「ると云われた。そんな話を、伸子は日本歌舞伎がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来たときにきいた。そのとき一行について日本から来ていた一人の婦人が、ロシアはダイアモンドがやすいと云ってウラル・ダイアをせっせと買っている、という風な噂話で。
 伸子は、一瞬、見事なダイアモンドの指環をはめている多計代の、青白い皮膚のなめらかな細い指を思い出した。その若くない手の表情から、くすんだ色の紅をつけている多計代の華やかな唇のあたりが思い出された。ふっさりした庇髪、亢奮で輝いている黒い眼と濃い睫毛の繁いまばたき。伸子は横たわっているベッドの白いかけものの下でかすかに身じろぎをした。二三日前うけとった多計代からの手紙のなかに何だか気にかかる箇所があった。伸子の病気と入院していることを知った多計代は、いつものとおり流達すぎる草書の字を書簡箋の上に走らせているうちに、次第に自分の感動に感激して来た調子で、伸子の健康を恢復させるためには、母として可能なすべての手段をつくす決心をしたと書いていた。彼のために、というのは、死んだ保のことであった。多計代は、去年の八月保が自殺してから、保のことは決して固有名詞で云わなかった。彼としか書かなくなった。彼のために為すことの乏しかった母は、のこされた子等のために最善をつくすのが彼に対する義務だと思っています。そして、電報為替で千円送ってくれた。その金は、手紙より早くモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へついていた。礼のハガキは行きちがいにつくだろう。が、いま紫水晶の耳かざりを見ているように仰向いたまま読んだ多計代の手紙にあるそれらの字句は、思い出したいま、やっぱり伸子に漠然とした焦《いら》だたしさを感じさせるのだった。気持のぴったりしない肉親の間に感じる愛着といとわしさの複雑に絡りあった感情のなかで、伸子はつまみあげている一対の紫水晶の耳飾りを贅沢なふりこのように振った。ダイアモンドの露が、もっと巧妙な細工で、そこだけ揺れるように作られていたら、どんなに優美だろうと伸子は思った。そして、その露のひとしずくが、つよい閃きを放ついいダイアモンドだったら。――でも、そうなれば、この耳飾は既に貴族のもので、素子が買いもしなかっただろうし、第一伸子はもらえばなお更こまって返しもしかねないものになる。
 病室のドアのところへ誰かが来たように思って伸子は、いそいで紫水晶の耳飾りを手のひらの中に握った。伸子は、ナターシャに、こういうものを見られたくなかった。ナターシャが彼女の大きい少し動物的で勝気そうなあの眼でじろりと見て、肩をそびやかす気持が伸子にありあり映った。ナターシャにとって、それは軽蔑すべきものであり、彼女の階級の歴史が憎悪とともにそれをむしりすてたものなのだ。それをひろって、埃りを吹いて、掘り出しものだと珍重する外国人を見たとしたら、伸子がナターシャだったとしても、さあさあ、そんなものでいいならいくらでもおもちなさい、と思うだろう。伸子は、枕もとのテーブルから紙をとってその耳飾りをつつんだ。そして、ベラ・ドンナの粉薬が入っているボールの薬箱へしまった。
 しばらくして、ほんとにナターシャが病室へ入って来た。ちぢれた髪と、濃いはたん杏色の頬と、踵へ重みをかけた重い歩きつきとで。洗いたての真白い看護服と前かけをつけて、ナターシャの丸い姿はひとしお新鮮だった。伸子は、もうナターシャのおなかの大きさにすっかりなれているばかりでなく、おなかの大きい彼女を愛してさえいるのだった。
「ナターシャ、きょうはあなたのちびさんの御機嫌いかが?」
「オイ! とても体操しているんです」
 その日は、伸子のひまな日だった。マグネシュームと下剤をのまなくてよかったし、ゾンデもない日だった。
 白い病室の壁にまぶしいくらい雪明りがさしている。伸子は、ぼんやりその明るさを見ながら一つの黒い皮ばりの安楽椅子と、白フランネルで縫われた小さい袋とを思い出した。昔、伸子がニューヨークでスペイン風邪にかかったとき入院していたのは、セント・ルーク病院の小さい病室で、黒い皮ばりの大きな安楽椅子が窓と衣裳箪笥の間におかれていた。それは看護婦用のものだった。水色木綿の服の上から、胸のところがひとりでにふくらむほどきつく糊をしたエプロンをかけ、同じようにきつく糊をした小さい白い看護婦帽を頭にのせた一人の看護婦が、その椅子にかけている。そして、モウパッサンの「頸飾」を伸子のために音読していた。
 伸子はベッドにねてそれをきいている。日本語の翻訳で、伸子はその傑《すぐ》れた短篇を知っていた。でも、英語でよまれるのをきいている。はじめのうちは克明に声を出してゆっくり読んできかせていたミス・ジョーンズは――背のたかい、伸子に年のよくわからない気のいいその看護婦はそういう名だった――だんだん物語につりこまれるにつれ、伸子が眠ってしまったと思いでもしたのか、段々黙って、頁から頁へ、ひきつけられて読みすすんで行った。そして、暫くしてよみ終ったとき、思わず前こごみになっていた背中をのばして安楽椅子へもたれこみながら、ミス・ジョーンズは、
「可哀そうに!」
 心からそうつぶやいて、幾人もの看護婦に読みまわされたらしく頁の隅のめくれあがって手ずれた本をエプロンの膝の上においた。
 じっとして仰向きにねている伸子の胸に、ミス・ジョーンズの実感のこもった Poor thing!(かあいそうに)という響がしみとおった。夫のために出席しなければならない一晩の宴会のために身分のいい女友達から、借りた真珠のネックレスを紛失させ、代りに買ってかえした真珠の頸飾りの代を月賦で払うために、何年間も苦労してやつれ果てた貧しくつましい妻。彼女夫婦の幸福ととりかえた月賦払いが終ったとき、もと借りた頸飾りは模造品であったことを知らされる。貧しくて正直なものが蒙《こうむ》った愚弄の惨憺さを、ミス・ジョーンズは真実そのような目にあうこともある立場の人間として、同情といたましさを禁じ得ずにいるのだ。
 一九一八年十二月で、曇ったニューヨークの冬空を見晴らすセント・ルーク病院の高い窓の彼方には、距離をへだてて大都市の同じような高層建築が眺められた。ミス・ジョーンズは、きちんと前を二つに分けて結っている褐色の髪の上に白い看護婦キャップをのせ、高い鼻を横に向けて、頬杖をつき、外の景色を眺めていた。すこし荒れたような横顔にはかすかな物思いと、きちんとした看護婦が彼女の勤務時間中、患者のどんな些細な要求にもすぐ立ち上って応じる準備をもっている習慣的な緊張がある。頬杖をついているミス・ジョーンズの手は、日に幾度も洗われるために薄赤く清潔で、何年間も患者の体を扱っているうちに力が強くなり、節々のしっかりした働く人の手だった。華美と豪奢の面をみれば限りのないニューヨークという都会のなかで、生れつき親切で勤勉で背の高いミス・ジョーンズが、隅のめくれたモウパッサンの「頸飾」一冊を膝において窓の外を眺めている姿は、伸子をしんみりした心持にした。
 いつの間にとろりとしたのか、伸子は自分が眠りかけたのにおどろいたようにして枕の上で眼をあいた。ミス・ジョーンズはさっきと同じ窓ぎわの椅子にかけている。物音をたてずに行われている彼女の奇妙な動作が伸子の視線をひきつけた。ミス・ジョーンズは、真白い糊のこわいエプロンの前胸の横から、小さな灰色の袋をとり出し、そのくちをあけ、なかから何かつまみ出して左手の指にはめた。それは大きなダイアモンドのついた指環だった。ミス・ジョーンズは、女が自分の部屋でひとり気に入りの指環をはめて見ているときのように、真面目な、しらべるような表情で薬指に指環のはめられている左の手を眼の高さにもちあげて動かしながら、冬の室内の光線でダイアモンドのきらめき工合を眺めた。やがてその手を握って膝の上において、じっと見おろした。
 その目をあげたミス・ジョーンズと伸子の視線があった。顔を赧らめたミス・ジョーンズのために、伸子はいそいで彼女と同じような真面目さで、
「その指環はたいへん立派な指環ね」
と云った。
「あなたは大切にしなくてはいけないわ」
 ミス・ジョーンズは伸子の気持をそのままの暖かさでうけとって、
「Yes. Dear」
と答えた。そして、真白い帆のようにふくらんだエプロンの胸横から、長い紐でつりさげられている灰白の小さい袋をぶらさげたまま、
「これはわたしの婚約指環です」
と云った。そして、いまはベッドの上の伸子にもそれを見せるという工合にまた顔からはなして左手をあげて、しばらく複雑なきらめき工合を眺めた。
「勤務中、わたしたちは度々手を洗わなければなりませんからね、ときにはつよい薬で。どんな指環もはめられないんです。だからいつもわたしは勤務がすむと、はめるんです」
 そうやって、伸子もいっしょに真面目な目つきで見ているミス・ジョーンズの婚約指環は、大粒なダイアモンドの見事さにかかわらず、浮々したところも、派手やかさもなかった。その婚約指環は、いかにもミス・ジョーンズとその夫になるらしい地味な人がらの男が二人で相談して、慎重に自分たちのものにしたという感じだった。婚約指環と云っても、そこには、どこかに勤めて一定の月給をとっている男と看護婦であるミス・ジョーンズとのつましい生活設計が感じられる。ふと読んだ「頸飾」の物語から、何とはなし自分たちの婚約指環を出して見る心持になったミス・ジョーンズに伸子は同感できるのだった。
 その夜、七時になると、ミス・ジョーンズはいつものとおり伸子の髪をとかして二本の編下げにし、体じゅうを湯で拭いてアルコールをぬり、タルカム・パウダーをつけて、彼女の一日の勤務を終った。最後にスティームを調節して病室を出て行こうとするミス・ジョーンズに、伸子は、
「ミス・ジョーンズ、あなた、これからまだ手を洗わなければならないの?」
ときいた。
「いいえ。もうすっかりすみましたよ」
「じゃあ、あの指環をおはめなさいよ。わたしは、あなたがあれをはめて帰るところが見たいのよ」
 ミス・ジョーンズは思いがけない注文をうけたように、ちょっとの間伸子を見て黙って考えていたが何か思いついたように、
「じき戻って来ますから」
 ドアをしめて出て行った。ほんとにじき廊下に足早な女の靴音がきこえ、ノックと同時にドアが開いた。着物を着かえて来たミス・ジョーンズだった。彼女はカラーに黒い毛皮のついた紫色の外套を着て、黒い目立たない帽子をかぶっている。
「これでお気に入りましたか?」
 いそぎ足に伸子のベッドのわきへよって来て、
「さようなら、おやすみなさい」
 右手で伸子のかけものを直しながら、婚約指環をはめた方の手で伸子の手をにぎってふった。
「看護婦が個人のなりで病室へ入ることは禁じられているんです――さようなら」
 ミス・ジョーンズはすぐドアのそとへ消えた。
 ――年をへだてて二月の雪明りが室内にあふれるモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の病院で、あのときのミス・ジョーンズのダイアモンドの婚約指環や彼女が紫色外套を着てこっそり入って来たときの正直にせかついた顔つきを思い出している伸子の心は、それからあとにつづいておのずと思いおこされて来た記憶に一種の抵抗を感じた。そうやって毎夜七時に、ミス・ジョーンズが伸子のために夜の身じまいをして帰って行くと、やがて八時頃、伸子の病室のドアが間をおいて重くノックされた。佃が入って来るのだった。佃の下顎の骨格の大きくたっぷりした、青白い筋肉の柔軟な顔がまざまざと伸子の思い出に浮んだ。
 そう。あのころ佃は毎晩伸子の病室へ訪ねて来たのだ。枕の上へリボンを結んだ二本の編下げをおき、それを待っていた自分。夜がふけてもうエレヴェータアのとまった病院の階段を一段一段遠のいてゆく靴音を追って耳を澄していた自分。それを思い出すことは、現在の伸子につらかった。その足音と顔とからにげだすために、あんなにも死もの狂いにならなければならなかった自分。それを思い出すこ
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