オらえてあります」
と云ったきりだった。それはナターシャとして自然な態度だった。乾燥して押された花は所詮思い出草にしかすぎない。自分の体のなかで旺盛な生の営みが行われているナターシャにはどんな思い出のよすががいるというのだろう。
 また、二つばかり先の病室にいると云って、伸子のところへ美しく刺繍した婦人用下着をみせに来た女のひとがあった。病院ぐらしのいまは手入れもおこたられているが、いつもは理髪店で鏝をあてられているらしい髪つきで、瘠せてすらりとした体に、だぶつきかげんの紺のワンピースを着ていた。上へ、変り編の青っぽいスウェターを羽織って。
 三十と四十との間らしい年ごろのそのひとは伸子にこまかい花飾を刺繍した麻の下着類を見せた。水色、紺、白、桃色のとりあわせで忘れな草が刺繍されているシミーズ。裾まわりに黄色とクリーム色、レモン色の濃淡であっさりとウクライナ風の模様が縫いとりされているパンテイ。どれもいい配色だし、手ぎわがよかった。伸子は、枕に背をもたせて起きあがっているベッドの上に、それらをひろげて眺めた。
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にも、こういうものがあるんですね。どこでも見たことがなかった」
 伸子が見る範囲のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では、衣料品は貧弱で、麻のブラウスさえ見かけたことがなかった。
「商品じゃないんですよ。個人のためにこんな仕事をするひとがあるんです。わるくない腕でしょう?」
 刺繍を見ている伸子にそのひとが云った。
「お気にいりまして?」
「大変きれいだわ」
「もしおのぞみなら、あなたのために、そういう下着類をこしらえさせることができますよ」
「そう? ありがとう」
 伸子は、ぼんやり挨拶した。素子も伸子も日本からもって来た白いあっさりしたものばかり身につけていて、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]でわざわざ刺繍させた下着を買うなどとは思いもよらなかった。
「――彼女はじきこしらえるでしょう。一週間もあれば。――あなたはそれまでに退院なさいますか?」
 その云いかたで、伸子は、もしかしたらこのひと自身が刺繍のうまい彼女[#「彼女」に傍点]であるかもしれないと心づいた。そこで伸子は、下着類をたたんで、ありがとうとそのひとにかえしながら、
「わたしたちは、ここで簡単にくらしているんです」
と、下着を注文する意志のないことがわかるように云った。
「見事な下着――そして、上へ着るものは?」
 女のひとも伸子といっしょに笑って、
「ほんとにね」
と同意した。
「すべての人は簡単にくらしたいと思っているんです。ただ誰にでもそうくらせるものではないんです」
 伸子からうけとった下着類を女らしいしぐさで何ということなし自分で膝の上でたたみ直しながら、その女のひとは突然、
「あなた、子供さんは?」
と伸子にきいた。
「まだです」
 そう答えて、伸子は夫もなかったのに、と自分の返事が飛躍したのに心づき、
「わたしには、まだ夫がないんです」
とつけ加えた。そのひとはそれについて何とも云わず、しかしどこかでその思い出が、外国の女の病室へ刺繍を見せに来ている現在の彼女の生活とつながっているらしく、
「わたしは子供をもったことがあったんです」
と話しだした。
「それは一九一九年の飢饉の年でね。年をとった真面目ないいドクターでしたが、わたしにこう云いました、いまこの子供を生んで、育てることができると思うかって。――わたしたちは、そういう時代も生きて来たんです」
 伸子は去年、デーツコエ・セローのパンシオン・ソモロフで会った技師の娘の歯のことを思い出した。レーニングラード大学の工科の実習生として放送局につとめているそのソヴェトの娘は、可愛く大きく育った十九歳の体だのに、笑うと上歯がみんなみそっぱ[#「みそっぱ」に傍点]だった。その歯は飢饉のためだった。赤坊の乳歯から本歯にうつる年ごろに、その女の児がひもじく育ったせいだった。
 双方の言葉がとぎれているところへ、ナターシャが、例の踵をひく歩きつきで病室へ入って来た。女のひとは、ナターシャが窓ぎわの台で何かさがしている姿を眺めていたが、しみじみと、
「これが、わたしたちの時代、ですよ――ねえ、ナターシャ。あなたお産の準備にいくら貰うの?」
「月給の半分。――産院は無料なんです。それに九ヵ月の牛乳代」
「決してわるかないわ」
 女のひとは、なお暫くだまって何か考えながら長椅子にかけていた。が、ナターシャが出てゆくと、つづいて、
「では、お大事に。さようなら、わたしは多分あさってごろ退院するでしょう」
 優美であるけれども素姓のあいまいなすらりとした後姿を廊下へ消した。
 たった一ぺんだけ伸子の病室に現れて何かの生活の断片を落し、しかしもう二度とめぐり合うことのない訪問者の一人として、やっぱりそれも或る午後、伸子の病室へ一人のひどく気のたった女が入って来た。
 病院で患者に着せる白ネルの病衣の上から茶がかった自分の外套をはおったもう若くない女は、両肩の上に黄色っぽい髪をふりみだし、ちょうどおきあがっていた伸子をドアのところに立ってにらむように見つめた。
「お前さんかね――日本の女のひとっていうのは?」
 いきなりのことで伸子は返答につまった。しかしここで日本の女と言えば自分よりほかの誰でもないわけだった。伸子は、
「何か用ですか」
ときいた。
「入ってもかまわないかね」
「どうぞ」
 伸子は、長椅子の方をさして、
「かけて下さい」
と云った。
「寒くないかしら。――ここの窓はガラスがこわれているんだけれど」
「なに、かまわないさ」
 その女は、ひどく亢奮している様子でそんなことは面倒くさそうにせかせかと云った。
「わたしはね、ちょいとお前さんに会って話したいと思って来たのさ」
 抗議することのある調子だった。伸子は何だろうと思った。人の気をわるくする機会があるほど伸子はまだ動けないでいるのだから。見当のつかないまま伸子は、
「スカジーチェ(おきかせなさい)」
と云って、両方の手を、半身おきあがっているかけものの上においた。
「わたしは、腎臓がわるくて、体じゅうはれたんでこの病院に入って来たのさ。できるだけ早くよくしてもらって、すぐかえるためにね。それが二週間よりもっと前のことさ。ところがもうこの一週間はわたしの体からはれがひいて、すっかりなおっているのに、ドクターは、まだ癒っていないって云うのさ。――え? 誰が知っちゃいるもんか! わたし[#「わたし」に傍点]は癒ったっていうのに、医者は癒っていないっていう。あけてもくれても一つことだ」
 女はおこった大きな声でしゃべった。大病室の方はしずかだった。廊下越しに、彼女の病床がそっちにある大病室の仲間たちにも、伸子の室で自分が云っていることをきかせようとしているようだった。伸子は荒々しい生活の中に年を重ねて来たらしいその女の上気して毛穴のひらいた顔を見つめた。亢奮しているばかりでなく熱が出ているらしい眼のうるみ工合だった。伸子は、また、
「寒くないのかしら」
と気にした。
「ニーチェヴォ」
 そんなことではぐらかされるものかという風に伸子の注意をしりぞけて、女は一層声高につづけた。
「わたしが早くかえらしてくれっていうと、ここのドクターと看護婦はいつだって、お前さんのことを引合いに出すんだ。あの日本の女のひとを見ろって、さ! 若くって、遠いところから来て一人ぼっちでねていて、友達が来るだけなのに、もう二ヵ月近く、いっぺんだって苦情を云ったことがないって。食べものについても、治療についても辛抱づよいって。わたしもお前さんに見習えっていうのさ!――ばかばかしい※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 女は憤懣にたえないらしく、はげしい身ぶりで片手をふった。
「わたしとお前さんとはまるきしちがうじゃないか。こう見たところお前さんはまだ若い――」
 首をのばして伸子の顔を改めて見直して、
「まるでまだ娘っこみたいなもんじゃないか!」
 伸子は、思わず笑った。
「ところが、わたしはどうだね。わたしはもう四十四だよ。うちには、去年生れの赤坊を入れて五人子供がいるんだ。わたしは、あいつらに食べさせ、着させ、体を洗ってやって、その上勤めているんだ――わたしは掃除婦だからね。それに亭主だって――亭主だって見てやるもんがなけりゃ、どうして満足に働きに出られるかね。――わたしは、お前さんとはまるきりちがうんだ。わかるだろう?――どうして、わたしがお前さんと同じように辛抱づよくなれるかってんだ――世帯も持ってなけりゃ、亭主もなけりゃ、乳呑子《ちのみご》だってないお前さんのようにさ。――お前さんにゃてんで心配の種ってものがないんじゃないか」
 粗野な女の言葉のなかに真実があった。伸子には心配の種がないんだ。ソヴェトの働く女というより古い、ロシアの下層の女のままな彼女の暗い不安な、人を信用しない感情には、医者のいうことも疑わしければ、苦労のなさそうな日本の女を手本にひっぱり出されることにも辛抱がならないらしかった。暗くせつなくとりつめて、髪を乱し、伸子にくってかかっている女に、伸子は自分が予期しなかったおちつきで、
「あなたがわたしのところへ来たのは、よかったですよ」
と云った。
「あなたは、本当のことを云いましたよ。たしかにあなたの条件とわたしの条件とはまったくちがうんです。――わたしはひとりもん[#「ひとりもん」に傍点]だから」
 つい体に力がはいって、重苦しくなった右脇に手をあてて圧しながら、伸子は説明した。
「しかし、お医者があなたに云ったことについて、わたしの責任はないのよ。わたしはまるでそのことは知らなかったんだから。――あなたから、いまはじめてきかされたんだから。そのかわり、あなたのことについて、わたしは誰からもひとことも話されていませんよ」
 煮えたぎるようだった女のいらだちとぼんやりした屈辱感は、伸子のその話しぶりでいくらかずつ鎮められて行くらしかった。伸子のねているベッドの裾のところにつっ立っていた女は、すこしらくな体つきになって肩からひっかけている外套の前を押えながら衣裳箪笥にもたれた。伸子は、
「腰かけなさい。立っていることはあなたの病気にわるいんです」
と云った。
「あなたは、あんまりどっさり働かなけりゃならなかったから病気になったんだから……」
 女は、のろのろした動作で長椅子にかけた。彼女は素足に短靴をつっかけている。いかにも、もう我慢ならない、と病室からとび出して来たらしく。ひとめ見たときはこわらしい彼女の顔にある正直ものらしい一徹さと生活にひしがれたぶきりょうさが伸子の心にふれた。ふっと伸子は、この女の亭主には、もしかしたらほかに若い女があるかもしれないと思った。
「あなたの旦那さん、あなたの見舞に来ますか?」
「あのひとにどうしてそんな時間があるものかね、会議! 会議! で。いつだって、夜なかにならなけりゃ帰ってきないよ」
「党員?」
「ああ」
「あなたは?」
 女は腹立たしそうに、ぶっきら棒に答えた。
「わたしは党員じゃないよ、組合の代議員さ」
「結構じゃないの。デレガートカ(代議員)ならあなたも自分の病気について、道理にかなった考えかたをもたなくちゃならないと思うわ」
「そりゃそうさ。――だけれどね、まあ見ておくれ」
 女は自分の外套をひろげ、更に病衣をはだけて伸子に清潔でない自分の胸をみせた。
「このわたしの体のどこがむくんでるんかね、それどころか、やせちまったわ、ろくなもの食わないでいるから」
「塩気なしの食事でしょう?」
 意外らしく女は伸子の顔を見直した。
「――お前さん、医者の勉強もしているのかね」
「世界中、どこでも腎臓の病人には塩気をたべさせないんです」
「それにしたって、お前さんにゃわけがわかるかね。これほど毎日医者の顔さえ見りゃもうなおったって云ってる者を、何だってまた意地にかかって出さないんだか」
 女の眼のなかにまたつかみどころのない非難苦悩があらわれ
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