Sである。そういう意味が報道されている。ウンテル・デン・リンデンは外国人の通行安全とあるのが、いかにもウィーンの英字新聞らしかった。ドイツは、世界から旅行者を吸収するために、入国手続を簡単にしてヴィザのいらない時期であった。
「――どういうことなのかしら、こんなことが出ているけれど」
伸子は素子にその新聞をわたした。ドイツの共産党は合法的な政党として大きな組織をもっていた。|K《カー》・|P《ペー》・|D《デー》という三つの字は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の生活をしている伸子たちにとっていつとはなしの親しみがあった。そのベルリンで、暴力的メーデーというのは、どういうことがおこったのだろう。その新聞記事につたわっている調子から、激しい武装衝突がおこったことだけはわかる。伸子と素子とは、ワルシャワで、ああいうせつないメーデーの断片とでもいう光景を目撃して来た。
「比田礼二や中館公一郎、大丈夫かしら」
伸子はあぶなっかしそうに、そう云った。ベルリン全市がただならぬ事態におかれたとすれば、日本の新聞記者である比田礼二や映画監督である中館公一郎にしても、その渦中にいるかもしれないと伸子は考えた。二人は、どちらも、この人々がベルリンからモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に来たときに伸子が会った人たちだった。二人がベルリンからモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来て見る気持の人々だということは、メーデーの事件がおこったとき、彼等がカーテンをひいてベルリンの自分の室にとじこもってはいまいと伸子に思わせるのだった。
「何かあったらしいが、これだけじゃわからない」
ニュースにおどろいて、その朝から二人の間にあった感情のわだかまりを忘れている伸子に、しずかに新聞をかえした。
「いずれにしたって、あの連中は大丈夫さ。外国人だもの」
「わからないわ。どっちもじっとしていそうもない人たちなんだもの」
ワルシャワのあの広場のカフェーに逃げこんだときの女二人の自分たちの姿を伸子は思い浮べた。雨あがりの空に響いてパン、パン。と二つ鳴ったピストルのような音も。――どういう意味で、ベルリンにそれほどの混乱がおこったのか、わけがわからないだけ、伸子はいろいろ不安に想像した。
「きのうの新聞をぜひ見つけましょうよ、ね」
カフェーを出ると、伸子はさっきのキオスクへとってかえした。その店には、前日のしかなかった。青く芽だっているリンデンの街路樹の下に佇んで、伸子は五月三日づけの外電をよんだ。ベルリン騒擾第二日という見出しで、数欄が埋められている。できるだけはやく、事件の輪廓をつかもうとして、伸子は自分の語学の許すかぎり、記事をはす読みした。ベルリンでメーデーの行進が禁止されていたことがわかった。それにかまわず、多数の婦人子供の加った十万人ばかりの労働者の行進がベルリン各所に行われて、警官隊との衝突をおこし、ウェディング、モアビイト、ノイケルンその他の労働者街では市街戦になった。警官隊は、大戦のときつかわなかった最新式の自動ピストルまでつかったとかかれている。ウェディングとノイケルンにバリケードが築かれた。二日の夜は附近の街燈が破壊され、真暗闇の中で、バリケードをはさんだ労働者と警官隊とが対峙した。夜半の二時十五分に、装甲自動車が到着して、遂にその明けがた、労働者がバリケードを放棄したまでが、夜じゅう歩きまわった記者の戦慄的なルポルタージュに描写されている。一日二日にかけて労働者側の死者二十数名。負傷者数百。そして千人を越す男女労働者少年が検挙されつつあるとあった。政府がベルリンのメーデー行進を禁止したという理由が、伸子にはまるでのみこめなかった。ドイツは共和国だのに。――政府は社会民主党だのに。――こんな風なら、ワルシャワのメーデーも、行進が禁じられていたのだったろうか。でもなぜ? いったいなぜ? メーデーに労働者がデモンストレートしてはいけないというわけがあるのだろう。不可解な気もちと、腹だたしさの加った不安とで伸子は、眉根と口もとをひきしめながら、その記事をよみ終り、あらましを素子に話した。
「これだから、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の新聞がないのは不便なのさ。何が何だかちっともわかりゃしない」
もどかしそうに素子が云った。そう云いながら、さっきカバンやなにかの買物をした鞣細工店の前をまた通りすぎるとき、素子は、つとそのショウ・ウィンドウへよって行ってまたその中をのぞいた。
三
メーデーにおこったベルリン市の動乱は、五月五日ごろまでつづいた。政府は禁止したが、それを自分たちの権利としてメーデーの行進をしようとしたベルリンの労働者の大群を、武装警官隊が出動して殺傷したことは、ドイツじゅうの民衆をおこらしているらしかった。ハンブルグでジェネラル・ストライキがおこる模様だった。「メーデー事件公開調査委員会」というものが、ドイツの労働団体ばかりでなく、各方面の知識人もあつめて組織されようとしているらしかった。
ウィーン発行の英字新聞だけを読んでいる伸子と素子とにとって、それらすべてのことがらしい[#「らしい」に傍点]としかつかめなかった。その英字新聞は五月三日のベルリン市の状況を報道するのに、何より先に外国人はウンテル・デン・リンデンを全く安全に通行することができる、と書いたような性質の新聞であった。ハンブルグにジェネストがおこりかかっていることも、調査委員会が組織されたことも、その英字新聞は、直接ベルリンのメーデー事件に関係したことではないように、まるでそれぞれが独立したニュースであるかのように同じ頁のあっちこっちにばら撒いてあるのだった。
伸子と素子とは、黒川隆三が世話してくれた下宿《パンシオン》の三階の陽あたりのいい窓の前におかれたテーブルのところで、ゆっくりそういう新聞紙に目をとおした。
繁華なケルントナー・ストラッセからそう遠くない静かな横通りにあるその下宿《パンシオン》は、伸子たち女づれの旅行者にホテルぐらしとちがった質素なおちつきを与え、黒い仕着せの胸から白いエプロンをきちんとかけ、レースの頭飾りをつけた行儀のいい女中がパン、コーヒー、ウィンナ・ソーセージの朝飯の盆を運んで来たりするとき、伸子は明るいテーブルのところにかけていて、このウィーン暮しが二週間足らずで終るものだということを忘れがちな雰囲気につつまれた。
ベデカ(有名な旅行案内書)一冊もっていず、金ももっていない伸子と素子とは、オペラや演劇シーズンの過ぎた五月のウィーンの市じゅうをきままに歩いて、いくつかの美術館を観た。リヒテンシュタイン美術館でルーベンスの「毛皮をまとえる女」を見ただけでも、伸子としては忘られない感銘だった。そこには、ベラスケスの白と桃色と灰色と黒との見事に古びた王女像もあった。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を出発して来てから十日ばかりたって、伸子ももうウィーンでは下宿《パンシオン》の食事に出るパンの白さに目を見はらなくなった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]からの冬仕度はすっかりぬぎすてられ、明るい大通りの雑踏に交って、思いがけない角度からちらりと店さきの鏡やショウ・ウィンドウのガラスに映る伸子のなり[#「なり」に傍点]はウィーンごのみの、渋くて女らしい薄毛織格子の揃いの服と春外套になった。素子のスーツも春らしく柔かなライラックめいた色合いだった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の生活の習慣で、夜の服がいるなどと思いそめなかった伸子と素子とは、一組二組新調した服装にたんのう[#「たんのう」に傍点]して、きのうもきょうも一つなりなのを気にもせず黒川隆三と郊外のシェーンブルンを見物に行ったり、公使夫妻の自動車にのせられて市外にある中央墓地《ツェントル・フリードホーフ》で、ヨーロッパの音楽史さながらの歴代音楽家の墓地を見たりした。
そのおとなしい公使夫妻は、ヨーロッパの中でも国際政治の面でうるさいことの比較的すくないウィーンのような都会に駐在していることを満足に感じている風だった。公使館が植物園ととなり合わせだった。公使館の庭をかこむ五月の新緑の色が寂《さ》びた石の塀をこして一層こまやかに深く隣りの植物園の緑につづき溶けこんでいる。ドイツのグラフ・ツェペリン号が世界一周飛行へ出ようとしているときだった。もう若くない公使夫人は洋装をした日本婦人の一種の姿で客間の長椅子にかけながら、
「丁度この窓からよく見えましてね、ほんとに綺麗でございましたよ、あの大きい機体がすっかり銀色に輝やいておりましてね、まるで、空の白鳥のように」
などと、伸子に話してきかせた。公使夫人は、ウィーンが世界の音楽の都であるという点を外交官夫人としての社交生活の中心にしていて、日本へ演奏旅行に行ったジンバリストの噂が出た。最近イタリーで暫く勉強してウィーンへまわって来た若いソプラノ歌手の話もでた。大戦後はオーストリアも共和国になって、伝統的な貴族、上流人の社交界がすたれてしまったために、シーズンが終るといっしょにウィーンの有名な音楽家たちは、アメリカへ長期契約で演奏旅行をするようになった。
「そんなわけで当節はウィーンも、いいのはシーズンのうちだけでございますよ。いまごろになりますと、せっかくおいでになった方々にお聴かせするほどの演奏会もございませんでねえ」
「でも、そのおかげで日本にいてもみんながジンバリストをきけたと思えばようございますわ」
日本へヨーロッパの演奏家たちが来るようになったのは、夫人のいうように、第一次大戦のあとからのことだった。ジンバリストが日本へ来たのは伸子がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ立って来た年の初秋ごろのことだった。それはジンバリストの二度めの来訪で、彼はアメリカへの往きと帰りに日本へよった。二度めにジンバリストが東京へ来た期間の或る日、上野の音楽学校でベートーヴェンの第九シムフォニーの初演があった。いかにも明治初年に建てられた学校講堂めいた古風で飾りけない上野の音楽学校の舞台に、その日は日本で屈指な演奏家たちが居並んだ。第一ヴァイオリンのトップは音楽学校教授であり、日本のヴァイオリニストの大先輩である有名な婦人演奏家だった。その日伸子は母親の多計代、弟と妹、二人の従妹たちという賑やかな顔ぶれで、舞台に近すぎて、音がみんな頭の上をこして行ってしまうようなよくない場所できいていた。演奏者たちも、せまい講堂に立錐のよちのなくつまった聴衆も、日本ではじめて演奏される第九シムフォニーということで緊張が場内にみなぎった。第一楽章が、入れ混ったつよい音の林のように伸子たちの頭の上をふきすぎ、短いアントラクトがあって、第二楽章に入ろうとする間際だった。ヴァイオリンを左脇にかかえ、弓をもった右手を膝の上に休ませてくつろいだ姿勢で聴衆席を眺めていた第一ヴァイオリンのトップの伊藤香女史が、何を見つけたのか急にうれしそうな笑顔をくずして、いくたびもつよく束髪の頭でうなずきながら、弓をもった右手を軽くあげた。数百の聴衆は、何ごとかと伊藤女史が頭で挨拶している方角をさがした。谷底のような伸子の場所からは何も見えなかった。が、じきジンバリストだ、ジンバリストが来ている、という囁きが満場につたわった。すると、どこにそのジンバリストがいるのかわからないなりに熱心な拍手がおこって、伸子も、どこ? 見えないわね、と云いながら誰にも劣らず拍手した。ジンバリスト自身は演奏中に思いがけずおこった歓迎を遠慮するらしくて何の応答もなかった。かえって静粛を求めるシッシッという声がどこからかきこえた。それはほんの一分か二分の出来ごとだった。第九シムフォニーの第二楽章がはじまった。その日の指揮はセロのドイツ人教授だった。指揮棒が譜面台を軽く叩き、注意。そして、演奏がはじまる。
一呼吸はやく、第一ヴァイオリンのトップが弾き出した。伸子は、はっとした。次に罪なくほほえまれ
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