驫エ情につかまれた。ジンバリストが来ている。そのうれしさで全員の感じた亢奮が、率直にもう若くないしかも大家である女性ヴァイオリニストによってあらわされたように感じたのだった。その演奏会から、伸子も多計代も、ほかの連中もひどく刺戟に疲れてかえって来た。多計代は、まず一服という風に外出着のまま食堂に坐ってお茶をのみながら、一つテーブルをかこんでこれもお茶とお菓子を前にしている伸子たちに、
「さすがはベートーヴェンだけあるねえ。わたしはほんとに感激した。おしまいごろには、涙がこぼれて来てしかたがなかったよ」
と云った。その瞬間和一郎と小枝とが、顔を見合わせようとしてこらえたのが伸子にわかった。伸子は、何にしてもきょうの場所はわるかったと思っているところだった。シムフォニーとして一つにまとまり調和しあった音楽の雲につつまれることができず、伸子たちの席では、はじめっからおしまいまで厖大な音響の群らだつ根っこの底にかがんでいるようなものだった。それは素人である伸子の耳に過度に強烈な音響の群立であり、音楽に感動するよりさきに逃げようのない大量な烈しい音響に神経が震撼させられた感じだった。日本ではじめて演奏される第九シムフォニーだったのに、と切符を買いおくれたことを残念に思っていた。伸子は自然なそのこころもちのまま多計代に、
「場所がわるかったわねえ」
と云った。
「あれじゃ、涙も出て来てしまうわ」
そして何心なく、
「人間て、あんまりひどい音をきいていると涙が出るのよ」
と云った。そう云ったとき伸子に皮肉な気分は一つもなかった。すると、多計代が亢奮でまだ黒くきらめいている美しい眼で伸子を不快そうに見ながら、
「また、おはこ[#「おはこ」に傍点]の皮肉がはじまった」
と云った。
「わたしが感激しているんだから、勝手に感激させとけばいいじゃないか」
伸子はだまった。けれども、多計代はどうして、ベートーヴェンだから感激しなければならないときめているのだろう、と誇張を苦しく思った。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てから、伸子はずいぶんいろいろのオペラをきき、音楽会をきいた。日本ではまだハルビン辺から来るオペラ団を歓迎していた。オペラはもとより、ソヴェトになってから組織されたフェル・シン・ファンスという、コンダクターなしの小管絃楽団の演奏にしろ、伸子が日本できいていたオーケストラとはくらべられない熟練をもち、音楽の音楽らしさをたたえていた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の音楽学校で演奏者たちが舞台の上に円くなって、第一ヴァイオリンが指揮の役もかねて演奏するフェル・シン・ファンスのモツァルトをききながら、伸子は、はじめてモツァルトの音楽の精神にふれることができたように感じた。フェル・シン・ファンスの演奏するモツァルトは、ただおのずから華麗な十八世紀の才能が流露しているばかりではなかった。そこには、意識して醜さとたたかいながら美を追求しそれを創り出そうとしている意志と理性とがあり、人生が感じられた。伸子は、モツァルトを自分のこころの世界のなかに同感した。
その演奏会があったのは一九二八年の雪のつもった日曜の午後だった。雪道をきしませてホテルへかえって来ながら伸子は最後に上野できいて来たベートーヴェンの第九シムフォニーの演奏を思いおこし、それが、どんなに不手際な幼稚なものだったかを理解した。同時に、あのとき、裾模様を着て第一ヴァイオリンの席につきながら束髪の頭を、あんなにうれしそうにこっくり、こっくりした伊藤香女史の特徴のある平顔を思い出し、一つの息を吸うほどの間、早く鳴り出した彼女のヴァイオリンの音を思いおこした。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てみると、それらはすべて途方もないことだったのが、伸子にもわかるのだった。しかしまた、ヨーロッパの輝やかしく技術の練達した、社交性に磨きぬかれた音楽の世界に馴れたジンバリストにとってそういう真心にあふれ鄙《ひな》びた日本音楽家とその愛好家たちの表情は、素朴に感動的だったにちがいないこともわかった。有名なピアニストやセロイストがそのころ幾人か日本へ演奏旅行に来たがその人たちは、来て、演奏して聴衆の質がよいことをほめて、帰った。日本におけるヨーロッパ音楽の発達そのものに深い関心を示したのはジンバリストだった。そのことを、いわゆる通な人々は、ジンバリストが、エルマンやハイフェッツのような世界的に第一流の演奏家でなくて、むしろ教育者風の人だから、とそのことにどこか二流というニュアンスをこめて云ってもいた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てみれば、音楽にしろ演劇にしろその専門の教育は名誉をもって考えられつとめられている。
ウィーンにいる日本公使夫人として、東から西からの音楽交驩に立ち会う機会の多い夫人は、話している対手の伸子が社交界に関係をもっていず、また音楽家でもないことに、くつろぎを感じるようだった。
「こちらにこうしておりますとね、ウィーンへ音楽の勉強にいらっしゃる日本の方々の御評判のいいことも嬉しゅうございますが、ジンバリストのような偉い方が日本へいらして、お帰りになると、きっと、日本の聴衆は静粛で、まじめでいいとほめて下さるときぐらい、うれしいことはございませんよ。そのときは、ほんとに肩身のひろい思いをいたします」
アメリカへ演奏旅行したウィーンの音楽家たちは、アメリカの聴衆は入場券を買って入った以上その分だけ自分たちが楽しませられることを要求している、と云う印象をうけて来るそうだ。まじめ一方な日本の聴衆にさえ好感をもつ人々が、もしロシアのしんから音楽ずきに生れついている聴衆の前で、刻々の共感につつまれながら演奏したら、どんなに活々した歓びがあるだろう。思えばおかしいことだった。ソヴェトへはヨーロッパの音楽家の誰も演奏旅行に行かなかった。ふたをあけるともう鳴り出すオールゴールのように音楽の可能にみちみちているロシアは、避けられている。それは、外国の政府が音楽家がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ行くのをのぞんでいないためなのだろうか。
伸子からそういう質問をうけた公使夫人、どこやらのみ下しにくいものを口の中に入れたような表情をしたまま、
「さあ――。どういうものでございましょうねえ」
すらりと手ごたえのない返事をしたきり、その質問を流しやった。ウィーンでは、そして、この客間では、そういう風に話をもってゆかないならわしである、ということが伸子にさとれるようなそらしかたで。
伸子たちが、社交と音楽のシーズンがすぎてからウィーンへ来たことは、伸子たちのためにもむしろよかった。冬のシーズン中には、その日の午後新緑の光りにつつまれ静寂のうちに小鳥の囀りさえきこえている公使館の客間にも、幾度か公式に非公式に、華々しい客たちが集められるらしかった。シーズンはずれの旅行者であるために、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]から来た社交になじまない伸子と素子にも、公使夫人として気をらくに対せていることを、伸子は感じるのだった。
数年前、ウィーンで自殺した日本のピアニスト川辺みさ子の、自殺するまでにつめられて行ったせつない心のいきさつが、彼女の名も忘られはてた今、ウィーンに来た伸子に思いやられるようになった。
四
川辺みさ子は、伸子が十ばかりのときから五年ほどピアノをならったピアニストだった。ある早春の晩、肩あげの目だつ友禅の被布をきた伸子が父の泰造につれられて、はじめて川辺みさ子の家を訪ねたとき、門の中で犬が吠え、伸子たちが来たのでぱっと電燈のついた西洋間に、黒塗のピアノが一台、茶色のピアノが一台、並んでおいてあった。川辺みさ子は、その春、上野の音楽学校を首席で卒業したばかりの若いピアニストだった。細面の、瞳の澄んだ顔は、うち側からいつも何かの光にてらし出されているように美しく燃えていた。少女の心にさえ特別な美しさがはっきりと感じとられるその川辺みさ子がひどい跛《びっこ》であることが、伸子を厳粛にした。弟の和一郎の小児麻痺をして左の足くびの腱に故障があった。赤坊のときから家じゅうの関心がそこに集められていて、和一郎が四つの春、はじめて乙女椿の花の咲いている庭を一人だちで歩いたとき、二歳の姉娘である伸子は母の多計代より先によろこんで泣きだした。その弟をかばいつづけて少女になった伸子は、自分のピアノの先生が激しい跛だということにつよく心をうたれた。そのことについて、うちへかえってひとこともふれなかったほど、川辺みさ子に同情と尊敬をもった。親たちは、伸子の感情が早くめざめていることに気づいて、ピアノを習わせはじめたのだったが、伸子はうちにベビー・オルガンを一台もっているきりだった。そのベビー・オルガンで伸子は教則本を習いはじめた。
やがて、チンタウから来たものだという、中古のドイツ製のピアノが買われた。古風な装飾のついた黒塗りのピアノの左右についている銀色のローソク立てに火をとぼし、伸子は夜おそくまで、少女の心をうち傾けて練習曲をひき、また出まかせをひいた。それらは、光そのものの中に生きるような時の流れだった。伸子はやがてソナチネからソナタを弾くようになった。そのころの川辺みさ子は有名な天才ピアニストであり、音楽学校の教授だった。ベートーヴェンを専門に勉強していた川辺みさ子のリサイタルは、そのころの音楽会と云えば大抵そうであったように上野の音楽学校で開かれた。飾りけない舞台の奥のドアがあいて、そこから裾模様に丸帯をしめた川辺みさ子が出て来ると、聴衆は熱烈に拍手した。美しく燃え緊張した若い顔を聴衆にむけ、優しい左肩をはげしく上下に波立てながら、左手を紋服の左の膝頭につっかうようにしてピアノに向って歩いて来る川辺みさ子の姿には、美しい悲愴さがあった。その雰囲気に狂い咲いた花のようなロマンティシズムが匂った。彼女の演奏は情熱的であるということで特徴づけられていた。うす紫縮緬の肩にも模様のおかれている礼装の袂をひるがえしてベートーヴェンのコンチェルトが弾かれ、熱中が加わるにつれて、川辺みさ子のゆるやかに結ばれた束髪からは櫛がとんで舞台におちた。コンチェルトはその時分誰の場合でもオーケストラはなしで、ピアノだけで演奏されていた。
伸子に、二人のあい弟子があった。二人とも伸子が通っていた女学校の上級生であり、その人々は、伸子よりずっと上達していた。伸子は、ピアノに向って弾いているとき、よくその横についている川辺みさ子から、不意に手首のところをぐいとおしつけられて、急につぶされた手のひらの下でいくつものキイの音をいちどきに鳴らしてしまうことがあった。川辺みさ子の弾きかたは、キイの上においた両手の、手くびはいつもさげて十の指をキイと直角に高くあげて弾らす方法だった。それは、どこかに無理があってむずかしかった。われ知らず弾いていると、いつの間にか手くびは動く腕から自然な高さにもどってしまって、川辺みさ子の二本の指さきで――いつもそれはきまって彼女の人さし指と中指とであったが、ぐいときびしく低められるのだった。
伸子が、一週に二度ずつ通っていたピアノの稽古をやめてしまったのは、偶然な動機だった。伸子が十六になる前の冬、川辺みさ子は指を、ひょうそう[#「ひょうそう」に傍点]で痛めた。激しい練習のために、ひょうそう[#「ひょうそう」に傍点]になったのだそうだった。稽古は四ヵ月休みにされた。その四ヵ月がすぎて、川辺みさ子が削がれて尖《さき》の細くなった左の人さし指をもって病院から帰って来たとき、伸子は、それまでピアノの前ですごしていた時間の三分の二を机の前にいるようになっていた。音楽と歌にだけ様々な少女の気もちの表現を托していた伸子は、川辺みさ子がひょうそう[#「ひょうそう」に傍点]で指をいためた間に、急速に小説にひかれて行った。その真似をして書く面白さにとらわれた。メレジュコフスキーが、レオナルド・ダ・ヴィンチの生
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