ゥて、伸子は、おそらく招かれる親戚たちにしろいささか拍子はずれだろうと思った。日ごろ佐々家のあととりとして、うちの運転手が和一郎を若様とよぶのさえやめさせきらない多計代。泰造の仕事の上の後継者として、泰造の引き立てようが足りないと不満をもらす多計代。その多計代が、和一郎の結婚式を仰々しく行えば、馬鹿らしいにせよ、言わばあのお母さんだからとわかる話だった。そんなに内輪にする理由として、このたびのヨーロッパ旅行に若夫婦と同伴するについては経費も莫大なことだから、と多計代はかいている。
 若夫婦を同伴するのは、二人に対する親の恩恵ということが多計代のかきぶりのうちにはっきり示されていた。たとえ自分の健康がどうあろうとも伸子を見舞おうと決心したことは、親の限りない愛だ、と自分からきめて多計代が言っていると同じに。でもそれは、伸子としてそれだけの単純さにはよめないのだった。だって多計代の「このたびわれわれ外国行につき」という言いかたは、たった二十ことにもみたないながら、何とわれわれと多計代と泰造とを主体とし、決定的に言われていることだろう。お前のところへゆくについては、と行く手に伸子の姿を想像して言われてもいなければ、若い人たちにも見せてやりたいしと、かばったところの感じられるもの言いでもなかった。われわれ外国行きにつき、多計代がこうと思うことはみんなその目的にしたがえさせられる。あれもこれも親心の発露というしめくくりのもとに。そしてもっと伸子をせつなくしたことは、多計代は会う人ごとに、新聞、雑誌の記者たちにまで、こんどの一家総出の外国行きは伸子に対するやむにやまれぬ親心からこそ企図されていることを吹聴しているらしいことだった。
 伸子は腋《わき》の下がじっとりするようだった。ふん、と思う人々の気持が伸子の頬の上に感じられた。母というひとは、どうして物ごとをあるとおりに、だからこそ誰でもそのことについてすらりと納得するという風に話せないたち[#「たち」に傍点]なのだろう。娘が外国で病気している。それが心配だし、一度は外国も見ておきたいから、みんなを連れてちょっと行こうと思う。だれがそれをとがめよう。
 多計代の手紙の白い紙をスクリーンとして、その上には黒や灰色やあかね色が、どぎつく神秘的な水色をのぞかせながら、あとからあとから漂いすぎている。伸子にはそんな感じだった。その定まりない色の渾沌は、わが身の上に映って動き流れるが、伸子はそれをつかまえてどの一つの色に統一させるということもできず、流れてとまらないおちつきなさを静止させる力もない。
 伸子は手紙をしまってから、永いこと枕の上へ仰向いていた。涙にならない涙が伸子の胸のうちを流れた。多計代のえたいのしれない強烈さ。伸子がそれを堪えがたく感じ、偽善だと感じる愛の心理のちぐはぐさ。それが母にとっては微塵のうそのない真情であり、すべての行動はその真情から発しているほか在りようないものと信じられているのを、どうしたらいいのだろう。おそらく多計代にとって世の中には善いことと悪いこととしか存在していないのだろう。そして、「母」は本原的に善に属すものと考えられているのだろう。伸子は歎きをもってそう思った。けれども、生活には、善悪のほかに、母のしらない堪えがたい思いという種類のことがあるのだ。その堪えるにかたい思いを、伸子は多計代との間であんまりしばしば経験しなければならない。それが伸子のやさしくなさ、冷刻さと云われるときこれまで何度も伸子の堪えがたさは燃えて憤りにかわって行ったのだった。
 伸子の心の中のこういう一切のうねりにかかわりなく、ナターシャは今は廊下を歩くようになった患者としての伸子を見、車附椅子に用のなくなった退院間ぢかな一人の患者として伸子に接し、彼女自身はますます雄大なおなかの丸さになって来た。ちぢれた髪にふちどられた精力的な彼女の容貌の上で、頬っぺたのはたん[#「はたん」に傍点]杏色はいっそう濃くなった。
「ナターシャ、あなたいつから休暇をとるの?」
「もう十六日あとに」
「それじゃ、わたしはのこされるでしょうね、たぶん」
 伸子の退院はもう時間の問題だった。けれどもそれが三月のうちにできることか、来月にかかってのことになるか、伸子は知っていなかった。フロムゴリド教授の回診のとき伸子は、外国の温泉行きの話を出しかけたばかりだった。日本にいる家族がフランスへ来る。自分はどこかの温泉へ行って暫く休養した上でフランスで家族に会って来たい。伸子がそう言ったら鼻眼鏡をきらめかせ、鼻にかかった幾分甲高い声でフロムゴリド教授は、
「それはすばらしい!」
と、診察用の椅子にかけている白い上っぱりの上体を前へかがめるようにした。しかし、まだ話はそれぎりのことだった。
 ナターシャが、一日一日と近づいて来る休暇をたのしみにしている様子は、感動的だった。彼女は相かわらず勤勉に勤務し、必要な任務をすべて果し、そういう勤務ぶりで来ようとしている二ヵ月の有給休暇をまったく自分にふさわしいものにしようとしているようだった。ナターシャは毎朝おきると、さあ、あともう何日という風に若い夫と数えて暦の紙をめくるらしく、うけもち患者の一人である伸子にことさら言う必要もない自分たちの計画のたのしさが、勤務中彼女のはたん[#「はたん」に傍点]杏の頬にこぼれて感じとられることがあった。
「ナターシャ、あなたを見ていると、わたしまで何かいいことがありそうなきもちになることよ」
 伸子はほんとうにそう感じるのだった。彼女の見とおしをもった生きかたの単純さ。よろこびの曇りなさ。このナターシャが赤坊をもった姿を想像し、そのかたわらにバリトーンの歌手である彼女の若い夫を居させると、そこに若いというばかりでなくまるで新しい内容での家族というものの肖像が思われた。目的のわからない熱烈さと、とりとめなく錯雑した感情のくるめきに支配されつつ日が日に重ねられてゆく動坂の家族生活と、それとをくらべるとなんというちがいかただろう。ナターシャの新鮮なトマトの実のような「家族」をおもうと、伸子は、動坂の家族生活からうける複雑で、手のつけようのないごたごたした物思いから慰められた。保がああして死んだとき、遂に保を生かさなかった環境とし、自分をも息づまらせる環境とし、伸子は動坂のうちの生活と自分の生きかたとの間に、もう決して埋められることのない距離を感じた。そして、ソヴェト社会に向いてくっささった自分を感じ、その感じにつかまって生活して来た。伸子の心の中にわれめをつくっているその精神の距《へだ》たりや動坂のくらしに対する否定の感情はそのままでありながら、娘としてことわりきれないいきさつや肉親として思いやらずにいられない事情が一方に追っかけて来て、伸子はこの間までの苦労なさから掻きおこされてしまった。伸子は、それにつけてもナターシャのよろこばしさを曇りなくかばいたいように言った。
「ナターシャ、休暇をたっぷりたのしみなさいね」
 すると、ナターシャはにっこりして伸子を見、
「散歩できるんです」
とひとこと言った。散歩できるんです――これこそ休暇のたのしさの根本という風に彼女は言った。思えば、そうなはずだった。看護婦として昼間いっぱい勤務し、夜はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学医科のラブ・ファクに通ってきりつめた時の間でくらしているナターシャにとって、散歩ができるということ、昼間ぶらぶら歩きの時がもてるということは、そのほかにも可能ないろんなたのしさがもりこめる自由な時間、解放と休息の何より確実な証左であるわけだった。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]じゅうの樹という樹、建物の樋《とい》という樋が三月の雪どけ水で陽気に濡れかがやき、一日ごとに低くなる雪だまりや水たまりの上に虹が落ちているような雪どけのまばゆさは、伸子の病室にもはいって来た。春のざわめきはおなかの大きいナターシャのうれしそうな様子と調和し、伸子のもうじき退院できるという期待の明るさに調和した。
 家族の騒動や、刺戟的な多計代の激情。支離滅裂な論議ずきを思うと苦しかったが、それでもモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の満一ヵ年の後フランスが見られることや、うちの者たちに会えることは伸子にとっても負担だとばかり言うのはうそだった。伸子は或る日思い立って、日本のうちあてに三通の手紙を書いた。父母あてに、和一郎夫婦あてに、それからあしかけ三年見ないうちに十五歳の少女になっているはずの妹のつや子にあてて。荷物を最少限にすること。母は身についた和服で旅行するように、どうせ多計代はバスや電車にのることはないのだから。足袋は少し多いめに、草履は三足ぐらいもって来るように。パラパラ雨の用意をもつこと――コートなり何なり。なんと言っても和一郎と小枝に対して一番具体的に旅行の収穫を期待する感情が伸子にあった。若い建築家として和一郎がただぼんやり御漫遊[#「御漫遊」に傍点]の気分で来ないように、専門の立場から何か一つのテーマをもって見て歩く用意をするようにというのが、手紙の眼目だった。つや子へ伸子は、女学校の下級生の受けもち先生のように書いた。自分の身のまわりのことは母や小枝をたよりにしないで荷づくりもできるようにしなければいけない、と。あなたは、これまでいつも何をするんだって、誰かに手つだってもらってばかりして来たんですものね、と。
 もう一週間ばかりで伸子が退院するときまったころ、噂されていた泰造の友人の吉沢博士がジェネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の国際連盟の会議へ出席するためにシベリア経由で来てモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ数時間たちよった。その短い時間に素子が吉沢博士に会って、伸子の経過を話し伸子に加えられた治療について報告した。
「そりゃ、もうそこでおちついているんでしょうな」
というのが吉沢博士の意見だった。
「手あても、これ以上の方法はどこにいたってないんだとさ。日本へかえって一ヵ月も温泉へ行けば、ケロッとしてしまうだろうって話しだったよ」
 そう素子がつたえた。伸子は、
「日本へかえって温泉へ行くって?……」
 たちまち不安そうにした。
「わたしたち、逆へ行こうとしているんじゃないの」
「日本へ帰ったらば、ということさね。おっかさんは、吉沢さんに電報をうつようにたのんでるんだそうだ。君の様子しだいで、あっちがたつかどうかをきめるわけになってるらしいよ」
 訊くような眼つきで伸子はそういう素子の顔を見た。何と妙な――だから多計代は率直に、わたしも西洋を見て来たいし、と言ってしまえば誰の気持もさっぱりしていいのに! 伸子は多計代の手紙から感じた矛盾をまたあらためて感じた。死んでもいいから生命を賭して[#「生命を賭して」に傍点]娘の見舞いに来ようとするものが、様子によってたつのをきめる、伸子が旅行してよかったらたつというのは、伸子にはくいちがったものとしてうけとれるのだった。
 とにかく吉沢博士から「タテ。ヨシザワ」という電報がうたれた。伸子は四月の第一土曜日に、あしかけ四ヵ月ぶりでモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学病院を退院して、アストージェンカの狭い狭い素子の室へかえった。カルルスバード行きを証明したフロムゴリド教授の小さい一枚の書きつけをもって。


    第二章


        一

 佐々伸子と吉見素子とがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を出発して、ワルシャワについたのは一九二九年の四月三十日の午後だった。
 朝から車窓のそとにつづくポーランドの原野や耕地をぬらして雨が降っていた。その雨は、彼女たちがワルシャワへついてもまだやまなかった。大きく煤《すす》けたワルシャワ停車場の雨にぬれ泥によごされたコンクリートは薄暗くて、ロシア語によく似ていながら伸子たちには分らない言葉を話す群衆が雑踏していた。その雑踏ぶりは、伸子と素子とがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の停車場で見なれてい
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