アとは明白です。――ルナチャルスキーはインテリゲンツィアよ。レーニンだって。マルクスだって、インテリゲンツィアよ」
 もし革命になったら、というような前提で話すことさえ、伸子にはうけ入れられなかった。伸子は現在の自分が革命家というものであると思っていなかったし、将来そういうものになるとも思っていなかった。しかし、人類の歴史の前進という意味で、伸子はどういう過程でどう現れるのかはわからないながらも、革命というものについて、うけみにばかり感じているのではなかった。でも、それは伸子の心の奥の奥にひそめられている小さくて熱いものだった。議論の中で話す種類のことでもないのだった。
 黒川隆三はしばらくだまって、ひろい外気の中へタバコの煙が消えてゆくのを目で追っていたが、そのうちに自分の心の中の重点を一つところからもう一つのところへおきかえた風で、
「なかなか、頑強ですな。おどろきましたよ」
 こんどは声を立てない笑いかたで笑った。
「もっとも御婦人てものは、一旦こうと覚えこまされると、あたまが単純だからなんでしょうな、なかなか理性的に方向転換できにくいものと見えますからね」
 さっと手をのばしてそういう黒川のネクタイをつかむように、
「とうとうそれを出したね」
と素子が云った。そして、棗《なつめ》形のきめのこまかい顔を上気させた。
「黒川君のまけだよ。男が女と議論して、それを出したら、白旗だ。――認めませんか」
 言葉の上では冗談のようでもあり、黒川に迫っている素子の眼の表情のうちには冗談でない真剣さも閃いている。
「なにしろ二対一だからね」
 態度をあいまいにして、黒川は譲歩した。
「外国じゃあ、あらゆる場合に御婦人を立てる習慣ですからね」
「――そんなことじゃないさ!」
 三人とも三人の思いでだまりこんだ。そのままなおしばらくはそこで休んでいた。
「そろそろ行きましょうか」
 そう云いだしたのは黒川だった。三人並んでカール・マルクス館の廻廊をぬけ、またシュミット爺さんが住んでいるというドアのわきを通りがかった。けれども、黒川はもう一度そこをノックして見ようとはしなかった。みんなは入りまじった音で砂利をふみ、表門を出た。ウィーンもこの辺の労働者街になると歩道が未完成で、歩くだけの幅にコンクリートがうってあるのだった。

        六

 予定どおりにウィーンを立って、プラーグへ来た伸子と素子とは、そこで思いがけず旅程を変更させるような事情にぶつかった。
 伸子たちがウィルソン駅から遠くないホテルへ着いてみると、そこでは近代風なロビーのあたりからアメリカ流のひろいカウンターのぐるりをとりまいて、男女の旅客がひどく雑踏していた。プラーグでは最新式と云われるそのホテルはもう満員になっていて、白と黒の派手な市松模様の床の上にトランクを置いたまま、ことわられた旅客がつれ同士で相談しているのは伸子たちばかりではなかった。いちじにプラーグへつめかけたこれらの旅客は、みんな翌日から開会されるチェッコスロヴァキア第一回工業博覧会へ来た人々だった。東ヨーロッパの交通の中心点であるプラーグへ殺到したこれらの旅客たちのほとんどすべては、伸子と素子とがそこへ行こうとしているカルルスバード目ざしているのだった。欧州で有名な温泉地での遊山《ゆさん》も、工業博覧会へ諸国からの客を招きよせる条件の一つとして、博覧会はカルルスバードで開催されるのだ。
 ウィーンから一二〇〇キロもはなれた旧いボヘミアの都。美しいモルタウ河に沿って「一百の塔の都」とよばれている十三世紀以来の都であるプラーグは、その河岸や町のなかのいたるところに豊富な中世紀の記念物をのこしているとともに、大戦後は、民族解放の指導者マサリークを三度大統領としている新鮮な若い共和国の心臓部でもある。伸子と素子とは、とぼしい知識ながらも、ウィーンとはおのずから違った好奇心を抱いてウィルソン駅に下りたのだった。が、ステーションの混雑にひきつづく予想外のホテル難で、先ず伸子が、旅心をくじかれた。ホテルのカウンターにぐっと上半身をもたせこんで部屋のかけ合いをしている男連中の態度は、いかにも自分たちが工業博覧会のために来ている客たちなのだということを押し出したとりなしだった。数人一組の男づれだったり、或は夫婦づれだったり、いずれにもせよ、伸子たちのように博覧会があるということも知らず、室の予約もなく賑いのなかにまぎれこんで来たような女二人づれの旅客などというものは、カウンターの周囲をいれかわり立ちかわりする人たちの間にも見当らないのだった。
 時がたつほど、ほかのホテルも満員になってゆく心配が目に見えた。伸子たちは、馬車にのって、プラーグの中心地をすこし出はずれたところにある一つのホテルにやっと部屋をとった。それも、一応満員になっているそのホテルで、たった一つだけのこっているという組部屋《コンパートメント》を。
 はじめ着いたホテルが、新興プラーグのビジネス・センターに近くて、設備も近代的をめざしているとすれば、伸子たちが室をとることのできたホテルの気風は、プラーグの優美さをそこに泊ったものに印象づけようとしているらしかった。
 李王世子が泊ったことがあるというその組部屋《コンパートメント》は、ひるがおの花と葉の間に身をおいたような感じの装飾だった。床にしかれたカーペットも壁の絹張りの色もいちように薄みどりの色のニュアンスに調和されていて、天井には、ほんとに露のきらめくひるがおの花びらのような精巧なボヘミアン・グラスのシャンデリアが下から燈火をつつんでいる。寝室には、これもボヘミアらしいレース被いのかかった寝台が並んでいた。日ごろは、閑静なホテルらしいのに、その日はひろくもないロビーに人の出入りがはげしくて、それだのに夕飯の時間になってみると、食堂にはちらりほらりとしか人影がない。ちぐはぐであわただしい空気だった。博覧会のためにプラーグへ集った男女の旅客たちは、行儀のいいホテルの、タバコものめない正式な食堂では陽気になりきれないというわけなのだろう。
 伸子たちは、夕食後、カウンターへよってカルルスバードでは、もうどんな小さいホテルにも空いた部屋はあるまいと聞いて、自分たちの、一晩とまるにしても贅沢すぎて落付けない室へかえって来た。
 かげろうの翅《はね》のような色につつまれた室の一隅に金ぶちのしゃれたガラスの飾り棚がおかれていた。その中に、美術工芸品として世界に有名なボヘミアン・グラスの見事なカットの杯やカメオのような透しやきの小箱などが飾られている。伸子は、少し古びの見える絹ビロードの長椅子にかけて、
「どうする?」
 テーブルのところに立ってタバコに火をつけた素子を見上げた。
「この有様じゃ、何とも仕様がないわね」
 チェッコスロヴァキアの工業博覧会は、向う二ヵ月の予定で開催されているのだった。
「わたし、カルルスバードはやめにする」
「どうして……ここまで来ているのに」
「だって。――わかるじゃないの」
 大雑踏のカルルスバードで、きょうの騒ぎを幾層倍かにした気骨を折ることを思うと、伸子は体が苦しいようになった。
「ね、わたし、ほんとにカルルスバードはやめたいわ。かえって横腹がいたくなってしまうもの」
「そりゃ御本人がいやだっていうなら、それまでのことだがね」
「フロムゴリド博士にだって、決してわるいことはないと思うわ。プラーグで博覧会とかち合おうなんて、思ってもいなかったことなんですもの」
 伸子は素子をときふせた。カルルスバードへ行かないときまったら、翌日プラーグの市内見物をして、夜の汽車でひと思いにベルリンまで行ってしまおうということになった。
 次の日は朝から細かい雨ふりだった。細雨にけむる新緑の道をゆっくり馬車で行きながら、モルタウ河にかけられている中欧らしい橋や城を観てゆくと、伸子は、たった一日たらずでこのこまやかな趣のある、そして宗教改革者フスのまけじ魂をもった町を去ってしまうのが心のこりだった。それに伸子たちが選んだベルリン行の列車ではドレスデンを真夜中に通過することになった。中欧のフロレンスと云われるドレスデンの美術館も見ないでしまう。
「カルルスバードをやめたんだから、もう一晩とまって、ドレスデンへ昼間つく汽車にしない? 四五時間でもいいから」
 有名なプラーグの天文時計を見るために、市役所に向って行く馬車の上で、伸子は素子に云った。
「やっぱりあきらめきれないわ。ドレスデンなんて、またあらためて来られるところでもないし……」
 しばらく黙っていて、素子は決断したように、
「まっすぐベルリンへ行こう」
 はっきりと云った。
「ぶこちゃんの趣味であっちこっちへひっかかりはじめたら、それこそきりがありゃしない。とにかくベルリンまで行っちゃおう」
 こうして伸子たちは翌日のひる近くベルリンに着いた。そして、かねて中館公一郎に教えてもらってあったモルツ・ストラッセのルドウィクというパンシオン(下宿)に部屋をとった。

        七

 ベルリンには、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で伸子たちと一緒にソヴキノのスタディオを見学したりした中館公一郎がまだ滞在していた。建築から新鋭な舞台芸術の研究にかわったことで多くの人に名を知られている川瀬勇もいた。落付いていられるホテルもないプラーグで素子が、とにかくベルリンまで行っちゃおう、と主張した気持の底には、互に言葉の通じるこれらの人々の顔が浮んでいたこともあらそえなかった。伸子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で会った新聞の特派員である比田礼二に会えたらとたのしみにして来たのだった。ベルリンについたあくる日、伸子たちのとまっているパンシオンから近いプラーゲル広場のカフェーで、中館公一郎にあったとき比田のことをきくと、
「あのひとは、いま旅行じゃないんですか」
 あっさりしすぎた口調が、何かを伸子に感じさせるように中館公一郎は答えた。
「ジェネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]かどっちかじゃないんですか。そんなような話だったですよ」
 川瀬勇にたずねたときも、伸子は似たような返事をうけとった。
「ああ、彼は旅行中だよ、スウィスだ」
 その云いかたは、比田の行くさきについて伸子にそれ以上しつこく訊かせない調子があった。おぼろげながら伸子は理解したのだった。要するに、比田礼二はジェネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]であろうと、ずっと東のどこかの都市であろうと、彼にとって行かなければならないところへ行っているのだ、と。そして、それについて何もきく必要はないのだし、きくべきではないのだ、と。伸子はそういうところに、ベルリンという土地にいて世界をひろく生きようとしている日本の人たちの暮しぶりがあることを知ったのだった。
 美術学校の建築科にいたころから俊才と云われた川瀬勇は、ベルリンのどこかの街にもう三年近く住んで舞台装置や演出の研究をつづけていた。かたわら、ベルリンの急進的な青年劇場の運動にも関係しているらしかった。川瀬勇は、そのころ日本で有名になったプロレタリア作家の、印刷工の大ストライキをあつかった長篇小説を翻訳しているところでもあった。翻訳の話のあいだに、川瀬勇がたいへん能才なドイツの女のひとを愛人としているらしいことが、伸子たちに察しられた。
 この川瀬につれられて伸子と素子とはベルリンへ来て間もない或る日、ノイケルン地区へ行った。ベルリンのメーデーに、ノイケルンやウェディングという労働者地区で、数十人の労働者の血が流された。その記事を伸子たちはウィーンにいたとき、偶然買った英字新聞の上でよんだ。
「ただ行ってみたいなんて、何だか恥しいんだけれど」
 ノイケルン行きを川瀬勇にたのみながら、伸子は、その地区に生活し、そこでたたかっている人々に対してきまりわるげな顔をした。
「でも、わかるでしょう? あなたがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来たとすれば、やっぱり赤い広場へは、行ってみる[
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