買Fトの生きかた」を伸子の女の感覚に訴えた。
 伸子は、身持ちのナターシャに絶大の注意をむけはじめた。
 伸子の入院している婦人ばかりの病棟では六人の看護婦が二十四時間を八時間制の三交代で勤務していた。看護婦が、乳母という意味ももつニャーニャという言葉でよばれているのは、いかにもロシア風な人なつこさだった。また、ニャーニャという昔ながらのよび名が彼女たちの実際にもふさわしかった。というのは六人の看護婦のうち、いくらかでも系統だった医学の知識をもっているのは身もちのナターシャだけで、あとの五人はどれも年とった女たちで、親切と辛抱づよさと看病の経験をもっているだけの、よその国でいう雑仕婦だった。
 朝の掃除の時間に、ナターシャが押し棒の先に濡雑巾のついた掃除道具をもって廊下から入って来るのを見ると、伸子は活気づいた。背の低いがんじょうづくりのナターシャは、艷のいい栗色のちぢれ毛と、そのちぢれ毛に似合った大きくていくらか動物的で勝気らしい眼をもっている。ナターシャは、ゆっくり丁寧《ていねい》に長椅子の下からベッドのかげにまで濡雑巾をかけた。どういう仕事をするときでもナターシャはいそがない。円くて重いおなかが全身にもとめている安定をみだすことのないゆっくりさで、着実に動いている。
 伸子は枕の上からナターシャの動作を目で追った。身もちの彼女の動きがひとりでの慎重さで統制されていることから、伸子はいかにもはじめて母になろうとしているナターシャの若々しさと、赤坊へのかわゆさと夫をこめた自分たちの生存全体へのまじめな評価を感じとった。伸子は、ゆっくり働いているナターシャに向ってねている病人がベッドからものをいう声の調子で訊いた。
「ナターシャ、あなたの旦那さんはどこに勤めているの?」
「彼は学生です。国立音楽学校の声楽科で、バリトーンです」
 医科大学の労働者科(ラブ・ファク)に通っている若い身もちの看護婦の夫は、音楽学校の生徒でバリトーン歌手である。そのことを、ナターシャは、ソヴェト以外の国できくことのできない何の不思議もなさで答えた。
「じゃあ、あなたも音楽は好きね」
「オペラや音楽学校の演奏会の切符は決して無駄にしたことがないんです」
 また別の日。ナターシャは掃除を終って、ガラスの吸いのみの水を伸子の枕もとのアスパラガスに似た鉢植に注いでいる。片手の甲でテーブルへのっかって来ている白と黒とのぶち猫の顔をよこへむけながら、伸子がいう。
「その猫、どうしてこう青いものがすきなんだろう」
「さあ。彼女にはリンゴがないからでしょう」
 新しい野菜のない冬の間じゅう、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の人たちは、ほんとにリンゴやミカンをよくたべる。伸子も毎日ミカンをかかさなかった。
 伸子は、いきなり話題をとばして、
「ナターシャ、ラブ・ファク(労働者科)はもうあと何年ですむの?」
ときいた。
「今二年めです。だから、あともう一年です」
「女の学生、何人ぐらい居て?」
「少ないんです。――たった九人」
 ナターシャは看護婦というよりも大学生らしい眼くばりになって云った。
「わたしたちのところでは、一般に云ってまだ婦人がおくれているんです。生産面に働いている勤労婦人の間でも、高い技術水準をもっている女はすくないんです。それにラブ・ファクは昼間働いてからですからね。学課だってかなり骨が折れるし、女はやり通せない場合もあるんです。家庭をもったり、赤坊がいたりすると」
「あなたはどうなの? 自信がある? その体で昼間働いて、夜勉強する、つらいことがあるでしょう?」
「ニーチェヴォ」
 ほんとに、何でもないという調子でナターシャは、むき出しの腕でちょいと顎をこすった。
「ラブ・ファクではほんとに勉強したいと思っているものだけが勉強しているんです。ただ、ときどき、眠いことったら! どうしたって目のあいてないことがあるんです。並んで順ぐり居睡りしているかっこうったら! オイ!」
 ナターシャはたまらなさそうにふき出した。
「でも、みんないい青年たちなんです。ラブ・ファクには、全国で五万人ぐらいの若者が勉強しています。ルナチャルスキーが云っていたでしょう、『ソヴェトにとって最も必要なのは今ラブ・ファクで困難にうちかちつつ学んでいる者たちだ』って」
 ナターシャは何でもない時間に、ふっと入って来ることがあった。
「かけてもいいですか」
「どうぞ」
 長椅子にかけて、ナターシャは前かけのポケットからリンゴをとり出し、いい音をたててそれを丸かじりし、五分ばかり休んで出て行く。
 ナターシャの勤務ぶりをつくづく眺めていて、伸子は心から、公然たる結婚、公然たる姙娠というものの本質がわかって来るように感じた。
 伸子が女としてこれまで知って来た社会ではどこでも、公然たる結婚ということを結婚の儀式の手落ちない運びかたとか、さもなければ法律上の手続の完了――入籍したかしないかという点などから云っていた。こそこそしたことのきらいな生れつきの伸子は、その意味では佃と公然と結婚したのであったし、同じ意味での公然さで離婚した。
 だけれども。――伸子は、ナターシャが彼女の職業と結婚、姙娠、赤坊の誕生についてもっている全く社会的な公然性を、自分の経験したみせかけばかり[#「みせかけばかり」に傍点]の公然さとくらべて見ないではいられなかった。伸子が女として生きて来た社会では、自分の意志で選んだ対手と生活しようときめた若い女に対してはその胎《はら》のなかまで詮索ごのみの目を届かせずにはおかないほどだのに、いざというとき、みずからが要求したその結婚の公然性に対して、社会は何の保障らしいものを提供しただろう。
 伸子は、そういう社会に行われていて人のあやしまない虚偽におどろきを深めながら、佃と離婚しようときめたときの自分の困惑と動顛の感情を思い出した。伸子は、そのときになるまで日本の民法では女が結婚すると法律上の人格をうしなって無能力者にならなければならないという事実を知っていなかった。互にとって苦しい五年の生活のあげく、伸子は離婚するしかないときめて、その法律上の手続きを調べようと六法全書をあけてみたら、婚姻の項に、その法文を発見したのだった。そのとき伸子はもうずっと佃の家からはなれ、動坂の生家にいた。父親のデスクの前にたって六法全書のその頁をひらいたまま、ほんとにあのときは体も頭も一時にしびれてゆくようだった。佃はこの法律を知っているだろうか。伸子は恐怖の稲妻の下でそう思った。妻という立場の自分からは離婚もできないのだろうか。伸子は毛穴から脂をしぼられるような苦悩で、夫は妻に同居を要求する権利がある、という文句や夫の許可なくして妻が行うことのできない様々の行為をよみ、やっと協議離婚ということは、妻からも求めることができるとわかったとき。これで救われたと思った次の瞬間、伸子は一層残酷な恐怖にとらわれた。もし佃が、協議離婚をうけつけなかった場合はどうしよう。いつもの彼の云いかたで、それは伸子の望むことであるかもしれないが自分としては考えられもしないことだ、僕の愛は永久に変らない、と云って、その手続のためになくてはならない署名や捺印を拒んだら。――それは佃がしようと思えば夫としてする権利のある復讐なのだった。
 うしろの往来では十一月の北風に砂塵がまきあげられている代書人の店先の土間の椅子にかけて、協議離婚の書式がげびた代書人の筆蹟でかかれてゆくのを、くい入る視線で見つめていた自分のコートを着た姿。やがて、佃の本籍地の役場で離婚手続きはされなければならないとわかったときの新しい不安。――ヴィヤトカ・レースのショールをかぶって、雪明りのさしている静かな病室に横たわりながら、あの暗澹としたこころもちを思い出すにつれ、伸子は、女だけがあれほどの恐怖をくぐって生きなければならない社会で、結婚の公然性など、いうも偽善だと思った。
 ナターシャは美しい。若い強壮な動物がはらんでいるような荘重な純潔な美しさにみちている。そのような彼女の美しさは、ナターシャが彼女の現在あるすべての条件において公然と存在しているからこそ、日ましにはたん[#「はたん」に傍点]杏色の濃くなる彼女の頬の上に、日ましにふくらむ看護婦の白前垂の上に輝き出ているのだ。病室へ来て、赤い頬やエプロンの上に澄んだ雪あかりをちらつかせながら無心に何かしているナターシャを眺めていて、伸子はもうすこしで、
「あなたがたにとってソヴェト権力がどういうものだかということはほんとによくわかるわ」
と云いたくなることがあった。そんなとき伸子は黙ったまま白いショールと白い枕との間で、東洋風な一重瞼の黒い眼をしばたたきながら辛辣に考えるのだった。妻であった五年の間に、日本の権力が伸子の公然たる結婚に対して与えたものは、いくばくのものであったろうか、と。妻になったということで法律上の人格がうばわれたほかに、伸子のうけた社会的存在のしるしは、佃の月給に二十五円ずつ加えられていた家族手当と、年に四俵か五俵、独身者よりもよけいに学校からわけられる炭俵だけだった、と。

        十二

 葡萄の房でも眺めるように、伸子は枕に仰向いている顔の上へ両手で一対の耳飾りをつまみあげて見ていた。ちょうど伸子の小指のさきほどある紫水晶が金台の上にぷっちりとのっていて、その紫から滴《したた》りおちたひとしずくの露という風情に小粒なダイアモンドがあしらわれている。大きな紫水晶の粒は非常に純粋で、伸子のベッドの頭の方からさしこんでいる雪明りに透かすと、美しい葡萄の実のように重みのある濃い暗紅の光を閃かせている。
 いかにもモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の富裕な商人の妻の耳につけられたものらしい趣味のその耳飾りは、伸子の誕生日の祝いに、素子が買って来てくれたものだった。そのままでは伸子に使いようがないから、二つの耳飾りを一つにつないでブローチにこしらえ直すという素子の計画だった。その前に、ひとめみせてと、きょうが誕生日であるきのう、素子が置いて行ったのだった。
 紫水晶の重いあつかいかたはロシア風で、伸子はそれがブローチになったとしても紫水晶の重さにふさわしい豊満な胸が自分にはないと思った。二月の生れ月の宝石は紫水晶だからと、素子はその耳飾りを見つけて来てくれた。そして、伸子はよろこんだ。けれども、それはむしろ素子の心くばりに対して示されたよろこびというのがふさわしかった。伸子は、白い紙包みがあけられて、なかからその一対の耳飾りがあらわれたとき、宝石のきれいさに目をみはったと同時に心の奥には一種の衝撃を感じた。どこからみても新品でないその耳飾りは、それだからこそ金目と手間をおしまないいい細工なのだが、このことは伸子に刺すような鋭さで革命の時期を思わせた。はじめこれをこしらえさせて持っていた富裕な女の手からはなれて、この耳飾りが今計らず素子に買われるまで、どのくらい転々としたことだろう。どんな指が、富を表象するこの耳飾りをつかみ、そして離して来ただろう。
 伸子のほんとの好みは、その純粋な美しさをたのしむ宝石のようなものこそ、新しくて、人の慾や恨みや涙にくもらされていないことが条件だった。新しくて美しい宝石が買えないのなら、伸子は全然買おうという気さえおこさなかったろう。でも、素子は買った。大病をしている伸子を慰めようとして。――
 紫水晶の大きな粒にあたる光線の角度をほんの少しずつ変えながら濃紫色の見事な色を眺めているうちに、伸子は、露のしずくのようにあしらわれているダイアモンドがちっとも燦かないのを発見した。露は紫水晶からしたたって繊細な金の座金の上にとまったまま、白く鉱物性の光をたたえているだけだった。多計代の指にいつもはめられていた指環のダイアモンドが放ったような高貴なつよい冷たい焔のようなきらめきは射ださない。ウラル・ダイアと云われているダイアモンドの種類があったことを伸子は思い出した。それはアフリカから出るダイアモンドより質が劣って
前へ 次へ
全175ページ中64ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング