烽キんとも音を立てなかったじゃないか」
「でも、ほんとにどうしてみんな行かないんでしょうね、せっかくベルリンまで来ているのに。――あんなに慾ばって最新知識[#「最新知識」に傍点]の競争しているのに」
神経のくたびれが段々ほごされて来て艷やかな顔色にもどった伸子がきまじめな疑問を出した。
「みんなヴィクトリア通いにいそがしいからさ」
素子が云った。ベルリンには、日本人専門の女たちがいるそういう名のカフェーがあるのだった。
「でも、――まじめにさ」
「つまりお互の牽制がひどいんだな」
大きい眼玉をいくらか充血させた川瀬勇が答えた。
「あの連中のなかにだって一人や二人、ものを考えている男がいるにきまってるさ。そういう連中はソヴェトへも行って見たいんだろうが、うかつに動いて睨まれた揚句、将来を棒にふったんじゃ間尺にあわないんだろう――何しろベルリンの日本人てのは、うるさいよ」
「それはお互のことでしょう」
あっさりと、それだけユーモラスに中館が口を挾んだ。
「むこうからみれば、われわれは日本人のつらよごしなんだそうですからね」
「へえ、いやだなあ。じゃ、わたしたちは、いつの間にやらつらよごしの仲間入りってわけなのか」
「――それは心配しなくていいだろう。君たちは、ともかくベルリン在留日本人の最高権威を任じている木曜会から招待されているんだ」
笑い声の中から、それまで黙っていた村井という青年が、
「中館さん、あれ、どんな風に行きそうです?」
ビール店内のざわめきに消されまいとしてテーブルへ首をのばすように訊いた。
「――何とか行くでしょう」
「なんの話です?」
村井からタバコに火をつけて貰いながら素子がききとめた。
「中館さんが日本を立つ前に制作した映画が、近くこっちで封切りされるらしいんです」
「いいじゃありませんか」
「いいことはいいんですがね」
中館公一郎はベルリンでウファの製作所へ出入し、歌舞伎の来たときはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]でソヴ・キノの撮影所も見て来ている。どこかに渋る気持があるのもわかるのだった。
「旧作だってわけですか」
芝居や映画が好きな素子らしく追求した。
「それもありますがね――」
すると村井が、中館にかわって説明するという風に、
「中館さんは、いわゆる髷ものの制作に、一つのアンビションをもっておられるんです。――そう云っていいんでしょう」
中館の承認を求めた。
「髷ものは、日本の封建社会の批判として制作されるんでなくては存在の意味がないという主張なんです。そして、そういう芸術としての日本映画の髷ものは、全く未開拓だと云うわけなんです」
こんどベルリンで公開されようとしている作品は、徳川末期の浪人生活をリアリスティックに扱って、武家権力が崩壊してゆく姿を物語っているのだそうだった。
「――結構じゃありませんか」
「なにしろ、二年たっていますからね。――われながら見ちゃいられないなんてことになったら、参っちゃうと思って」
「案外なんだろうと思うな」
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で公開された一つの日本映画について、素子が話した。日本のプロレタリア作家の作品から脚色されたもので、孤児の娘が、孤児院の冷酷な生活にたえかねて、遂にはその孤児院へ放火し、発狂してゆく悲劇であった。
「娘が逃げ出しても逃げ出しても警察につかまってひきもどされて、益々ひどい扱いをうけてゆく過程なんかリアルでしたがね。わたしは芸術的にそれほどいい作品だとは思えなかった。でも、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]じゃ好評でしたよ」
「ああ、ありゃわかるんだ」
「テーマでわかって行くんだ」
中館公一郎と川瀬勇が同時に、互の言葉でぶつかりあった。
「ああいうテーマは、国際的なんでね。――あれは、これまでの日本映画の空虚さを、ああいう国際的なテーマへまでひきずり出したところに意味があったんだ」
そう云えば、伸子が思い出しても、「何が彼女をそうさせたか」というその悲劇の手法は、ドイツ映画の重さ、暗さを追ったものだった。
「中館さんの、それ、何ていう題?」
「こっちの会社の案じゃあ、シャッテン・デス・ヨシワラ、に落ちつきそうなんです」
「シャッテンて?」
伸子がききかえした。
「影、ってんでしょう」
「――じゃあ……吉原の影?」
みんな黙りこんだなかへ川瀬勇がプーとつよくタバコの煙をふいた。そのタバコの煙のふきかたは、だまっているみんなが、そういう改題には不満である気持を反映した。
「やっぱり、そんなもんかなあ」
遺憾そうに素子がつぶやいた。
「それにしちゃあよく『太陽のない街』がそのまんまの題で出るんだな」
「そりゃちがうもの――出版屋からしてこっちのだもの。そういう意味から云えば、いっそ『何が彼女を』なら、そのまんまで行くのさ」
「そりゃそうですがね」
中館は伸子にききわけられなかったベルリンの興行会社の名を云った。
「あすこじゃ、あれを蹴ったんだ」
その同じ会社が、こんど中館の作品を買おうというのだった。
「ふうむ。そこなんだ、いつも……」
「――だろう?」
川瀬勇の眼玉のギロリと行動的な相貌と、太い黒ぶち眼鏡と重なりあっている濃い眉のニュアンスのつよい中館公一郎の顔とが、瞬間まじまじと互の眼のなかを見つめあった。
中館のこころもちはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に来ていたときより、ずっと実際的な問題にみたされている。伸子はベルリンへ来て間もなくそれに気づいていた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で会ったときは、ふるい歌舞伎の世界にいたたまれなくなって、そこから脱出しようとしていた長原吉之助の方が思いつめていた。あれからベルリンへかえって、七八ヵ月の生活が中館公一郎に何を経験させたかは、伸子にはかり知られないことだった。しかし、川瀬勇との話しぶりは、いつも会っていて、何か継続的な問題について論じあっている友達同士のもの云いであり、省略の中に二人に通じる何か根本的な問題がふれられていることを、伸子に感じさせるのだった。
「――実際、映画や演劇って奴は、ギリギリまで近代企業でいやがるからね」
眼玉の大きい顔を平手で撫でて、川瀬勇はいまいましそうに巻き舌をつかった。
「ドイツ映画にしたって、もう底をついたさ。エロティシズムにしろ、異常神経にしろ、マンネリズムだ。パプストにしたってうぬぼれるがものはありゃしないんだ。そうかって、一方じゃラムベル・ウォルフでもう限界なんだから」
映画制作が大資本を必要とするために、左翼の芸術運動が盛なように見えるベルリンでも、プロレタリア映画の制作は経済上なり立ちにくいということだった。
「このまんまトーキーにでもなったら、ドイツ映画も末路だね」
「そうさ、目に見えていら。アメリカ資本にくわれちまうんだ」
そのビール店では、入って来るなりいきなりバアに立って、たんのうするだけのむと、さっさと出てゆく人々も少くない代り、片隅へ陣どったら容易に動き出さない連中もかなりいた。それらの男女の姿が店内に煌く鏡にうつり、伸子のいる隅からは、すっかり夜につつまれた大通りの一角が眺められた。ベルリンが世界に誇っているネオンが、往来の向い側にそびえている建物の高さにそって縦に走り、初夏の夜空へ消える青い光のリボンのように燃えていた。わきの映画館の軒蛇腹に橙色の焔の糸が、柔かい字体で、|GLORIA《グロリア》・|PALAST《パラスト》と輝やいている。色さまざまなネオン・サインは、動かない光の線でベルリンの夜景を縦横に走り、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]やウィーンで味わうことのなかった大都会の夜の立体的な息づきを感じさせる。ベルリンの夜には、闇が生きものでもあるかのように伸子を不気味にするものがある。伸子は、そういう夜の感覚の上に、中館公一郎と川瀬勇とが、なお映画、演劇の企業性について論じているのを聞いていた。
九
伸子と素子とがベルリンへ来ると間もなく、中館公一郎と川瀬勇とはつれだって、彼女たちをウンテル・デン・リンデン街のしもてを横へ入ったところにあるプレイ・ガイドのような店へつれて行った。光線の足りない狭い店の壁からカウンターの奥へかけて、ドイツ特有の強烈な色彩と図案の広告ビラがすきまなくはりめぐらされていた。そこで、二人は、この二週間のうちに伸子と素子とが、シーズンはずれのベルリンで見られる芝居、きける音楽会のプログラムをしらべた。そして、伸子たちのために数ヵ所の前売切符を買わせた。ドイツ劇場でストリンドベリーの「幽霊」をやっている。その切符。ふたシーズンうちとおしてなお満員つづきの「三文オペラ」。演奏の立派なことで定評のあるベルリーナア・フィルハルモニッシェス・オルケスタアが珍しくシーズン外にベートーヴェンの第九シムフォニーを演奏する。それと、旅興行でベルリンへ来るスカラ座のオペラがききものであったが、どっちも切符はほとんど売りきれで、伸子たちは、第九の方では柄にない棧敷席《ロッジ》のうれのこり二枚、オペラでは「カルメン」の晩三階の隅っこで二つ、やっと切符を手にいれることができた。
「さあ、これでよし、と」
背のたかい体でその店のガラス戸を押して、伸子たちを先へ往来へ出してやりながら川瀬勇が云った。
「いま、このくらいの番組がそろえば、わるい方じゃないや――じゃ、いい? 君たちきょうは美術館なんだろう?」
役所風に堂々とはしているけれども無味乾燥なウンテル・デン・リンデンの大通りへでたところで、伸子たちはその大通りのつき当りにそびえている元宮殿の美術館の方へ、川瀬たちは地下鉄の方へとふたくみにわかれた。
その日、伸子たちは、川瀬や中館の仲間がよくそこで昼飯をたべているらしい、一軒の日本料理店で彼らとおちあった。外国にある日本料理店には、ほかのところにないしめっぽくて重い一種のにおいがしみこんでいる。それは味噌だの醤油だの漬けものだのという、それこそ恋しがって日本人がたべに来る食料品から、壁やテーブルへしみこんでいるにおいだった。ときわ[#「ときわ」に傍点]とローマ字の看板を出しているその店の、そういうにおいのある食堂の人影のない片隅で、醤油のしみのついているテーブルに向いながら、伸子、素子、中館、川瀬の四人がおそい昼飯を終った。
「ここのいいところは、ちょいと時間をはずすと、このとおりがらあきなことなんだ。――食わせるものは御覧のとおり田舎くさいがね……」
ベルリン生活のながい川瀬は、懐《ふところ》都合とそのときの気分で、月のうちの幾日かは、顔のきく、そして大してのみたくもないビールをのまなくてもすむこのときわ[#「ときわ」に傍点]へ食事に来ていた。ベルリンのたべもの店には、ビールか葡萄酒がつきもので、それをとらない伸子たちは、食事ごとに、料理の代以外の税金みたいなものを酒がわりにはらわせられるのだった。
その日それから伸子たちは美術館へゆく予定だときくと、川瀬勇は、
「丁度いいや。ね、きょう行っちまおう、どうだい?」
大きい眼玉をうごかして、中館公一郎をかえりみた。
「ああ、いいだろう」
「なんのことなの?」
二人の問答にすぐ好奇心を刺戟されたのは伸子だった。
「あなたがたも、美術館に用があるの?」
「そうじゃないんだが、どうせ君たち、ウンテル・デン・リンデンへ出るんだろう?」
「ほかに行きようがあるんですか」
素子がきいた。
「やっぱり、あれが道順ですよ」
柔かに説明する中館を見つめるようにして考えをまとめていた川瀬が、
「君たち、いま金のもちあわせがあるかい?」
おもに素子に向って云った。
「――たいしてもっちゃいないけど……なにさ」
「君たちに、芝居の切符を買わせようと思うんだ。――どうせ観る気でしょう」
川瀬はそこでウンテル・デン・リンデン街のわきにあるプレイ・ガイドのような店のことをはなし、伸子たちがあらかじめ順序だてて、ベルリンに
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