オむには多計代の健康が第一であり、そのために金はかかっても、涼しい太平洋の北方航路をとり、アメリカも北方鉄道でぬけて大西洋からフランスへ来た方が、安全と思われるのだった。
日本ではきょう和一郎と小枝の結婚式があげられたという夜、伸子は何とはなし眠りにくくて、九時すぎても病室のあかりを消さずにいた。
かれこれ十時になろうとするころだった。伸子の病室のドアがあいて、よほど前に一ぺん見たことのある女の助医が入って来た。看護婦とフロムゴリド教授の助手であるボリスとのちょうど中間のような地位で、伸子が入院して間もなく回診について来たことのある女助医だった。
「こんばんは。――いかがですか?」
伸子が名前を知らない女助医は、ずっと伸子のベッドのそばへよって来た。
「久しくお会いしませんでしたね。もうほとんど恢復しなすったんでしょう?」
この前みたときと同じ四角い乾いた顔つきで、彼女は愛嬌よくしゃべりながら、伸子を見たりベッドの枕もとのテーブルの上へ眼を走らせたりした。
「今晩、わたしは当直なんです。あなたのことを思い出しましてね、よし、ひとつあの気持のいい日本の御婦人を見舞って来ようと思いついたんです」
彼女の来た時間も、また彼女のいうこともとってつけたように感じながら伸子は、
「ありがとう」
と答えた。
「やっとそろそろ歩きはじめました――もう結構永いことねたきりだったけれど」
「おめでとう」
女助医は何だかおちつかない風で病室のなかをひとわたり見まわし、
「ちょいとかけていいですか」
ときいた。
「――どうぞ」
伸子は、病室へ来たものは誰でもそうするようにその女助医もむこうの壁ぎわにおかれている長椅子にかけるものと思った。ところが、彼女は伸子が思ってもいなかったなれなれしさで、いきなり伸子がねているベッドの脇へはすかいに腰をおろした。伸子は思わずかけものの下で少し体を横へずらせた。女助医は、伸子がその表情をかくそうともしないで迷惑がっているのに一向かまわず、夜の十時の患者の室がまるで非番の日曜日の公園のベンチででもあるかのように、
「あなた、作家でしたね、そうでしたね」
と言いだした。
「ええ」
伸子は短く答えた。
「どんなものをお書きなさるの?――ロマン? それともラススカーズ(短篇)? ああ、わたしは文学がすきですよ。何てどっさり読むでしょう!」
だまっている伸子に、彼女はくりかえしてきいた。
「ね、何をおかきなさるの?」
「小説(ポーヴェスティ)です」
「すばらしいこと! ロシア語でかかれないのはほんとに残念です。本になっていますか」
「わたしはもう幾冊かの本を出版しています」
だが、一体何のためにこういうばからしい会話をしていなければならないのだろう。伸子には訳がわからなくなった。彼女が伸子を迷惑がらしているということをはっきり知らすために、伸子は、
「私に幾冊本があろうと、あなたには同じことです――残念ながらあなたは読めないんだから」
そう言った。
「さあ、もうそろそろねる時間です」
そして、伸子がベッドの中で寝がえりをうちそうにすると、女助医はどうしたのか、
「もうちょっと! 可愛いひと!(ミヌートチク! ミーラヤ!)」
というなり、ベッドのはじに斜《はす》かいにかけていた体を、半分伸子の上へおおいかぶせるようにして右手を伸子の体のあっち側についた。
「きいて下さい、わたしはゆうべ結婚したんです」
その瞬間伸子は女助医が酔っぱらっているのかと思った。ウィシュラ・ザームジュ。嫁に行った――そうだとしてこのひとは何故伸子に知らさなければならないのだろう。伸子は枕の上でできるだけ頭と顎をうしろへひき、きめの荒い四角いどっちかというと醜い女助医の顔から自分の顔を遠のけるようにした。
「あなた、旦那さんがありますか?」
不機嫌に伸子は、
「わたしに旦那さんがあるんなら、どうぞ見つけ出して下さい」
と云って、片手で、
「窮屈(トゥーゴ)」
と自分の上へかぶさりかかっている女助医の白い上っぱりの腕をおしのけるようにした。そう大柄ではないが重い彼女の体と、伸子の体ごしにつっぱった彼女の手との間で伸子のベッドのかけものは息ぐるしく伸子の胸の上でひきつめられた。
「ね、息をさせて!」
必要よりすこしきつい力を出して伸子は身をもがいた。女助医は上の空のような表情で、
「御免なさい」
伸子の体ごしについていた手をどけ、同時に自分の体をまともな位置にもどしながら、なお追いかけて思いこんだように、
「あなた、どこからお金をうけとっているんです?」
ときいた。
この質問で、伸子に万事が氷解した。彼女はさしせまってモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学病院に入院中の日本婦人佐々伸子について、一定の報告をしなければならない立場におかれているにちがいなかった。しかもそれは、突然の必要で、彼女はいそいでいるのだ。それにしても、この人は何という下手な演技者だろう。そういう性質の仕事にまったくふさわしくなく愚直で、悪意がないどころか機智にさえかけた女助医のしどろもどろの努力はむしろ伸子にあわれを感じさせた。伸子は、もう一年以上モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に生活して、ある程度は外国人に対するソヴェトとしてやむをえない必要というものについては理解していた。そして、伸子の理解は同情的だった。無邪気でない者に対して無邪気である必要はない。自分の気持としてもそう思っているのだった。だからそういう特殊であるがその特殊が一般性となっているところではあるとき自分もそれにかかわってゆくのはさけられなかった。伸子の主観的な気持から言えば、いまこの女助医は率直に、これこれのことについて答えて下さい、と伸子に向っていうのが一番かしこい的確なやりかただった。しかし彼女にそうはできない。なぜなら彼女の女助医という立場と別の任務とは全く別個の任務とされていてそれについて知っているものは彼女自身よりほかにあってはならないのが任務の性質だから。
伸子は、彼女のためと自分自身のために、きわめてざっくばらんに説明した。
「或る程度文学の上での仕事を認められている作家が、出版社から本を出す約束で金を出させて旅行するということは、どこの国でもあることです。――わたしのいうことがわかります?」
「どうして? もちろんわかりますよ」
「日本の代表的な出版社の一つである文明社がわたしが出すだろう本のためにわたしのところへ金を送ってよこすんです。朝鮮銀行を通して。――わかりました?」
どうして越したらいいのか戸まどっていた質問の峠を、すらりと通過することができて、女助医はやっと自然に近い表情と動作をとりかえした。あんなに突拍子もなく、まるで何かに酔っぱらったようにゆうべ嫁に行った、などと口走ったことを忘れたように、彼女はにっこりして、
「きっとあなたはソヴェトについて興味のある本をかくことができるでしょう」
と云った。そして、はじめに文学がすきだといったときの空々しさのない調子でつけ加えた。
「ロシア語に翻訳されることをのぞみます」
なお暫く黙ってベッドのはじに掛けていたがやがておとなしく立ちあがって女助医は、
「おやすみなさい」
と言った。
「邪魔して御免なさい」
女助医がドアをしめて病室を出てゆこうとしたとき、伸子はベッドの中から大きな声で、
「あかりを消して下さい、どうぞ」
とたのんだ。
あくる日、いつものとおり面会時間に来て、伸子からゆうべのいちぶ始終をきかされた素子は、
「へえ。だって今更――おかしいじゃないか」
素早く頭を働らかせて状況を判断しようとする眼の表情で言った。
「きのうきょうここへ来た人間じゃあるまいし」
「そう思うでしょう? わたしもわからなかったの。でもよく考えてみたらね、御利益《ごりやく》があらわれたわけなのよ」
「御利益?……なんのさ」
「陸軍少佐藤原威夫の」
「そうか――なるほどね」
素子はうめくように承認した。
「だって、そうとしか考えられないんだもの。わたしたち、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てはじめてだわ、こんなこと」
伸子は自分の推測を最も現実に近い事情として信じた。それにつけ、考えれば考えるほど歎けて来るおももちで伸子はしょげ、
「ほんとに、母ったら!」
おこってもまに合わないという風に気落ちした顔を窓に向けてだまりこんだ。
そのころ、ソヴェトでは、はっきりした目的や理由がないと国外旅行を許可しなかったし、旅行のために国外へもち出せるルーブリの額にも制限があった。伸子たちは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]から出かけた先のどこか便宜な場所で、伸子は文明社からの送金を、素子は東京の従弟にまかせて来ている送金を受けとることができる手筈をととのえておく必要があった。やっと病棟の廊下をそろそろ歩きするようになった伸子に代って、ひまを見ては素子がその調べのために歩きまわった。こういうことを、伸子と素子とは慎重に二人の間だけの事務にしていた。少くとも、フロムゴリド教授が伸子のカルルスバード行きに賛成して、証明書のようなものを書いてくれるまで。伸子も素子も、いらざるひとに――藤原威夫のようなひとに――二人のこの計画へ手を出されることをひどくおそれた。
十八
いったい、佐々のうちのもの、と言ってもそれは多計代の意志で決定されたものなのだったが、いつの間に、ヨーロッパへ出かけて来ようという計画をたて、その決心をし、船室までとったのだろう。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]東京間の電報往復にさきを越されてやっと三月三十日ちかくなってついた多計代からの二度目の部厚い手紙を半分ばかり読んだとき、伸子はそういう疑問にとらわれた。手紙の最後の頁をみると、二月二十一日夜と、多計代がそれを書いた日づけが入っている。素子からのしらせで伸子の病気を知り、胸をうたれ、と言って来た一回目の手紙は、いつごろ出したのだったろう。伸子は枕もとのテーブルから紙ばさみをとって、しまってあるその手紙を出してみた。それは二月五日の日づけだった。二つの日づけをみくらべて、伸子は、ものすごいスピードだと思った。たった二週間たらずのうちに、田舎の家へ行くさえも一騒動の多計代がこれだけのことをきめてしまった。いかにも多計代らしい一図さ。情熱的な強引。動坂のうちににわかにまきおこされた旋風状態が察しられるようだった。間に、和一郎と小枝の結婚式までさしはさまれて。
でも、その和一郎と小枝との結婚について、新しく着いた多計代の手紙の上にあらわされている感情は、期待とちがう沈静、冷淡とさえうけとれる調子で伸子を意外に思わせた。このたびいよいよわれわれ外国行につき、和一郎と小枝の法律上の手続が必要になったから、来月十四日を吉辰として挙式のことに決定。母親のこころは、はかりしれない慈愛をもってこの若い二人の前途を祝福しようと、それぞれ準備中です、とかかれていた。この調子は事務的だった。どことなし、われわれ外国行につき、必要だということが主眼で和一郎と小枝の結婚式は行われることのような感じを与える。「ああ、でもこの母が、出入りのものの祝儀の言葉に何げなくほほ笑んでいる、その胸のうちを何人がわかってくれるでしょう。神となりし吾子は知るらんわが心、泣きつつも笑み、笑みつつも泣く。」
読みながら伸子は暗さを感じ、危惧をおぼえた。ここでは、若い二人に与える祝福という表現をおおうもっとリアルな雲が湧きたっている。母がしんから和一郎と小枝の結婚を歓迎していない感じがむき出されていた。伸子には書いてよこさない何かの考えを多計代としてもっている。そしてそれは彼にしかわかってもらえない、とされているのだった。
伸子は唇を酸っぱさで小さく引緊めたような表情になりながら読みすすんだ。結婚式は親類の者ばかりでごく内輪に行い、おなじ顔ぶれで星ケ岡茶寮の披露をやるとかかれていた。予定されている客の顔ぶれを
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