Uを描いた小説だの、ワイルドの「サロメ」、ダヌンチオの「死の勝利」などが、伸子をひきつけた。そこには恋愛があった。肉体の動きとして表現された情熱と、声として、行為としての思想とがあった。十六歳の伸子は、愛し、憎み、思考し、はげしくもつれあう人生を生のままに目で見、耳できき、ふれられる体の表現として、とらえられている小説にひかれた。
こうして、伸子は川辺みさ子から離れた。離れたと云ってもピアノの稽古をやめたというだけであったが。――伸子はその後もかかさないで彼女の演奏をきいた。
伸子が女学校を終ったばかりの早春、川辺みさ子の身の上に思いがけない災難がおこった。或る晩、友人のところから帰りがけ、赤坂見附のところで川辺みさ子は自動車に轢《ひ》かれて重傷を負った。夜ふけの奇禍だったのと、本人が昏倒したままであるのとで、どこの誰とも判明しないままに築地の林病院に運びこまれた。その婦人がピアニスト川辺みさ子であると知れたとき、世間はおどろいた。川辺みさ子の負傷は頭部だった。脳底骨がいためられて重態だった。伸子は、林病院のうすぐらくて薬のにおう病室の控の間で、小声にひそひそと告げられる川辺みさ子の病状に戦慄した。
その年の秋もふけてから、川辺みさ子は病院から自宅へかえって来た。伸子は見舞に行った。ピアノのおいてある、そこで伸子が教則本をひきはじめた洋間に、手軽なベッドをおいて、川辺みさ子は、伸子がその部屋に入って行ったときは、うしろのカーテンをひいて、ほの暗くしたなかに横たわっていた。
「おお、伸子はん!」
川辺みさ子は、おお! という外国風な叫びと京都弁とをまぜて、ベッドの上におき直った。
「よう来てくれました!」
つよくつよく伸子の手をとって握りしめた。
「これからやりますよ、わたしは生れかわったのやもの! なあ、そうやろう?」
伸子が口をさしはさむ間を与えず、川辺みさ子は話しつづけた。伸子は、暫く話をきいているうちに、せつなくて体から汗がにじみ出した。川辺みさ子は、脳のどこかに負傷の影響を蒙ったと思わずにいられなかった。早口に、だまっていられないように勢づいて話す川辺みさ子の言葉は、明瞭をかいていた。そして、これからの自分こそほんとの天才を発揮するのだとくりかえし川辺みさ子が云うとき、伸子は滲み出た血がこったような涙を目の中に浮べた。それをきくのはこわかった。そして、いやだった。天才! 伸子がそのひとことでおぞけをふるうには、深いわけがあった。その前後にはじめて小説を発表するまわりあわせになった十八歳の伸子は、天才という人の心をそそるような、同時にマンネリズムによごされた言葉の裏に最も辛辣冷酷なものを感じていた。それをまったく感じようとしていない母の多計代の人生への態度との間に、伸子の一生にとって決定的なものとなったとけ合うことのできないへだたりを感じはじめているときだった。川辺みさ子がまだ弾くことのできない閉されたピアノのよこの薄暗いベッドで、伸子の手をにぎり、ほとんどききわけにくいまでに乱された舌で、未来の自分の音楽における成功と天才についてとめどなく話すのをきいていることは、伸子にとって苛責だった。
伸子は、川辺みさ子のところからほんとに逃げて、うちへ帰って来た。そして、自分の小部屋にひっこんで長いこと姿をあらわさなかった。川辺みさ子は、怪我《けが》によってどうかなってしまった。それを否定するどんな徴候も彼女に会っていた間の印象の中から見出せなくて伸子は人生の恐ろしさに身じろぎできないようだった。川辺みさ子に対する無限の気の毒さ、哀れさには、いつか伸子自身が自分の運命をそうはさせまいとしている本能的な抵抗がこめられていたのだった。
川辺みさ子がまだ療養生活をしていたころのあるときのことだった。近所にすんでいる伸子のところへ迎えの使いが来た。川辺みさ子は、文学の仕事をはじめた伸子に、音楽と関係のある作品を教えてくれというのだった。伸子は、立派な文学作品で音楽に関係のないというものがあるだろうかと思った。そのどちらもが、人生にかかわっているとき。――伸子は「ジャン・クリストフ」と「クロイチェル・ソナータ」をあげた。それから「ジャン・クリストフ」の作者ロマン・ローランによる「ベートーヴェン」とを。その日、川辺みさ子は、何が動機だったのか日本の音楽家の思想の貧しさをしきりに伸子に話した。
更に月日がすぎて再び川辺みさ子がピアノの前に立ち、弟子たちの練習に立ち合うようになったとき、伸子は心ひそかにおそれていたことを噂としてきくようになった。川辺みさ子は、あの怪我から少し誇大妄想のようになったというのだった。伸子は子供のころからのおなじみなのだから、何とか注意してあげたら、と云う人もあった。でも伸子に何と云えたろう。伸子は伸子として自分のぐるりとたたかうことで精一杯だった。
しばらくして、川辺みさ子のウィーン行きが発表された。日本へアンナ・パヴロヴァが来たり、エルマンが来たりしていた。川辺みさ子は、日本のピアニストである自分の芸術で、少くとも自分の弾くベートーヴェンで世界の音楽界を揺すぶって見せる、とインタービューで語った。伸子は、その談話を新聞でよんで覚えず手の中をじっとりさせた。
どこかはらはらしたところのある思いで伸子は川辺みさ子がウィーンへ立つ前の訣別演奏会《フェアウェルコンサート》をききに行った。それはベートーヴェンの作品ばかりのプログラムで上野の講堂にひらかれた。一曲ごとに満場が拍手した。そして熱演によって彼女の櫛が、またふりおとされた。伸子は、座席の上で苦しく悲しく身をちぢめた。せめて、日本で最後の演奏会であるその日だけ、川辺みさ子の櫛はおとされないように、と伸子はどんなに願っていただろう。川辺みさ子のピアノは情熱的で櫛をふりおとしてしまうそうだ、という噂はいつかひろまっていた。その様子を、きょうは現実に見られるだろうかと半ばの期待でステージに視線をこらしている聴衆が、川辺みさ子のゆるやかな束髪のうしろから次第にぬけかけて来た櫛に目をつけ、やがて音楽そのものよりいつその櫛が落ちるだろうかという好奇心に集中されてゆくのが、聴衆にまじっている伸子にまざまざと感じられた。川辺みさ子が糸桜の肩模様の美しい上半身をグランド・ピアノへぶつけるようにしていくつかの急速に連続するコードをうち鳴らしたとき、彼女の髪のうしろからとんだ櫛はステージの上にはずんでおちて、ころがった。瞬間の満足感が聴衆の間を流れた。
演奏はつづけられたが、伸子は、どうせとんでしまうものならステージへ出る前に、なぜ櫛なんかとって出て来ないのかと、川辺みさ子自身の趣味をうたがった。伸子がごく若い娘の作家であることを娘義太夫にあつまる人気になぞらえて、娘義太夫のよさは、見台にとりついてわあーっと泣き伏す前髪から櫛がおちる刹那にある、佐々伸子にこの味が加ったら云々と書かれていたのを読んだことがあった。伸子はそれを忘れることができず、意識してそれに類するどんなその注文にも応じまいとかたく決心していた。伸子のそのこころもちは、川辺みさ子の演奏会と云えばステージにおとされる櫛を期待させているような点に伸子を妥協させないのだった。彼女の天才主義に疑問をもちつづけた伸子は、櫛のことから、芸術家としての川辺みさ子と自分のへだたりを埋めがたいものとして感じた。稚いながらも川辺みさ子に対しては伸子も一人の芸術にたずさわるものとしての主張をもちはじめていた。
川辺みさ子がウィーンへ行ってから半年たつかたたない頃だった。川辺みさ子は世界を征服すると大した勢で出かけたが、案外なんだそうだ、某というコンセルバトワールの教授に、これから三四年みっしり稽古したら|月光の曲《ムーンライトソナタ》ぐらいは一人前にひけるようになるだろうと云われた。そういう噂が伸子の耳にはいった。川辺みさ子の運指法がめちゃめちゃなんだそうだ、そういう話もつたわった。そういうひとこと、ひとことは伸子の全存在の内部へしたたりおちた。何も云わず伸子は自分の若いしなやかさを失っていない十本の指を目の前にひろげて長いあいだそれを眺めた。ピアノのキイの上においた両手の、手くびをさげて、指をあげて! と命じた川辺みさ子の声を思いおこしながら。
下宿の窓から鋪道へ身を投げて川辺みさ子がウィーンで自殺した。そのニュースが新聞へ出たのは、それから程ない時だった。伸子は、頬のひきつったような表情でその新聞を見つめ何にも云わず、息を吸いこんだ。吸いこんだその一つの息がはきどころないように胸がつまった。伸子は誰に向っても、がんこ[#「がんこ」に傍点]に口をつぐみつづけた。
数ヵ月たって川辺みさ子の遺骨が故国へ送り届けられた。それは単衣の季節だった。はかばかしい喪主もなくて、まばらに人の坐っている寺の本堂を読経の声とともに風が通った。遺骨は、錫製のスープ運びの罐のようなものに入れられていた。その罐に外国語でタイプされた小さな貼紙がついていた。京都に埋められる遺骨の一部を東京にのこすために分骨するとき、こころを入れてその日の世話を見ているたった一人の弟子であった土井和子の貴族的な美貌の上をいくたびも涙がころがって落ちた。――おかわいそうに。土井和子は真実こめてそうささやきながら骨をひろった。伸子は、土井和子の誠意にうたれ、謹んでかたわらに坐っていた。川辺みさ子その人に対して芸術家としての疑問や異種なものである感じは、死によっても伸子の心からは消されなかった。伸子はそのころ佃との生活紛糾のただなかにいて、自分にもひとにも鋭く暗い気分だった。
音楽という広いようで狭い世界では、ウィーンと日本との距離がはたで思うよりはるかに近いものであることを、こんどウィーンに来て見て伸子は実感した。当時川辺みさ子の評判やそれに対する期待、好奇心は、おそらく川辺みさ子そのひとが、ウィーンに現れるよりさきまわりして、彼女の登場の背景を準備していたことだろう。いま公使館の客間は五月の深い新緑に青ずんでしまっている。ここへはじめて川辺みさ子が日本服姿を現したとき、まだ傷《きずつ》けられず、うちのめされていない彼女の気魄はとうとうウィーンに来たという亢奮でどれほどたかまって表現されたか。その情景は伸子にも思い描かれるようだった。
三四年みっちり稽古すれば|月光の曲《ムーンライトソナタ》ぐらいは一人前に弾けるようになるだろうと、そのままをウィーンのその教授が云ったのだろうか。川辺みさ子は、日本に一つしかない官立音楽学校教授という肩書のまま遊学した。そして、そのベートーヴェンの演奏で世界をふるわせることができると信じてウィーンへ着いた。川辺みさ子が、そういう評価を与えられたとき、そしてその噂がおどろきに人々に顔を見合わさせながら野火のように彼女の周囲の日本人間にひろまって行くのを見たとき、十四歳で音楽修業をしている少女にとってそれは運指法の問題でありえたとしても川辺みさ子にとっては、生涯の暗転の瞬間であった。三十歳になっている伸子にはっきりそう理解された。自分の仕事というものによって工面した金で外国を女旅している伸子には川辺みさ子の経済問題も深刻にうかがわれた。川辺みさ子の兄は、両親の亡いあとむしろ彼女の経済力で支えられているらしかった。川辺みさ子はおそらく一定の旅費をもってただけだったろう。あとはウィーンをはじめ各地の演奏旅行で収入を得ながら、より高い勉強もつづけようと計画していたにちがいなかった。演奏旅行で収入を得ながらウィーンにくらすという生活と、指の練習からやりなおしをはじめなければならない三十をこした一人の日本婦人としてのウィーンでの朝夕。――日本服の細い肩にゆるやかに束ねられた束髪のほつれ毛を乱して、寂しいウィーンの下宿の窓べりに立った川辺みさ子が、自分の脚の不自由さを音楽家として破局的な時期にまったく致命的な意味をもって自覚した瞬間を想うと、伸子はあわれに堪えがたかった。川辺みさ子のひどい跛が雄々しい優美さをもってあらわれる
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