フは、音楽の光につつまれてこそであった。そのころの日本では、どこへ行くにも俥《くるま》にのってゆけたからこそであった。その光の波がひいてしまったウィーンの生きるためにせめぎ合っている朝夕の現実で、やがてはくたびれて見すぼらしくなるだろう日本の着物の裾をみだして、馬車に乗ってばかりいられなくなった川辺みさ子が街を行く姿は、ヨーロッパへ来て見なければわからないみじめさとして彼女の前に描きだされたにちがいない。一日一日を食べて行くことさえこまかく計算されなければならないとき、外国人弟子からはおどろくような月謝をとるのが風習であるウィーンのピアノ教授への謝礼をつづけることはどうして可能だろう。川辺みさ子が、日本を出発したとき、彼女のボートは焼きすてられていた。ふたたび故国へ帰るときの川辺みさ子は、凱旋者でなくてはならなかった。川辺みさ子は、ウィーンでピアノを修業するものとしてではなく、自分のベートーヴェンで世界を征服して来る、と云って出発して来たのだったから。嫉妬ぶかい日本の音楽界は、ひとたび自分たちの耳に聞いた彼女のその言葉を忘れることはないだろう。川辺みさ子が、自分で自分をとりこにしたその言葉の垣のすき間から、彼女の一挙一動は見まもられているのだ。ウィーンでの川辺みさ子には、彼女を支持する大衆というものもなかった。よしんば音楽そのものはよくわからないにしても彼女の勇気と努力とを愛して、櫛のおちる演奏に拍手する素朴な人々はいなかった。ウィーンにいるのは、彼女の競技者である彼女より若くて富裕な人々、もしかしたら、彼女の教えた人々と、音楽の技術そのものによってでなければ彼女の存在を認めることのない世界の音楽の都であるウィーンの聴衆だけだった。進退のきわまった、という字がそのままあてはめられる川辺みさ子の、訴えようもなく、すがりようもなく苦悩する姿が、伸子のウィーンの下宿《パンシオン》の窓際に見えるようだった。
川辺みさ子の黒く澄んだ眼は、どんなに暗澹とした闇をたたえて、彼女の下宿《パンシオン》の室内を眺めまわしたことだろう。沈黙して、しかも何かを見ているような壁。無心に物を映す鏡のよそよそしいつめたさ――一九二九年の春の午後、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で癒したばかりの肝臓が疲れて重く、部屋にこもって、我ともなく追想にとらわれた伸子が眺めるウィーンのパンシオンの室の三方の壁は、やさしく地味な小枝模様の壁紙で貼られていた。壁の上の楕円形の鏡に金色の細ぶちが輝いて、二つのベッドの前に赤い小絨毯がおいてあった。
川辺みさ子がウィーンでくらした下宿というのは、どこのどんな家だったろう。そして、川辺みさ子の体が窓から落ちて横たわったウィーンの通りというのはどんな通りだったのだろう。伸子は生々しいようなこわい思いで、自分のすぐ横に開いている三階のひろい窓から外をのぞいた。天気のいい日が向う側の建物に照っていて、伸子の窓の下は、人通りのすくない横通りのペーヴメントだった。灰色に乾いた日向のペーヴメントの車どめの石の上に半ズボンの男の子がちょこんと腰かけて、両手の間で何か小さい物をああし、こうしして、しきりに研究中らしくいじくりまわしている。余念のない少年の動作を見おろしているうちに、伸子はいつか川辺みさ子の最期についての暗く凄じい回想から解放された。同時に、まるでそれは人気ないその部屋のどこかではっきり云われた言葉であるような感じで一つの疑問がおこった。どうして川辺みさ子は自分の音楽で世界を征服するなどと、いう気になったのだろうかと。川辺みさ子の生涯が悲劇として終ったあとも伸子はそれを川辺みさ子個人の天才癖の悲惨とだけ思っていた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]生活の間、そこできく音楽と川辺みさ子の回想は、一度も結びついたことがなかった。――ベートーヴェンの音楽のどこに、いわゆる征服的なものがあるだろう。あるものは、人間の存在にさけがたい苦悩と擾乱の克服ではないだろうか。苦しむ人間の情熱そのものが昇華しようとする過程が嵐のようなとけるようなアダジオとなって新しい生への意欲へと運ばれてゆく。それだのに、何故川辺みさ子はそのようなベートーヴェンの本質が、世界を征服すると思ったのだろう。
ペーヴメントの上にいる少年の動作を見おろしている眼をしばたたいて、伸子は自分にわきおこった新しい疑問におどろいた。征服[#「征服」に傍点]したいと思ったのはワグナーだったのに、と伸子は考えた。彼はウィルヘルム一世にああいう手紙をかいたのだから。――人民を温和にして統治しやすくするために最も有効果なのは宗教ならびに音楽であります、と。ニイチェは、音楽をそういう風なものとして皇帝に売りつける晩年のワグナーに腹を立てて仲たがいした。伸子にはニイチェの気持がもっともなことと思えているのだった。
そして、きょうワグナーのオペラとしてきかれているのは、ワグナーがまだそんな手紙を皇帝にかいたりしなかったころ、初期の作品、ワグナーが若くて、貧しくて自分の途をさがしていた頃の「タンホイザー」などであることも、意味ふかいと思っているのだった。
ベートーヴェンの音楽の人類的な本質、それは文学へもつきぬけて来ているほどの本質を、川辺みさ子が個人的な、天才の光輝[#「天才の光輝」に傍点]と思いちがいし、自分の光背ともして背負いあげたことは、愚かしい単純さであり、思いあがりとして、彼女の一人の女としての真実な悲劇まで嘲笑のうちに忘られた。でも――と伸子は、なお思いつづけるのだった。川辺みさ子のような天才[#「天才」に傍点]についての本質的な考えちがい、芸術が人々の心にしみ入り、そこに場所を占めてゆく過程とナポレオン風な力ずくのような征服をごちゃまぜにする途方もなさが、果して川辺みさ子の頭の中だけにあったことだろうか。伸子にはそう思えなかった。伸子が、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来るまでの生活でぶつかりつづけて来た母の多計代のものの考えかた、文学上の名声だの名誉だのというものについての感じかたは、伸子がまともに生きようと願えばそれとたたかわずにいられない本質のものだった。多計代の名声欲につよく反撥する伸子の心もちがそのまま川辺みさ子の天才主義に抵抗したのであってみれば母としての多計代とピアニストとしての川辺みさ子の態度に共通な世俗的な英雄主義があるわけだった。そして、詮じつめれば、それも二人の気の勝った女性が偶然もち合わせた共通な性格というようなものではなくて、個人と個人のたえまないはたき落しっこで一方は栄達し一方は没落してゆくという風な、激甚で盲目的で血みどろな生存のためのあらそいがよぎなくされている旧い社会のしきたりの中では、ひとりでに固められて来た観念でもある。ただ人々は、そのあらそいの凄まじさをむき出しにして、うっかり勝利の前ぶれなどをして自分への敵意を挑発する危険から身を守るために、つつましさだの、謙遜だのというつけ黒子《ほくろ》をはるのだ。伸子は日本の風習にある、ほとんど偽善に近いつつましさの強制について思わずにいられなかった。それは女にとって何と特別に負わされている重荷だろう。川辺みさ子には、生きてゆく要所要所につけ黒子《ほくろ》をはってゆく狡猾な用意がなかったのだ。彼女はおどろくほど一途で正直だった。伸子はそうも思うのだった。川辺みさ子の生涯には、川辺みさ子の生きた社会の姿がそっくり映し出されている。
伸子の下宿のその室には、大きな煖炉がきられていた。冬の季節がすぎて、その中に火がたかれなくなってから程たっている。春の煖炉の、冷えてくらい炉の上の棚に、伸子が街で買って来たパンジーの花束が飾られている。
その下をゆっくり歩きながら、ウィーンで命を絶った川辺みさ子がいまになってみれば、きょうの自分といくらもちがわない年ごろであったことを考え、伸子は新しい哀れに誘われた。あのことがあってから七年も八年もたった。伸子もモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てからは新しい社会が作家や音楽家の生活状態がどんなにいろいろな関係の面で変るものかという事実を目撃している。そういう理解の加わった気持で、しんみりと思いかえしてみると、伸子が自分のひとりの心の中で川辺みさ子と自分とが別ものであることをあんなに強調して意識し、一生懸命に自分とは反対の端へ川辺みさ子という存在を押しつけていたにしろ、ひっきょうその気がまえをもっているというだけでは、伸子が川辺みさ子から本質的に別な世界にいるということではなかった。伸子は、そのころ云われていた文士とか女文士とかいう言葉と、そこから連想されている生活ぶりに、嫌厭を感じ、反撥していた。けれども反撥していただけで、それにかわるものがなに一つ伸子にあるわけではなかった。文士の一人であり女文士であることを拒んでいる伸子にあるのは孤立だけだった。その孤立のなかで、伸子はもがきつづけて来ているのだった。
静かな午後の横町の下宿の室でかすかにパンジーの花束がにおう炉棚の下にたたずみ、伸子はあれからこれへと心の小道をたどりながら、半ば無意識に、そこの小テーブルの上に立ててあるモツァルトの薄肉浮彫の飾りメダルを手にとった。ウィーン名物の薄肉浮彫の金色の面に、こころもち猫背で、というより鳩胸のような肩つきで、円い形のかつら[#「かつら」に傍点]をつけたモツァルトの横顔が浮き出ている。
伸子は、川辺みさ子が、晴やかな裾模様につつまれた跛の姿で、ステージにあらわれたときの表情を、まざまざとおもかげにみた。拍手にこたえて何か云いたそうに少しあいている紅のさされた唇。細おもてできめのこまやかな顔にうっすりとお白粉がにおっていて、亢奮と精神集注と、そこから来る一種のぽーっとした表情にとけ合った若く燃える彼女の顔は、いくらか上向きかげんに聴衆に向ってもたげられていた。彼女の不均衡な足のはこびによって、彼女の左肩がどんなにひどくしゃくられ、一歩は高く、一歩は低く進まなくてはならないにしても、川辺みさ子は、かすかに開いて印象的な唇をもつ、その関西風の小さい白い顎を決してさげることはなかった。――
五
あと二日で、ウィーンを去るという日のことだった。伸子と素子とは、黒川隆三にたってすすめられて、ウィーンのまちはずれにあるカール・マルクス館というものを見学に出かけた。
オーストリアの政権はキリスト教社会党にとられているけれども、ウィーン市の市政とウィーン州の政策はすっかり社会民主党に掌握されている。そして、百八十万の人口をもつウィーンは最近社会主義によって運営されている工業都市として、各国の注目をあつめている。
「あなたがたのような御婦人が、せっかくウィーンへ来て、あすこを観ないで行ったんではもの笑いですよ。僕だって、シェーンブルンへ案内したが、そっちへは連れて行かなかったなんて、あとで恨まれては遺憾ですからね」
リンデンホーフというウィーン市の外廓にある労働者街までゆく電車の中で、黒川隆三は、ウィーンの社会民主党が、労働者福祉のためにどんな数々の事業を行っているか、なかでも、住宅政策と保護事業の成功について伸子と素子に説明した。ウィーンでは、借家人の権利を尊重して、大きな家屋を独占しているものに増加税法をかけるため、売買から利益を得ることが困難にされている。ウィーン市は、一九二七年にウィーンの土地の二七パーセント弱を市有にすることができた。それらの土地へ、これから伸子たちがみようとしている労働者住宅と同じものをどんどん建ててゆく計画なのだそうだった。
電車がウィーンの街を出はずれるにつれて、市中の多彩で華美な雰囲気が、段々左右の町なみから消されて行った。伸子たちは、木造の低い小家やガソリン・スタンドの赤いタンクが目立つ、ひっそりした停車場で電車を降りた。そこからすこし歩いた小高いところに、名所の一つであるカール・マルクス館が建っていた。ひろやかな砂利道を入ってゆく中央に、丸々とした裸の子
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