髀dくてゆるく大きい混雑より小刻みで神経質だった。伸子たちは駅の前から辻馬車を一台やとった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の辻馬車の座席を低く広くしたような馬車だった。瘠馬にひかれたその馬車は黒い幌《ほろ》からしずくをたらしながら、そのかげから珍しそうに早春の夕暮の雨にけむるワルシャワの市街を眺めている伸子たちをのせて灌木の茂みのある小さな公園めいた広場に面したホテルに二人を運んだ。
伸子と素子とが旅行用のハンド・バッグに入れてもっている旅券には、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の日本大使館から出されたドイツ、ポーランド、チェコスロヴァキア、オーストリアに向けての許可が記入されて居り、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]駐在のポーランド公使館のヴィザがあった。ワルシャワからウィーンへゆき、プラーグからカルルスバードをまわってベルリンには少しゆっくり滞在するというのが伸子と素子との旅程であった。伸子の家族がマルセーユに着くのは七月一日の予定だった。それまでに、伸子と素子はパリに到着していればいいはずだった。一年半もそこに暮していれば、伸子と素子とにとって外国であるモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の生活はいつしか身に添ったものになっていて、ポーランド国境を越して来て、伸子も素子も新しく外国旅行に出発して来ている自分たちを感じているのだった。
長い旅行に出たての気軽さと不馴れなのんきさとで、伸子たちは一晩をそこにとどまるワルシャワで格別ホテルを選択もしていなかった。馬車が案内するままに停車場近くの、国境通過の客ばかりが対手のようなそのホテルに部屋をとった。
ワルシャワの駅頭でうけた感じ。それからその三流ホテルのロビーや食堂で、あぶらじみたような華美なような雰囲気にふれるにつれ、伸子と素子とは自分たちがここでは外国人であり、どこまでも通りすがりの外国人としての扱いで扱われることをはっきりと感じた。その国の人々の間で自分たちをそれほど外国人として感じることは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ではないことだった。それに、ワルシャワでは特別、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]から来た外国人[#「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]から来た外国人」に傍点]というものに、一種の微妙な感情がもたれているらしかった。
広場を見はらすホテルの二階正面の部屋がきまると、素子は早速ロビーへおりて、片隅の売店でタバコを買った。こんどの旅行では、少くとも数ヵ国のタバコをのみくらべられる、というのがタバコ好きの素子のたのしみなのだった。素子はロシヤ語でタバコ問答をはじめた。すると、若い女売子の唇にごく微かではあるが伸子がそれを軽蔑の表情として目とめずにいられなかったある表情が浮んだ。女売子はお義理に素子の相手をし、素子の顔をみないで釣銭をさし出しながら、フランス語でメルシと云った。
似たようなことがホテルの食堂でもおこった。伸子と素子のテーブルをうけもった年とった給仕は、素子の話すロシア語をすっかり理解しながら、自分からは決して同じ言葉で答えず、ひとことごとにフランス語でウイ・マダームと返事した。しごく丁寧に、そして強情に。――
食器のふれ合う音や絶間ない人出入りでかきみだされているその食堂の空気をふるわして、絃楽四重奏《ストリング・クワルテット》がミニュエットを奏している。伸子は、音楽に耳を傾ける表情で食事をはじめたが、やがて、
「あら。白いパン!」
びっくりしたような小声でつぶやいた。そして向い側の素子の顔を見た。
「ね?」
「ほんとだ。真白だ」
素子は自分のパンもさいてみて、
「パンが白いっておどろくんだから、われわれも結構田舎ものになったもんさね」
と苦笑した。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では、黒パンと茶っぽい粉でやいたコッペのような形のパンしかなかった。それに馴れてしまっていた伸子は、いま皿の上で何心なく割《さ》いたフランス・パンの柔かい白さに目から先におどろいた気持がしたのだった。でも、伸子には、雪白なパンの色が白ければ白いほど、それは何だかあたりのうすよごれた雰囲気と調和せず、ウイ・マダームとかウイ・メダーメとしか云わない瘠せこけた爺さんの給仕の依估地《いこじ》さと似合わないものに感じられるのだった。
食事がすんで、ロビーへ出て来ながら、素子が、ひやかし半分伸子に云った。
「ぶこちゃんにもなかなかいいところがある。ヨーロッパへ出てきての第一声が、あら、白いパン! てのは天衣無縫だ」
「だって、ほんとにそうじゃない?」
「だからさ、天衣無縫なのさ」
それにしても、ワルシャワの人々の、ロシアに対する無言の反撥は、何と根ぶかいだろう。帝政時代には、ポーランド語で教育をうけることさえ禁じられていた人々が、古いロシアへ恨みをもっているというのなら、伸子にものみこめた。けれども、現在になってまで、これほどロシア語に反感がもたれているとは思いがけなかった。
「ポーランドの人たちは、いまのロシアがどんなに変っているか、知らないのかしら。――まるで別なものになってるのに……」
遺憾そうに伸子が云った。ポーランドはソヴェト・ロシアになってから独立したばかりでなく、一九二〇年にウクライナのひろい地域を包括するようになった。
「あんまりいためつけられていたもんだから、猜疑心がぬけないんだろう。ソヴェトのいうことだって信用するもんか、と思っているんだろう」
ポーランドでは軍人のピルスーズスキーが独裁者で、ポーランドの反ソ的な民族主義の立場を国際連盟《リーグ・オヴ・ネイションズ》に訴えては、ウクライナを分割したりしている。元ソヴェト領だったウクライナのその地方では時々ユダヤ人虐殺があって、伸子たちはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の新聞で一度ならず無惨な消息をよんでいた。
伸子と素子とは、いそぎもしない足どりでホテルのロビーを帳場へむかった。明日のメーデーはワルシャワのどこで行われるのか。劇場の在り場所でもきくように伸子たちはそれをホテルのカウンターできこうとしているわけだった。
ロビーのひろさに合わして不釣合に狭苦しい古風なカウンターのところでは、折から到着した二組の旅客が、プランを見て、部屋をきめているところだった。その用がすむのを待って、伸子たちはわきに佇んだ。旅客たちはドイツ語で話している。いかにも職業用にフロックコートを着た支配人が、ヤー・ヤーとせっかちに返事して、何かこまかいことを云っているらしい一組の夫婦づれの方の細君に答えている。大きな胸の、赤っぽい髪の細君が、内気そうに鼻の長い顔色のよくない亭主をさしおいて旅先のホテルの泊りにも勝気をあらわして交渉している光景が面白くて、伸子は、いつの間にか自分がハンカチーフを落したことを知らなかった。
そこへいかにも、このホテルのどこかで催されている宴会へでも来ているらしい一人の若いポーランド将校が華やかな空色の軍服姿で通りあわせた。彼はすっと瀟洒に身をかがめて伸子が落して知らずにいたハンカチーフを赤いカーペットの上からひろいあげると、
「ヴォアラ。――マドモアゼル」
直立して、乗馬靴の二つの踵をきつくうち合わせチャリンと拍車を鳴らし、笑いをふくんで白い麻の女もちハンカチーフを伸子にさし出した。社交にみがかれてつやのあるヴォアラ・マドモアゼルという云いかた。チャリンと澄んだ音でうち鳴らされた拍車の響。そして軽く指の先へひっかけるようにしてつまみあげたハンカチーフを小柄な伸子にさし出した身ごなし。そのひとつらなりの動作がまるで舞踊のひとくさりそのまま軽妙でリズミカルだった。
伸子は、あんまり人に見られるとも思わず佇んでいた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を立つ間ぎわになってから大急ぎで、そのカラーとカフスのところへ柔かな灰色のアンゴラ毛皮を自分で縫いつけて来た紺の合外套を着て。
そこへさし出されたものを見れば、思いもかけずいつおとしたのか、それが自分のハンカチーフであったのと、若い将校のひろってくれかたが、あんまり派手なサロン風なのとで、伸子はわれしらず耳朶を赤くした。そして、踊りあいての挨拶につい誘われたようなしなで、
「メルシ」
と礼を云った。若い将校は、羞《はじ》らいぎみに外国語をつかう伸子の顔にじっと笑いをふくんだ目を注ぎ、もう一度直立してその拍子に踵をうち合わせ、チャリンと拍車を鳴らして、去って行った。
対手が行ってしまうと同時に、伸子は急にきまりわるさがこみあげた。我にもなくつい気取って、メルシなんて云ってしまって。フランス語なんか知りもしない自分だのに。素子が見ていなくてたすかった、と伸子は思った。素子は支配人に向って少し声高なロシア語で談判めいて云っている。
「どうして? もちろんあなたは知っているはずだし、知っていなければならないでしょう、職務上……」
伸子は、わきへよって行った。
「どうしたの?」
ちらりと伸子を見て、意味ありげに苦笑しながら素子は日本語で、
「メーデーのことなんか知らないって云いやがる」
ワルシャワで、メーデーがどう感じとられているかということが、伸子たちに察しられた。伸子がかわって、英語で支配人に云った。
「宿帳《ゲスト・ブック》にかいたとおり、わたしたちは作家だから、五月一日の光景を観ることが必要なんです――行進はどこにあるんです?」
支配人は黒いフロックコートの腕をあげて鼻髭を撫でながら伸子のいうことをきいていたが、まるで出し惜しみするように、ドイツ訛のきつい英語で、
「行進は劇場広場に集ると、けさの新聞にはありました」
と答えた。つづけて、
「しかし危険です」真中からわけてポマードでかためている頭をふりながら警告した。「彼らが、どこで何をやるか、誰にわかっているもんですか。――御婦人の近よる場所じゃありません」
伸子と素子とが、あしたのメーデーについて支配人から知ることのできたのはメーデー行進は劇場広場に集るだろう、ということだけだった。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を出るとき、彼女たちは、さて、これで今年のメーデーはワルシャワだ、と感興をもって期待した。去年のメーデーは、赤い広場の観覧席で、音楽につれ流れ去り流れ来る数十万の人々の行進を観た。町々が何と赤い旗と群集と歌とで埋ったろう。ウラア……という轟きに何という実感があったろう。行進が終った午後のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の、いくらかくたびれたような市中の静けさのうちにさえもとけこんで休日の空気を充していたあのよろこびと満足の感情。伸子にはその感銘が忘られなかった。ポーランドでは、どういうメーデーがあるのだろう。ワルシャワのメーデーを観る。どうせ、五月一日にワルシャワにいられるならそれは伸子にとっても素子にとっても、自然な興味のよせかたなのだった。
たしかな時間も場所もわからないままに、翌朝九時ごろ、伸子と素子はつれだってホテルを出た。
目をさました頃にはまだ降っていた雨がやっとあがって、歩道はうすらつめたく濡れていた。街路樹の春の芽もまだかたい枝々から大粒な雨のしずくが音をたてて落ちて、歩道をゆく伸子の肩にかかった。幾たびか通行人にきいていま伸子たちが来かかっているその通りは、市公園のどこか一方の外廓に沿っている道らしかった。低い鉄柵とその奥に灌木のしげみが見えている。規則正しく一定の間隔をおいて植えこまれている街路樹と鉄柵との間にはさまれている歩道は、ひやびやと濡れていて淋しいばかりでなく、人通りがごくたまにあるきりだった。その通行人も雨外套の襟を立てポケットへ両手をつっこんだ肩をすぼめるような姿で足早に過ぎてゆく。
伸子と素子とは、互にこれでいいのかしらん、と云いながら半信半疑で歩いて行った。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のようなメーデーの朝の気配があるはずはないにしても、こんなに
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