ヲそうで濡れて人気なく淋しい通りが、どこかで自分たちをともかくワルシャワでのメーデーの行進に出会わせるとは、思えないようだった。
「こんな調子じゃ、行進なんかないのかもしれない」
「そうかしら――そんなことってあるかしら。ここだって労働者がいるはずだのに……」
二人が先へ先へと視線を放って歩いてゆくと、歩道の右手沿いにずっとつづいた公園の低い鉄柵がぽつんと終った。その先に茶色っぽい高い建物が現れた。伸子たちの背たけより高い石の外羽目が切れたところが、城門のようなアーケードになっていた。重々しいそのアーケードの奥がちょっとした広場めいた場所だった。人がつまって乗っているトラックが数台とまっている。伸子たちは怪しんでそっちを見た。
「変だな。――こんなところが劇場広場だなんてことないだろう」
いぶかりながらそれでも二人は建物にとりかこまれて陰気なその広場めいたところへ歩みこんだ。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の赤い広場にくらべると、十分の一あるかなしのその石じきの場所の、三方を高く囲む石造建築の裾にぴったり車体をよせて、トラックが十数台とまっている。どのトラックの上にも、いちようにカーキ色のレイン・コートのような外套を着て同じ色の雨帽子めいたものをかぶった男女が、長い棒をついて立っていた。一台ごとにきまっただけの人数が積まれているらしかった。トラックの上に棒をついて立っている男女の方陣の間からは、そんな情景につきものの談笑も湧いていなければ、タバコをふかしている者さえまれだった。服装はみんな同じだが指揮者らしい年かさの者だけがトラックからおりて、石じきのあっちこっちにかたまり、断片的に何か話したり、腕時計を見たりしている。そこには、何かを待って緊張している雰囲気がある。
何心なくその場へふみこんだ伸子と素子とは、普通でない雰囲気に警戒心をよびさまされた。何かしらただごとでなく感じながら、旅行者の好奇心で、その広場を去ろうとしなかった。
トラックの連中はレイン・コートの上からみんな腕章をつけていた。白地に黒い活字のような字でシュタッド・ガルドとよめる。ガルドという意味を警備とすれば、シュタッドは、クロンシュタッドというようなわけで、市とでもいうわけだろうか。トラックの上からは、伸子たちに向って、無関心な機械的な視線が投げられた。伸子たちが、そこから入って来たアーケードとは反対の広場のはずれに、一軒のカフェーと、短い家なみをなして店鋪が並んでいる。それらの店は防火扉をしめて、カフェーだけがあいていた。袋のような広場からの一方の通路はその一廓にあいている。
高い建物にかこまれた広場のまんなかで足をとめ、そのままどこやら物々しい光景を見まわしている伸子と素子。一人は柔かい灰色アンゴラのファーつき外套を着、もう一人はラクダ色の外套を着て自分たちをむき出しに広場をかこんで止っているトラックの上からの環視にさらしたまま、佇んでいる伸子と素子。そのときその場にいあわせた並の身なりの人間と云えば、こういう伸子と素子の二人ぎりだった。それはどこから見てもポーランド語の話せない外国婦人の風体であり、その場の事情にうといものだけが示す自然で無警戒なそぶりだった。伸子たちは、次第にここの広場の空気のただならなさを感じるにつれ、どっちからともなくまた歩き出して、
「もうすこしあっちへ行こうか」
カフェーが一軒、店をあけている広場のはずれへ近づいた。そこからふりかえってみると、雨あがりの空からうすくさしはじめた陽の光が、高い建物にさえぎられて、広場の半分どころまでに注いでいる。石だたみの奥半分は寒々とした陰翳の中におかれていて、どぎつい明暗は見るからに陰気な広場だった。
伸子と素子とが、あらましその附近の様子を会得したときだった。カフェー側から見て右手の通りに向って三台一列縦隊にならんでとまっていた先頭のトラックから、一声、伸子たちに意味のわからない叫び声がおこった。それは何かの合図だった。忽ち、そのトラックにいたカーキ色レイン・コートの連中が棒を片手にトラックの両側からとびおり、あとにつづく二台のトラックから同じようにしてとびおりて駈け集った連中と一隊になって、す早く、その狭い右手の町口にかたまった。何事かがはじまった。そのときになって、伸子たちは発見した。自分たちのまわりがいつの間にか群集でかこまれている。どこから、いつ、これだけの人が出てきたのだろう。ついさっきまで、広場には、カーキ色の連中のほかに、伸子と素子の姿しか見あたらなかったのに。無気味に、がらんとしていた広場だったのに、いま伸子たちが爪立って前方を眺めようとしている横通りへの出口あたりは、黒山の人だった。その群集の頭ごしに、まだかなりの距離をもってこちらへ向って進んで来る赤旗が見えた。伸子のところから眺められる赤旗は十本たらずの数だった。伸子は赤旗が目に入ったと同時に、異様な衝撃を感じた。赤旗は黙って進んで来る。メーデーの歌の声一つそっちからきこえて来ない。赤旗がこちらに向って前進して来る歩調はかなり速かった。歌声もなく、十本足らずの赤旗はどこか悲しそうに、しかしかたく決心している者のようにいくらか旗頭を前方へ傾け、執拗に一直線に進んで来る。のび上っている伸子は思わず片方の手袋をはめている手をこぶし[#「こぶし」に傍点]に握りしめた。メーデーの日だのに、メーデーの歌もうたわず、ほんの少数でかたまって広場に向ってつめよせて来る赤旗の下の人々の心もちはどんなだろう。突然、先頭に進んでいた赤旗が高く揺れたと思うと、行進は駈足にうつったらしく、それと一緒に急調子のインターナショナルがわきおこった。はげしい調子のインターナショナルの歌声の上に赤旗が広場の間近まで来たとき、カーキ色の連中を最前列にして伸子たちの前方をふさいでいた群衆の垣がくずれ立った。インターナショナルがとぎれた。入りまじっておしつけられた怒号が、伸子に見えない前方からおこった。もみ合いがはじまった。十本足らずの赤旗は高く低くごたごたと怒声の上にゆれていたが、そのうち赤旗を奪おうとしたものがあるらしくて、急に殺気だって圧力をました人なだれが伸子の立っているところまでおしかえして来た。行進はカーキ色連中が棒と棒とでこしらえたバリケードを破って、なお前進しようとしているのだった。人なだれは渦のように広場へひろがって、伸子と素子とははぐれまいとして手をつなぎあったまま小さな日本の女の体をぐいぐいおしたくられ、到頭行進のもみ合っている町口からずっとひっこんだカフェーよりまでつめられてしまった。そのときパン。パン。と高くあたりに響きながら間をおいて二つ、ピストルかと思う音がした。
「なかへ入っちまいましょう、よ!」
伸子と素子とは、むしろよろけこんだという姿勢でカフェーの表ドアをおして入った。そして、そこだけに空席のあったカフェーの大きなショウ・ウィンドウ前のテーブルについた。広場の混乱はショウ・ウィンドウ越しのついそこにあった。それどころか、今にもひろいショウ・ウィンドウのガラスがわられるかと思うほど群集の肩や背中がおしつけられて来る。
そういう戸外の光景をガラス一枚へだてて見ているカフェー内部のおちつきは、まったく対照的なものとして伸子に感じられた。そこにいて外を見ているのは伸子と素子ばかりではなかった。しっかりした体格の背広姿に無帽の男が三四人、それぞれ自分の前のテーブルの上にコーヒー茶碗をおいてかけている。或るものは、外が騒がしくなったから読むのをやめたという風に、ひろげたままの新聞を膝の上へのせて戸外を見ている。一人の男は、椅子の上で体をずらし、ひろげた両股の間へカフェーの小テーブルをはさみこむ行儀のわるい恰好で、ズボンのポケットへ両手をつっこんだまま上眼づかいにショウ・ウィンドウの外でこねかえしている人波を視ている。
内心こわくてそこにいる伸子にまわりの男たちの奇妙に動じないような様子はどこやら不自然に感じられた。もしピストルの撃ち合いでもはじまったら、カフェーの内部とは云っても、ショウ・ウィンドウ一重へだてただけで広場に向って自分たちをさらしているその位置は安全でなかった。そう云っても、手狭なそのカフェーの内部では、ほかに移る奥まった席もなかった。伸子たちのかけているすぐうしろがカウンターで、ワイシャツにチョッキ姿の太ったおやじ[#「おやじ」に傍点]がカウンターのうしろに突立って、腕組みしながら表ドア越しに広場を見ている。
それをきいて伸子がカフェーへにげこんだピストルかと思う音は、あの二つぎりでもうしなかった。入口でカーキ色外套の連中に遮えぎられたメーデーの行進は遂に広場へ入って来ることができなかった。一本の赤旗も広場に釘づけされている伸子たちの視野の内にあらわれなかった。段々、目に立たない速さで広場の群集のもみ合いも下火になりはじめた。伸子はそのときになって、その広場につめかけた群集はほとんど男ばかりで、女は見当らないのに気がついた。そして、陰気な広場へ数百人あつまっている男ばかりのその群集が、ワルシャワ市民のどういう層に属す人々なのかも伸子にわからなかった。メーデーの行進とその赤旗とを広場へ導き入れたいと思って来て見ていた人々なのか、それとも、もしも赤旗が広場へ入ったら、と事あれかしの連中が群集の大部分を占めているのか。――
群集がまばらになってゆくにつれて、カフェーのショウ・ウィンドウの外でマッチをすりタバコに火をつけたりしている男の背広が、失業者らしくすりきれているのが伸子の目にとまった。まるでルンペンらしくよごれて、油じみのついたりしているレイン・コートをひっかけているような男もまじっている。
伸子と素子とは、広場が大分閑散になってからそのカフェーを出た。二人とも、互に必要以外の口をきかなかった。どちらも亢奮が去ったあとの疲れのよどんだ瞼の表情だった。
再び二人で立って眺める広場の空気は、群集のもみ合いが散ったばかりでまだ荒れている。広場をとりかこむ高い建物の外壁にぴったりよせて止っていた幾台ものトラックの影もなく、カーキ色外套の連中は退散してしまっている。それとともに、メーデーの行進と赤旗も同じような速さでどこへ消え去ってしまったものか。伸子と素子とはいくらか急ぐ気持でカフェーの前からさっき行進が広場へ入ろうとしていた街すじの見とおせるところまで出て見た。いまその街すじには、二人五人と遠ざかってゆくまばらな人影があるばかりだった。伸子は、見とおしのきくその路面の明るい空虚さから鋭い悲しみを感じた。あの行進の人々はどこへ行ってしまったのだろう。そして、あの揺れていた赤旗は?――ほんの数節うたわれてすぐとだえたインターナショナル。とだえた歌声も群集の頭の波の上にゆらいでいた赤旗のかげも、伸子にすればまだその空の下に残っていそうに思えるのに、その街すじにあるものとては遠くまでつづくからっぽさである。伸子は思わず深く息を吸いこみ、自分の鼻翼のふるえを感じた。これがワルシャワのメーデーだった。ちらりと見えたと思ったらもう散らされてしまったワルシャワのメーデー。行進して来た人々は何百人ぐらい居たのだろうか。伸子にその見当がつかなかったが、あのようにして赤旗の下にかたまって進んで来た人々が、こんなにす早くカーキ色連中と同じように一人のこさず広場のまわりから姿を消したのは異様だった。伸子にはそれが、むごいしわざにならされた人のすばしこさのように思えた。彼らは、おそらく赤旗をかくして迅く走らなければならなかったのだ。赤旗とプラカートがわきおこる音楽の上に林立していたモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のメーデーの街々が思いくらべられた。伸子の眼に涙がにじんだ。ワルシャワのメーデーに赤旗をたてて行進して来た人々に、伸子は、つたえようのない同感と可哀そうさを感じた。
もと来た道へひっかえす気分を失った伸子と素子とは、自分たちの激しくされた感情におし出されるような歩調で、空虚
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