ニにも苦しさとこわさとがあった。
セント・ルークの病院にいたころ伸子の全心に恋があったから、ミス・ジョーンズの婚約指環に対してもあんなにやさしい同感があったと云えるかもしれない。それにしても、と、伸子は重苦しい記憶をのりこして考えるのだった。ミス・ジョーンズは、何とあの婚約指環を大事にし、自分たちの幸福の要石がそこにあるようにしていただろう。伸子が、彼女の大切な指環のありかを知ってからミス・ジョーンズはよくあの胸から下げている小袋を出して、一粒のダイアモンドを見た。そのたびに伸子は不思議な感じにとらわれたものだった。辛苦のこもっている見事なそのダイアモンドの婚約指環は、それがミス・ジョーンズのエプロンの下から出て来るとは思いがけないだけに、伸子には何だか、その婚約指環が金の結婚指環と重ねてはめられるときが、ミス・ジョーンズにとってなかなか来そうもなく思えるのだった。
伸子が病院から出て、やがてその都会の山の手にある大学の寄宿舎で暮すようになったとき、ミス・ジョーンズが一度芝居に誘ってくれたことがあった。若い女学生たちがざわめいている寄宿舎のホールで、伸子が七階の室からおりて来るのを待っていたミス・ジョーンズの全体の姿は、何と質素で隅から隅まで看護婦らしかったろう。歩いて来る伸子を認めて、ホールの椅子から立ちあがり、伸子の歩くのを扶けようとでもするように手をさしのばしながらいそぎ足によって来たミス・ジョーンズの素振りは、いい看護婦だけのもつまめな親切にあふれていた。その晩行った劇場の名も戯曲の名も、伸子はもう忘れてしまった。三階の席に、ミス・ジョーンズの親友であるもう一人の看護婦が来ていた。幕がすすむにつれて、ミス・ジョーンズはハンカチーフを握って、しきりに目を拭いた。白いハンカチーフで、せっかちそうに涙をふく彼女の手に指環があった。三階のやすい席からのり出して一心に舞台を見ながら涙をふいているミス・ジョーンズの急にふけたような真面目な横顔が、うす明りの中にぼんやり照し出されていた。
大きいおなかを勤勉な生活の旗じるしのようにして悠々《ゆうゆう》勤務しているナターシャの様子を、あの実直で絶えず何かを懸念しているようだったミス・ジョーンズの生存と思いくらべると、伸子には、それが同じ女の生きてゆく一生だと思えないほどのちがいがあった。ミス・ジョーンズの上等な制服につつまれた体は背高くやせて、棒のようだった。彼女に求められているのは規律正しい行きとどいた勤務であった。それが彼女の職業なのだから。彼女の結婚だの姙娠だのという人間の女に関することは、勤務とは別の、患者のかかわりしらない、彼女だけの問題――プライヴェート・アフェアだった。ミス・ジョーンズの大切にしている婚約指環が灰色の小さな袋にはいってエプロンの下にかくされていたとおりに。文明国[#「文明国」に傍点]では、身もち看護婦の勤務などということは途轍《とてつ》もない笑話以外にあり得ないことだった。
ナターシャは、彼女がうけている社会の条件について、価値を知りつくしていない。そう伸子は思った。ナターシャにはどこにも過渡期の影がない。ナターシャはきっすいのソヴェト娘として育ち、生きている。ヒールのない運動靴のようなものをはいて、いくつも薬袋をのせた盆をもってドアの外を通ってゆくナターシャを伸子は枕の上から見ていた。
その日の午後おそく、やがて面会時間がきれようとするころ、伸子は思いがけない人に訪問された。その日は素子のいるうちに入浴がすんだ。その素子も帰ったあと、雪明りが赤っぽい西日にかわってゆく時刻の病室で、半分ねむったような状態でいた伸子は、
「こんにちは――入ってもいいですか」
という男の声にびっくりして目をあいた。ドアのところに、黒い背広を着て、がっちりした背の高くない日本人の男が佇《たたず》んでいる。伸子は枕の上から頭をもたげるようにして、そのひとの方を見た。全然見たことのない色の黒い四角ばった顔だった。伸子は、入っていいともわるいとも云わず、
「どなたかしら」
ときいた。
「権田正助です。――大使館へ行ったらあなたが病気でここへ入院しておられるってきいたもんだから、ちょっとお見舞しようと思って」
権田正助という名は、伸子の耳にも幾度かつたわっていた。どこかの海で、国際的な注目のもとに第一次大戦当時沈没した旅客船のひきあげに成功して有名になった潜水業者であった。
権田正助は、自分を自分で紹介しているうちに、病室へ入って来た。そして、
「やあ、初めておめにかかります」
頭を軽くさげ、さっさとあいている長椅子に腰をおろした。
「ロシアの病院なんてどんな有様かと実はばかにして来たんだが、案外なもんじゃないですか。――なかなかいい」
権田正助は、枕についている伸子の顔を正面から見ながら、
「ところで病気っていうのはどうなんです」
ときいた。
「どこがわるいのかしらないが、いっこうやつれていないじゃないですか。それどころか、艷々したもんだ。いい顔の色ですよ」
伸子には、権田正助というような商売の人が、まるで見当ちがいな自分の見舞いに来てくれたということが思いがけなかったし、その上、調子の太いもの云いにあいてしにくい感じがした。
「あなたはいつこっちへいらしたんです」
伸子は話題を自分からはなして権田の側へうつした。
「こっちにも、何かお仕事があるんですか」
短く刈って前の方だけ長めな髪を左分けにしている頭のうしろを、ばさっと払うようにした片手を膝におとして、権田正助は、
「それがね、面倒くさくてね」
と云った。
「あなた、ブラック・プリンスっていう船の名をきいたことがあるでしょう? 有名なもんだから」
「――さあ、知らないけれど」
「ブラック・プリンスっていうロシアの大きな船が黒海のある地点に沈んだままになっているはずなんです。こんどは一つそいつをあげて見ようと思ってね、それでやって来たんですが、四の五の云って、ちっともらちがあかない」
「権利か何かお貰いになるわけなんですか」
「そうですよ。なかなかこまかい契約がいるんでね。第一引上げに成功したら、その何パーセントかはこっちへとるということがあるし」
ブラック・プリンスは、世界の潜水業者の間に久しく話題になっている沈没船なのだそうだった。金塊を何百万ルーブリとかつんだまま沈んでいるというのだった。
「それが今ごろまでそのまんまあるものかしら」
押川春浪の綺談めいた物語に伸子はうす笑いの口元になった。ソヴェトは、こんなに新しい開発建設の事業のために金を必要としている。それだのに、自分の領海に沈んでいる何百万ルーブリという金塊をうちすてておこうとは伸子には信じられなかった。
「案外、もう始末してしまってあるんじゃないかしら」
「いいや、そんなことは決してない」
つよく首をふって権田正助は否定した。
「第一、誰もまだブラック・プリンスの引上げに成功したっていう話をきいていないんだから」
「だって、いちいち世界へ報告しないだっていいでしょう」
「そう行くもんですか」
四十を越した年配にかかわらず、権田正助は、一徹に主張した。
「あなたにはわかるまいけれど、海の真中でそれだけの仕事をやるのに、航行中の船が目をつけないってわけは絶対にあるもんじゃないんです。わたしがやっているときだって、どうして、大したもんだった。――コースをまげて来たからね。それに、今のソヴェトには、あの船がひっぱり上げられるだけ腕のいい潜水夫はいませんよ。もぐることにかけちゃ、日本は世界一だからね」
かさばって貝がらだらけになった船そのものをそのままにしておいても、必要な金塊だけ発見して海底からもち出すことがあり得ないのだろうか。かりに権田正助が引上げて見て、金塊がなかったらどうするのだろう。
「そりゃはじめによくよく調べてかかるんですさ。対手国で保証しないもんなら、そりゃ骨折損ですがね――そのかわりうまく当てれば、相当のもんだからね」
権田正助は、当ったときの痛快さと満足を思い出して、北叟笑《ほくそえ》みと云われる笑いかたをした。そして、
「どうです、これでわたしの商売もなかなか男らしくていいでしょう」
と云った。伸子は、ふと妙な気がした。権田正助は、酒のあいてをする女を前においていい気持になっているときのような口調で云ったから。双方が暫くだまった。
「ところで、あなたはいつごろ退院です?」
権田がやがて帰りそうにしてたずねた。
「さあ、まだ見当がつかないんです――肝臓がはれているから」
原因のわからない伸子の胆嚢と肝臓の炎症はなかなかひかなくて、つい四五日前、レントゲン療養所へまで行って調べた。その結果何も新しい発見はなかった。ゾンデをとおしてすんだ胆汁が出るようになって来たけれど、肝臓は膨れていて、肋骨の下から指三本たっぷりはみ出たままだった。
「肝臓とはまた酒のみみたいな病気になったもんだな――黄疸の気はちっともないじゃないですか」
「ええ」
「のむんですか?」
「いいえ」
「まあ、どっちみち大丈夫ですよ。わたしが保証してあげます。その色つやならじき退院できるさ」
帰りそうにしながらまだ長椅子にかけてねている伸子を見ていた権田正助は、ブラック・プリンスのことを云ったと同じ調子で、
「あなた、フレンチ・レター、知ってるでしょう」
と云った。フレンチ・レター。伸子はどこかでそういう言葉をよんだ。そして、それは普通の話の間には出されない種類のことのように書かれていたのを思い出した。だが、果してそういう種類のことなのかどうか。そうだとすれば、権田正助がこんなところで云い出したのがわからなくて伸子は、
「しらないけれど」
と云った。
「ふーん、知らないかな」
小首をかしげたが、
「男のつかうもんですよ」
と伸子に説明した。
「わたしのところに、非常に質のいいのがあるんです、全く自然なんだ。――一つこころみませんか」
伸子は白い枕の上に断髪の頭をのせ、ぽかんとした眼で権田正助を見た。権田の云っている言葉はわかるのだが、話の感覚がまるで伸子とピントを合わせなかった。黙って、意外な眼で権田をみている伸子に、
「とにかくお大事に。――時間があったらまたよってみますが」
と云って、権田正助は病室を出て行った。
十三
どんな気で、権田正助が伸子の見舞いに来、ああいうことを云ったのか、伸子にはいくら考えても推量ができなかった。それなり世界的な日本の潜水業者と自他ともに許している背の低い、色の黒い男は伸子のところへ二度とあらわれず、伸子は一日のうち少しずつベッドの上へ起き上ってくらすようになった。
そうすると、伸子の病室に出入りするひとも、素子とナターシャと医者たちばかりでなくなった。医局の方につとめている若くない看護婦で、紙にはった押し花を売りに来るひとができた。その内気な小皺の多い看護婦のこしらえている押し花は、よくある植物標本のようなものではなくて、青色やクリーム色の台紙へ、その紙の色にふさわしい配合で三四種類のロシアの草や野の花をあしらったものだった。どういう方法で乾燥させるのか、花々は鮮やかなもとの色をあんまり褪《あ》せさせずにいて、柔かい緑の苔が秋の色づいた黄色い楓《かえで》の葉ととりあわせて面白く貼られていたりした。それらの花や苔や草の穂は、伸子にレーニングラードのそばのデーツコエ・セローでくらした去年の夏を思い出させた。そこの野原の夏風にそよいでいた草や花をしのばせ、保が死んだという電報をうけとったとき、パンシオン・ソモロフの伸子の室のテーブルの上にさされていた夏の野の草花を思いおこさせた。押し花は忘られない八月を伸子の心によみがえらせ、伸子は一枚もとらずに返すことのできにくい心もちにされた。伸子は、ちがった組合わせで貼られている押し花を見つけ出しては、その余白に、短いたよりを書いて東京のうちや友達に送った。そういう伸子の買いものにナターシャは興味をもたなかった。
「きれいですね、よくこ
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