「やめてよ! 黒川さん」
伸子が、あきれた顔に黒川を見た。
「あなたレーピンやコンチャロフスキーの絵のエハガキ見たことおありんならないの?」
「こりゃ、黒川君のまけだね」
面白そうに、わきから素子が云った。
「ロシアじゃね、黒川君、労働者住宅は労働者がそこに住むために建てられているんで、外国人に見せたり、エハガキにしたりするために建てているんじゃないんですよ」
「まあ、見ていらっしゃい」
深い確信に貫かれているように黒川が反駁した。
「いまにロシアの労働者も、ここみたいにエハガキでも何でも自由にこしらえられるようになって御覧なさい。きっと、売るようになるんだから。――人情なんてものは、国によってそうそうちがうものじゃないんです」
「変だわ、黒川さんの話は。みんな逆なんだもの――」
もうこれひとことだけ、という顔つきで素子を見ながら伸子が云った。
「ロシアの労働者が、何でも自由にこしらえられるようになった時こそ、あの人たちはなおエハガキなんか売る必要のない生活をもつようになるのに――」
ウィーン出発をひかえて、それまでにすまさなければならない用事はみんなすみ、伸子たちにとってその日の用事は、このカール・マルクス館を見るだけだった。ここをいそいできりあげて、うららかな午後ののこりの時間をどうすごす計画もなかった。黒川隆三とのくいちがった話にあきて、伸子は一人でぶらぶら石段を斜面のなかほどまで下りて見た。その石段のなかほどから見おろすと、町の眺望が低くはるか左右に展《ひら》けて、少し西にまわった太陽をまともに受ける遠い建物の窓々のガラスがいっせいにまばゆく燃えたって見えている。
その眺望を面白い感じで見ながら、伸子はこのカール・マルクス館についてふっきれない味をうけている。これと同じようなきもちは、クーデンホフ夫人の客間でも感じた、と思った。東京に生れた光子という美しい日本婦人が、明治の初年、外交官として東京に来ていたウィーンのクーデンホフ伯爵夫人となって、一生をウィーンで過していた。オーストリアが共和国となってから、そのクーデンホフ伯未亡人は、額のひろい、やせぎすな末娘と二人で、郊外の別荘につましく生活していた。数年来、半身不随の老婦人は、レモン色の細い毛糸で編んだ優美な部屋着につつまれて、長椅子にもたれていた。そのヴィラの、小砂利のしかれた入口の細道にも狭い庭にも折から紫のライラックが満開で、その花房は剪《き》られて、柔かなレモン色にくるまれた老夫人のわきの卓にもあふれるばかりもられていた。それは色彩的だった。この老夫人の次男が、クーデンホフ・カレルギー伯で、一座の会話のなかでは、パン・オイロープというよび名でよばれていた。ヨーロッパ諸国はヨーロッパ諸国だけのヨーロッパ連合をつくって、政治経済の問題を処理し、文化も守るべきであるというのがクーデンホフ・カレルギー伯の汎《パン》ヨーロッパ主義だった。体の自由はうばわれていても、この婦人の身にしみついて、いまは過渡な華やかさは消えているヨーロッパ風の社交性と東京の女らしい淡泊さは一種の洗練された雰囲気に調和されていて、彼女が、
「ああ、パン・オイロープはね、あなた、今ブルッセルでございますよ」
などと話していると、いくらか時代ばなれした日本語のつかいかたがかえってみやびやかにきこえた。
このパン・オイロープという不在のひとの名と仕事のために、ウィーンの郊外の老人の隠栖も時々は賑わされている様子だった。伸子と素子とを、この老夫人の客間へつれて行ったのは、公使館づきの武官だった。瀟洒として目立たない縞の背広を着て、春らしい灰色のソフトと鹿皮の手袋をもったその人の風采は、陸軍少佐とは見えなかった。彼は、クーデンホフ未亡人に、伸子にもパン・オイロープに賛成して、署名してもらうべきだとすすめた。
「そうでございますよ。あなた。お一人でも多くみなさんの御署名をいただきましてね」
伸子は、だまって笑っていた。汎ヨーロッパ連合にソヴェト同盟は招待されていなかった。ロシアがヨーロッパのうちの一国ではないかのように。そして、国際連盟《リーグ・オブ・ネイションズ》がソヴェトもネイションズの一つである事実をみとめまいとして来ているように。ロマン・ローランが、汎ヨーロッパ連合に勧誘されたとき、もういまは世界の諸民族の結合のために努力すべきだ、という意味から拒絶したことを、伸子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の文学新聞《リテラトゥールナヤ・ガゼータ》で読んだことがあった。その記事は、ロマン・ローランがヨーロッパの知識人でさえも様々の形と表現で反ソ十字軍に組織されようとしていることを警告して、ソヴェトの事業が破壊されることは、世界から社会的自由と個人的自由の一切が失われることだ、と主張した論文に、ルナチャルスキーの解説の抜すいがそえられたものだった。伸子がどうやらそれをよむことができたのは去年のことだった。伸子として見まごうことのできないロマン・ローランの写真にひかれて、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来たばかりだった伸子は、その古い文学新聞《リテラトゥールナヤ・ガゼータ》を大事に紙挾みの間にしまってもちつづけていたのだった。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を立ってワルシャワへいったとき、伸子は、雰囲気的にポーランドのソヴェトぎらいを感じとった。一晩しかいなかったワルシャワでは一つの匂いのように伸子の顔の上に感じられた反ソヴェトの感情が、ウィーンへ来ると音楽についての公使夫人の話しかた、附武官のパン・オイロープへの肩のいれかた、黒川隆三の老成ぶったソヴェト批評と、どれもつながりをもち、一定の方向をとっている。その国の言葉が話せないということで、自分と全く種類のちがう同国人にまじってすごす不自然さについて伸子はまじめな感情にされた。あながち伸子自身がどうという政治的な立場をきめているのではないけれども、ソヴェトの現実を知っているものの心持としておのずから彼等と反対におかれるような場合、ウィーンでの伸子は、沈黙してしまうことが少くなかった。ここと、ここにいる人々と自分とのつながりは一時のものにすぎないということから、いつの間にかそういう伸子の態度がでていた。伸子とすれば、もしあしたになれば、ふたたびみることのないこの丘の斜面の風景であるにしろ、いま遠いところにあるどこかの建物の窓々が午後のある時間の日光をある角度から受けるとあんなに燃えるという事実は、伸子がそれを眺めようが眺めまいが、その事実独自の全さで存在しつづけるだろう。それがすべてに通じる事実というものの本体なのだ。
伸子は、ウィーン風の春外套の背中で女らしく結び飾りがゆれるのを意識しながら、一段一段のぼってゆく靴のつまさきに目をおとして、素子と黒川隆三がタバコをくゆらしている場所へもどって来た。
もどってみると、素子が、胸の前にくみ合わせた右手に長い女もちのタバコのパイプをもったまま、並んでその胸壁にかけている黒川を凝《じ》っと見て、議論している最中だった。
「へえ、妙な理論なんだな。じゃあ、あなたの社会主義じゃ、インテリゲンツィアってものが、それとして一つの階級だってわけなんですか」
「まあ、そうですな。――少くともインテリゲンツィアの独自性というもの、ビルドウングというものは守ってそれとして発展させてゆかなけりゃならんのです」
「そのビルドウングとかって、なんなんです?」
素子一流の率直なききかただった。
「日本語で云えば文化とでも訳すかな。ほんとはずっと複雑な内容をもったガイスティックなものなんですがね」
「ガイスティックてのは?」
つっこんでまた素子がきいた。
「精神的、或は知性的とでもいいますか」
皮肉な表情でそうやって、ぐんぐん追っかけてきくところは、素子だった。わきにきいていて伸子はふとユーモラスな気分になった。この素子がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]である日内海厚と、ロシア字一字のよみかたについてひどく論判して、遂にどっちも自分が正しいとゆずらなかったことがあったのを思い出して。――
「ぶこちゃん、さっきから黒川君の社会主義理論というのを拝聴しているところなんだがね」
暗示的なまなざしで伸子をかえりみながら素子が云った。
「社会主義の理論というものは、元来三十何種とかあるんだってさ。――そうでしたねえ、黒川君。黒川君の社会主義ってのは、知識階級は知識階級、資本家階級は資本家階級として、それぞれの独自性において発展してゆくべきなんだそうだ」
「もちろん、労働者階級を基礎においての話ですよ」
伸子にむかって、黒川は補足した。
「大体日本のインテリゲンツィアが、猫も杓子《しゃくし》もロシアかぶればっかりして、何でもかんでも労働者、農民だってさわいでいるくらい滑稽で非理論的なことはありませんよ。そもそも社会主義ってのは、みんなが、無学な百姓や貧乏な労働者になることを目的としちゃいないんですからね。そうでしょう? すべての者がよりよく生活するのが目的なんです」
「じゃ、つまりこう?」
伸子は黒川隆三にききかえした。
「あなたの考えでは労働者は労働者として、インテリゲンツィアはインテリゲンツィアとして、資本家は資本家として、その区別をいまのままこういう工合でもちながら、よりよく発展して行くべきだっていうわけ?」
こういう工合というとき、伸子は、労働者、インテリゲンツィア、資本家という順に上へ上へとつみあげる手つきをした。
「いいや、社会主義の中では、知識が金の上にくるべきなんです。インテリゲンツィアがその文化力で、資本を支配してゆくべきなんです」
「だって――それじゃ、オーエンだわ」
伸子が、おどろいた眼で黒川を見つめた。
「そう云われるだろうと実は、はじめっから思っていたんです。失礼ながら、あなたがたは、ボルシェビキの理論しか御存じないから……」
黒川隆三はパッと音をさせてマッチをすり、改めて素子のタバコにも火をつけてやりながら、
「ボルシェビキの理論にしたがって、革命になったら、一つ佐々伸子さんがプロレタリアの側に移ったところ[#「プロレタリアの側に移ったところ」に傍点]を見せていただきましょうか」
それは伸子の心に、彼に対して憎悪をわかせる云いかただった。黒川は声をたてて笑った。
「佐々伸子さんが、プロレタリアになって、小説なんかやめて、どこかのホテルの掃除女になるってわけですか」
たかぶる感情をしずめようとして伸子が沈黙しているのを、黒川は自分の意見に彼女が説得されはじめたと思ったらしかった。
「僕は人道上から、そういうことは許せません。佐々さん自身にしたって、事実がそうなって現れたとき、それにたえることはできないにきまってるんだ。ボルシェビキのすることをごらんなさい。プロレタリア独裁がはじまるとすぐ、それまでは仲間づらをして利用したインテリゲンツィアをどう扱いました?」
そういう黒川の一つ一つの言葉は、きいている伸子の心に百の抗議をよびさまして、それを黒川へ直接の悪態とならないように、順序だてていうためには伸子の全心の力がいった。伸子は、そっと深い息をひとつして、
「よくて、黒川さん」
ふだん話すときより、二音程ばかり低い声で云い出した。
「あなたは、大変上手に、率直に云えば人をひっかけるようにお話しなさいます。だけど、それは間違いよ」
何か云おうとする黒川を伸子はおさえて、
「第一に、インテリゲンツィアは、労働者階級や資本家の階級のような意味での階級ではありません。それから、社会主義は文化だけの問題ではあり得ないんです。社会の生産とその経済関係が基礎です。それから政治よ。インテリゲンツィアがプロレタリアート側に移行するっていうのは、わたしが掃除婦にならなければならないってことではないんです。作家そのものとして、歴史の発展的な方向に立ってプロレタリアートの立場から社会をよくしなけりゃ、芸術も文化もそのものとしてのびない
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