氓ェ飾られている小噴水があり、それを灌木の低いしげみが囲んで、小公園の趣にベンチが置かれていた。各階ごとにテラスをもった近代風なアパートメントが、二|棟《ブロック》、たてにつらなって建てられているために、窓々やテラスの見とおしが賑やかにゆたかな効果で印象づけられる。一方は、もとからある何かの建物の古びた煉瓦の高くない外壁で、他の一方はゆるい斜面にはさまれたさほどひろくない面積が、日あたりよく快適につかわれているのだった。
「どうです――労働者住宅ですよ、これが」
 黒川隆三は、そう云いながら、第一の棟の地階の、廻廊になったところへ伸子と素子とをつれて行った。地階は、建物のあっち側へ通りぬけられる黒と白との市松模様のモザイックの廻廊だった。迫持天井に装飾ランプがつられていて、廻廊に面していくつかのドアが堅くしめられている。通路も、ごみの吹きたまりそうな廻廊の隅もこざっぱりと掃除がゆきとどいていて、しかも人影のないあたりの空気は、伸子に何だかなじみにくかった。週日で人々は働きに出ている午後の時間のせいだろう、と伸子は思った。
 黒川隆三は、ここへの常連の一人らしく、なれた様子で廻廊のつきあたりにしまっている一つのドアをノックした。ドアの上には、その建物全体の洋式につりあったおとなしさで図案風に17と番号が白くかかれている。
「ここに、シュミットという爺さんがすんでいるんです。古い旋盤工ですがね。――ひとつ内部を見せて貰いましょう」
 心やすい黒川隆三のノックは応えられず、二度三度間をおいてたたいても、ドアのあちら側に人の気配はなかった。
「留守らしいわね」
「爺さん、ふらふら出て行っちまったかな、天気がいいですからね」
 黒川隆三の口ぶりは、どういうわけか、たとえばいつもそこにいるはずにきまっている門番の姿が見あたらない、といったときの調子だった。
「その辺へ出て、待って見ましょうか」
 云われるままに、伸子と素子とはその廻廊から建物の裏側へぬけて、斜面を見はらす日ざしの気持よい石段の低い墻壁《しょうへき》に腰をおろした。五月の晴れた日光にやかれた石肌が、服をとおしてあついくらい伸子のからだにしみとおった。素子は早速タバコをとり出した。黒川隆三がマッチをすって火をつけてやった。その火が透明に見える。そこはそんなに明るい日向だった。風もない。
 伸子は、瞳をせばめたような視線で、灌木の生えている斜面の下に日をうけてつらなるウィーンの市はずれの屋根屋根を眺めていたが、やがて、
「静かねえ、ここは……」
と、あらためて、背後の建物と廻廊を見かえった。
「なんだか、人なんかどこにも住んでいないみたいね、いつもこんなのかしら」
「そんなことはありませんよ。いま丁度みんな働きに出ている時間ですからね」
 黒川隆三は、単純な説明にいくらか弁解の調子を加えて云った。
「かみさん連も、ここに住んでいると留守番がなくてすむから、何かかにか外へでてみんなで稼いでいますからね。――比較的楽にやっていますよ。ウィーン市は労働者に失業手当はもとよりだが、養老保険も出しているから……」
 伸子たちが日向ぼっこしている場所から離れて、建物よりのところに一人の老婆が黒い肩かけをかけて編物をしていた。
「おおかた、ああいう連中も養老年金組でしょう。シュミットも今は年金ぐらしで結構やっているんです、三十五年勤続したあげくですからね、それが当然ですよ」
 そのシュミットがもう帰っているかもしれない、と黒川隆三は建物の廻廊の方へ一人で見に行った。伸子は、彼の姿が少し遠のくと、素子に、
「ここ、どういうのかしら」
 すこし低めた声で云った。
「こんなに、子供のいない労働者住宅ってある? どこ見たって、もののほしてある窓一つないなんて――」
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のノヴォデビーチェの新開町が、勤労者住宅を中心として雪の中に賑やかに雑沓してあけくれしていた情景を伸子は思いくらべた。あそこではどっちを見ても子供たちがいた。いろんな物音と声がしていた。そして動いて生活の活気がたぎっていた。
「――ここは、だいぶ参観用なんじゃないかな」
 素子がそう云って、皮肉そうにタバコをもっている手で顎をなでるようにした。そこへ、
「まだかえっていませんよ――せっかく来たのに残念だなあ」
と、黒川隆三が、脱いだ黒いソフト帽を片手にふりながら伸子たちのところへもどって来た。
「いつもいるんですがね、あいにくだ」
「いいですよ」
 素子が云った。
「いずれ、内部も外同様、さぞこざっぱりしているんだろうから」
「それを見てもらいたいんです」
「ほんとに、いいことよ」
 伸子も素子についてそう云った。
「たいてい、わかるわ」
「しかし、そこにまた百聞一見にしかず、ということもありましてね」
 ウィーン大学の宗教哲学の学生だという黒川隆三は、伸子たちが日本で学生として考えなれている若者とちがい、世馴れていて、ものをいうにも、いまのように百聞一見にしかず、というような成語をさしはさむのだった。
 シュミットをさがすことは断念したらしく、黒川隆三がまた一本タバコをつけて、何か云い出そうとしたとき、廻廊の奥から一人の少年が、伸子たち一行へ向って歩いて来た。半ズボンの下から少年らしく肉の少い脛と膝小僧を出して、古いシャツの上からジャケットを着たその十一ばかりの男の子は、おとなしい様子で伸子たちの前へ立つと、ウィーンの子供らしい金髪の頭をすこしかしげるようにして、
「こんにちは《グットターク》」
と云った。伸子たちも、
「こんにちは」
と挨拶した。すると、男の子は、何ということなしの身ごなしでそれまで伸子たちの視線からかくされていた右手をさし出して、
「どうぞ《ビテ》」
と、エハガキを見せた。素子が、
「なんなの《チトウ》?」
と、思わずロシア語で云って少年の手にあるエハガキを上からのぞきこんだ。それは、このリンデンホーフの労働者住宅カール・マルクス館の写真エハガキだった。入口の小公園めいた噴水のところから、明るく並んだテラスと窓々の見透《ヴィスタ》し図を撮った写真のエハガキだった。伸子も素子も瞬間躊躇していると、黒川隆三がズボンのポケットからいくらかの小銭をつかみ出して少年にやり、顔みしりらしく|おっかさん《ムッター》がどうとかきいた。少年は内気な表情でそれに答え、伸子たちに、
「ありがとうございます《ダンケ・シェーン》」
と云って、病身そうなぼんのくぼを見せながら、出て来た廻廊の方へ去って行った。黒川隆三は、
「記念に一つ」
と一枚ずつ、伸子と素子にそのエハガキをわけた。「都市行政における社会主義化」を見るために世界各国から参観人が絶えないと黒川がいうこの労働者住宅の状況が、このエハガキを売る少年の表情で、伸子にいかにもと思えた。おそらくきょうは留守のシュミットという旋盤工だった爺さんの室も、お客が来ればドアを開いて内部を見せる住居ときまっているのだろう。そして、一遍うちのなかを外国人に見せるたびに、シュミット爺さんは、案内して来たものからいくらかの志《こころざし》をもらうのだろうと思った。ウィーンは心づけのこまごまといるところだったから。そして、そういうみいり[#「みいり」に傍点]も、カール・マルクス館に住んでいる余徳だと思われているとすれば、労働者の生活として、何という矛盾と偽瞞だろう。伸子は、そういう風に感じずにいられなかった。エハガキ売りの少年の、おとなしくしつけられた、感じのいい物乞い[#「感じのいい物乞い」に傍点]とでも云えるものごしは、素子にもある感銘を与えたらしかった。彼女は、ぶっきら棒に、
「ここへは、誰でも労働者なら住む権利をもっているんですか」
と黒川にきいた。
「今のところ、ここに住んでいる二百七十世帯ばかりの労働者は、大体のところ、古くから社会民主党に入っている労働者の家族ですね」
「――政党労働貴族ってわけですか」
 すると黒川は、
「ロシアだって事実はそうなんでしょう?」
 からかうような笑顔で伸子を見た。
「コンムニストの労働者だけなんでしょう? 住宅なんかもてるのは――」
「こっちではそういうことになっているの? ロシアって何でもコンムニストだけでやっているっていう話があるのかしら。はっきりおぼえてはいないけれどもソヴェトのコンムニストは人口の一パーセントぐらいよ」
「――ともかくここの社会民主党の政策は、こういう住宅をどんどんふやして、労働者の生活を向上させて行こうとしているんです」
 黒川隆三は、
「佐々島博士――御存じでしょう?」
と、『改造』や『中央公論』に、社会主義についての論文をかいている経済学者の名をあげた。
「先生は、大分ウィーンの社会主義には感服しておられるようですよ。都市社会主義からマルクシズムにまで出て来ているって。実際いまのウィーンの労働者住宅の家賃は戦前の十二分の一ですからね」
 都市社会主義というのが、どういうものか伸子は知っていなかった。伸子も素子もだまっていた。黒川隆三は、
「どうです。佐々さん!」
 はっきり年齢のとらえられない独特のものなれたくちぶりで黒川は伸子に話しの中心を向けて来た。
「こうしてみると、世の中ってものはおもしろいもんでしょう? 労働者の生活向上をやっているのはロシアばかりじゃないんですからね。ボルシェビキでなくたってウィーン社会民主党は、現に労働者生活を改善しているんですから」
「そうかしら」
 胸のなかで黒川のいうことをはじきかえした伸子の気持が、そういう声におのずとあらわれた。
「わたしにはそう思えないわ」
「どうしてです?」
 小さなものにつまずいたような表情が黒川の、ぴったり黒い髪をわけた顔の上を通りすぎた。
「ひとつ、後学のためにうかがいたいもんですな」
 こういう黒川の身のかわしかたと口調とが伸子に彼の人物をわからないものにするのだった。
「だって、そうじゃないかしら。ああしてそこに住んでいる労働者の子が、外国人を見るとエハガキを売りに来るんじゃ、そこで労働者生活が改善されているとは云えないと思うんです」
「あれは佐々さん、大した意味のあることじゃないですよ。ここへ来る外国人は、みんな何か記念を欲しがるんでね、ああやってほしい人に売っているだけですよ」
「でも、事実、あれで小遣いを稼いでいるんでしょう? エハガキの収入がこの労働者住宅としての収入になっているのでないことはたしかよ」
「それはそうでしょうがね」
 黒川は、その現実は認めた。しかし、すぐつづけて、
「じゃ、ロシアじゃ売ってませんか」
と、逆に質問した。
「何でも彼でも宣伝というとぬけめがないらしいがエハガキまでには手がまわりませんか」
 何と妙にもってまわった云いかたをするのだろう。伸子は、
「そんなもの売っちゃあいないわ」
 おこった若い女らしくぷりっとして答えた。そして傷つけられた心もちで、この間シェーンブルンへ三人で行ったときのことを思いあわせた。それは、ベルリン事件から間のないある日のことで、美しい丘の上の柱廊《コロネード》からはるかにウィーンの森を見はらしながら、素子が何心なくベルリンのメーデー事件について、ウィーンの新聞に何か後報がでていやしまいかと黒川隆三にきいた。そのとき黒川は、無関心な様子で、さあと云い、けりがついたんでしょう、と答えた。つづけて、ベルリンじゃ、何でも共産党が先棒をかつぐんでね、と云い、そうなんでしょう? と伸子たちに顔をむけた。コミンターンの指令どおりに、何でもしなけりゃいけないことになっているんでしょう? 黒川のそのききかたには、とげがふくまれていた。そのとき伸子は黙っていた。素子もきこえないふりをしているようだった。
 いまも、気もちの害された表情で伸子が沈黙したまま、斜面の景色を眺めていると、黒川は、
「もしロシアで労働者がエハガキなんか売っていないとおっしゃるんなら、そりゃ、まだロシアが、エハガキなんか作るところまで進んでいないというだけのことですよ」
と云った。

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