
「ありゃ、ちょいと来ている男だね。視察にね――はやりだから」
芝居がはねでもしたあとのように素子が、わきから、
「とにかく、わたしは喉がかわいちゃった」
と云った。
「どっかへ行こうじゃありませんか」
「――ビールでもいいのかな」
「いいさ」
「佐々君はこまるんじゃない?」
川瀬勇が、青年らしい気くばりでわきに立っている伸子をかえりみた。
「今夜は、佐々君が主賓なんだから」
「いいわ、何かたべられるところなら。――わたしおなかがすいちゃった」
さもあろうという風にみんなが笑った。伸子たちをいれて六人ばかりのものは、ベルリンの白夜とでもいうように薄明い夜の通りをぶらぶら歩きだした。
同じベルリンにいる日本人と云っても、この人たちと、今伸子たちがそこから出て来た日本人クラブの奥の室にいた連中とは、何というちがいだろう。年齢や職業がちがうばかりでなく顔だち、身なり、気分、住んでいる世界ががらりとちがっているのだ。
六人の日本人がやがて腰をおろしたのは、繁華なクール・フールステンの通りの近くでベルリンでもビールがうまいので有名な一軒の店だった。カフェーよりも間口がひろびろとしていて、そのかわり奥のあさい店は三方に煌く鏡の上に賑やかな店内の光景を映している。
一隅にテーブルを見つけてかけた伸子たち一行の前へ、ガラスのビールのみになみなみとたたえられた美しい琥珀色の液体がくばられた。
「佐々君の初舞台の成功を祝す」
川瀬勇がわざと芝居がかりで云った。みんな笑いながら互にビールのみのふちをかち合わせ、男の連中は一息で三分の一ほどのみ干した。
「――こんやは特別うまい……やっぱり、もう夏だよ」
「こりゃいい。――ぶこちゃん」
乾杯のためにビールのみをもち上げただけで、川瀬が注文してくれたサラダを待っている伸子に、素子が云った。
「これなら大丈夫だよ、アルコールなんかとても少いもん――うまいなあ」
伸子は、ひとくち飲んで、そのビールの軽い芳ばしさと、甘いようなほろ苦さを快く口のなかにしみとおらせた。
「こまったわね、これは飲まないでいる方がむずかしい」
「ははははは、けだし真なり、ですね」
中館公一郎が賛成した。
「でもフロムゴリド博士がこれを見たらどんな顔をするでしょうね」
「誰? その何とかゴリドというの」
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の病院のお医者。――わたしはいまごろカルルスバードで鉱泉をのんでいる筈だったのよ」
「何いってるんだ。ぶこちゃん、自分からカルルスバードはやめにしたんじゃないか」
瞼のところを薄っすり赤らめた素子が、きつい語気で云った。
「へんな云いかたするのはやめてくれ」
きめつけは伸子にも意外であった。みんなしばらくはだまってしまった。
二つめのビールのみがめいめいの前に並ぶころから、こだわりもとれて、川瀬勇も中館公一郎も活気づいて雄弁になってきた。
「君たち、せっかくききに来てくれたんなら、あんな隅っこにいないで、堂々と入って来りゃよかったのに――」
素子が云った。
「恐れ、恐れ」
中館公一郎が、皮肉な誇張で首をちぢめるようにした。
「ああいうおえらがたに、われわれはあんまり近よらないことにしているんです」
「佐々君が、みんなに、自分で行ってソヴェトを見てこいと云ったときの連中の顔は見ものだったな。誰一人、うんと
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