たるほどの紙幣をもっていた。素子はどうしたのかそれを外套の内ポケットに入れていた。劇場の外套あずかり所で、外套をぬいであずけるとき、素子はそのことを思い出し、ポケットから札束を出して、入れ場所をかえた。伸子は、素子のそういう動作は場所柄不用心だと思ったけれども、だまっていた。そのとき、彼女たちのまわりに何人か外套あずけの観客がいた。素子がそうやって手早くではあったが不適当な場所で札を動かしたとき、すぐ横にいて、どうも素子のやったことに気づいたらしい、きびしい顔つきの四十がらみの女が、赤っぽい絹ブラウスを着て、やっぱり同じバルコニーで素子から斜よこの席に一人でかけていた。
伸子は、あいかわらず素子と顔を並べて下を見ながら、小さな声で、
「お金、みられたんじゃないかしら」
と云った。
「あの女、気がついてる? 赤ブラウスの女、外套あずけのところで、すぐあなたのうしろにいたのよ」
「ああ、あいつはすこし変だ」
オペラ・グラスそのものは、伸子たちにとって、なくなって大して惜しいものでもなかったし、不便する品ものでもなかった。けれども、あの子供は、ほんとにただオペラ・グラスが珍しいだけなのか。それとも盗むのだろうか。伸子たちの好奇心はそちらに重点がうつった。
すこし時間をかけすぎた感じだったが、やがてそのピオニェールは伸子たちが見下しているオーケストラ・ボックスの近くの席へ、赤いネクタイ姿をあらわした。幕のしまっている舞台をうしろにして席のところに立ち、伸子たちのいるバルコニーへオペラ・グラスを向け、挨拶に手をふった。幕間にも席を立たずにいたまばらな観客の顔が二つ三つ、ふりかえって、ピオニェールがそこに向って手をふっている伸子たちのバルコニーを見上げた。少年の隣りの席にいた黒っぽい背びろ服の男が、少年からオペラ・グラスをかりて首をねじり、特に伸子たちの方というのではなくバルコニー全体を眺めた。そして、かえしたオペラ・グラスで又ひとしきりあっちこっち見まわしてから、少年は、いまそっちへゆくという意味の合図をして、見えなくなった。
ピオニェールは、オペラ・グラスをかえしに来た。素子は少し伸子をとがめるように「やっぱり来たじゃないか」とささやいた。そして素子と少年との間に、断片的な日本の話がはじまった。
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に日本人すくないですね。中国人は僕よく知ってるんです、『子供の家』に中国人の子供がいたから。僕日本人にあったのはじめてです」
自分の名をペーチャと云って紹介したピオニェールは、やがて開幕を告げるベルが場内に鳴ると、
「僕、こっちの席へうつってもいいですか」
と素子にきいた。
「幕間に、もっと日本のことがききたいから」
その晩のエクスペリメンターリヌイ劇場は八分の入りだった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の劇場ではそこがあいていることがたしかなら、席をかえてもかまわない習慣がある。――もっとも、そんな空席のあることはまれだったけれども。
ピオニェールはそのままバルコニーにのこって、赤ブラウスの女の一つうしろの席に坐った。素子と伸子との座席は丁度第一列の中央通路から一つめと二つめだった。素子の右手はゆったりした幅の通路で区ぎられており、その隣りにいるのは伸子で、あとずっとその列に空席がなかった。
オペラとバレエだけを上演する国立大劇場とくらべれば、エクスペリメンターリヌイ劇場は、上演目録も『ラ・ボエーム』『ファウスト』『トラヴィアタ』という風なもので若い歌手たちの登場場面とされていた。すべてが小規模で、舞台装置もあっさりしているけれども、その晩の『椿姫』は魅力的であった。ソプラノが、いかにも軟かく若々しい潤いにとんだ声で、トラヴィアタの古風で可憐な女の歓び、歎き、絶望が、堂々としたプリマドンナにはない生々しさで演じられた。歌詞がロシア語で歌われるために、流麗なメロディーにいくらかロシア風のニュアンスがかげを添え、その晩の『椿姫』は、プーシュキンでもかいた物語をきくような親しみぶかさだった。伸子は、体のなかで美しく演奏されたオペラのメロディーが鳴っているような暖くとけた心持で劇場を出た。パッサージ・ホテルまで歩いて、そこで素子とお茶でものんで、伸子はそれから電車でアストージェンカの住居へ帰るのだった。
雪のこやみになっている夜道を中央郵便局の建築場に面したパッサージの入口まで来た。伸子たちは二人きりでそこまで来たのではなかった。例のピオニェールが送ってゆくと云って、ついて来ていた。
パッサージの入口で、素子が糸目のすりきれた黒ラシャの短外套の襟の間から赤いネクタイをのぞかせているピオニェールにわかれを告げた。
「じゃ、さようなら、家へかえって、寝なさい。もうおそいよ」
ピオニェールは、ちょっと躊躇していたが、
「あなたの室へよって行っていいですか」
いくらか哀願するように云った。
「ほんの暫くの間。――じきかえります」
伸子も素子も、子供が茶をのみたがっているのだと想像した。
「ピオニェールが、そんなに夜更していいのかい」
そう云いながら結局三人で素子の室へあがった。そのとき素子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へついた一番はじめの晩に伸子と泊った室、あとでは長原吉之助がオムレツばかりたべながら二週間の余り逗留していた三階の隅の小さい部屋をとっているのだった。
素子の室へはいって外套をぬぎ、もちものをデスクの上や椅子の上においてひと休みするとピオニェールはめっきり陽気になりだした。小さい焔がゆれているような顔をしてトラヴィアタの中にあるメロディーを口笛で吹き、そうかと思うと、ブジョンヌイの歌を鼻うたでうたって、部屋じゅう歩きまわったあげく膝をまげた脚をピンピン左右かわりばんこに蹴出すコーカサス踊の真似などをした。
「なぜ、お前さんはそう騒々しいのかい」
と、素子があきれた顔でとがめた。
「おかしな小僧だ!」
ピオニェールはすかさず、
「僕、いつだって陽気なんだ。ラーゲリ(野営地)で有名なんです」
と口答えして笑ったが、敏感に限度を察して、それきりさわぐのをやめた。そしてこんどは当てっこ遊びをはじめた。
「この机の引出しに何が入ってるか、僕あててみましょうか」
「あたるものか」
「いいや僕あててみせます――先《ま》ず――何だろう」
緑色のラシャの張ってあるデスクを上から撫でて、金色の髪がキラキラ光る五分刈の頭をかしげ、
「まず、紙類が入っている!」
「お前さんはずるいよ。紙類の入っていない机の引出しなんてあるものか」
「それから、たしかに鉛筆も入っている。ナイフ――あるかな?」
ピオニェールは、挑むような、からかうような眼つきをして素子と伸子を、順ぐりに横目で見た。
「少くとも、何か金属のものが入っています!」
そう宣言しながらさっと素子のデスクの引出しをあけた。その引出しに、白い大判のノート紙と日本の原稿紙などしか入っていないのを見てピオニェールは、失望の表情をした。
「大したもんじゃないや!(ニェ・ワージヌイ!)」
「あたり前さ、もちろん大したもんじゃないよ、紙は紙さ。白かろうと青かろうと」
ピオニェールはすぐ元気をとり戻した陽気さにかえって、
「でも、僕はあてましたよ、御覧なさい。これは金属でつくられてる!」
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]製のペン先を二本つまんで見せた。
「――さてと……これには何が入っているかな」
デスクの上におかれている素子の書類入鞄に手をかけようとした。
「さわっちゃいけない」
きつい声で云って、素子はその鞄をかけている椅子の背と自分の体との間にしっかりはさみこんだ。
「なぜ、それにさわっちゃいけないんですか?」
「お前さんの指導者にきいてごらん」
伸子は、ピオニェールのあてっこ遊びに飽きて来た。茶をのまして早く帰そうと思い、水色エナメルの丸く胴のふくらんだヤカンをさげて、台所まで湯をとりにおりた。
湯の入ったヤカンをさげ、ピオニェールのためにコップとサジとをのせた盆をもって部屋へもどって来ると、ピオニェールは、せまいその部屋の真中あたりにじっと椅子にかけている素子のまわりを、ぐるぐるまわって歩きながら、伸子の茶色い小さなハンド・バッグをあけてなかをのぞき、
「やあ、あなたのまけだ!」
と叫んでいるところだった。
「七ルーブリ、三十五カペイキと、金の時計と、古い芝居の切符とが入ってますよ」
伸子は、変なことをすると思った。
「なにしてるの? なぜわたしのスーモチカ(金入れ)に用があるの」
「あなたのタワーリシチが、この中に入ってるものをあてる番だったんです。三ルーブリぐらい金があるだろうというきりで、あと何が入っているか、全然しらなかったんです。僕が勝ったんだから、これは僕が没収(リクイジーロワーチ)します」
ピオニェールは、その茶色の小型ハンド・バッグを、もったまま、手をうしろへまわした。伸子は、少年の前へずっとよって行って手をさし出した。
「よこしなさい!(ダワイ)」
「…………」
「どうして? よこしなさい! 遊びは遊びよ!」
戻してよこしたハンド・バッグを伸子は、机にしまい、音をたてて引出しをしめた。
「さあ、もう十分だ。お茶をのんで、帰るんです」
茶をのみながら伸子はそろそろ自分のかえる時間も気になりはじめた。
「何時ごろかしら」
素子が腕時計を見た。
「おや、もうこんなかい」
間もなく十二時になろうとしているところだった。
伸子はピオニェールのなりをした少年とつれ立ってパッサージ・ホテルを出た。トゥウェルスカヤ通りを、猟人広場の方へおりた。
「アストージェンカへは、ストラスナーヤからも行けますよ」
「知ってるわ」
「ストラスナーヤから行きましょうよ。――いやですか?」
「わたしには遠まわりする必要がないのよ」
ストラスナーヤ広場は、夜のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の繁華なところとされているかわり、いろんなことのある場所としても知られていた。伸子は、ストラスナーヤをまわって行こうと云った少年の言葉を自然にきけなかった。足早に猟人広場の停留場へ行こうとして、伸子は雪のつもったごろた石の間で防寒靴をすべらせた。
「気をつけなさい!」
ピオニェールは大人らしく叫んで伸子の腕をささえた。そして、彼が支えた方の手にもっていて、すべったとき伸子がそれをおとしそうにした茶色の小型ハンド・バッグを、
「僕がもってあげましょう」
伸子からとって自分の脇の下にはさんだ。
アストージェンカへ行く電車が間もなく来た。明るい車内は、劇場や集会帰りの男女で満員だった。伸子とピオニェールはやっと車掌台へわりこんだ。伸子たちのほかにも数人乗った。おされて少しずつ奥へ入りながら、伸子は、
「そのスーモチカをよこしなさい。切符を買うから」
と云った。
「僕が買ったげます――僕はパスがあるから」
そう云いながら伸子より一歩さきに車掌台から一段高くなった電車の入口に立っていたピオニェールは、すこし爪先だったようにして、こんだ車内を見わたした。電車は次の停留場へ近づいているところだった。ちょっと外を見た伸子が、目をかえして電車の入口を見たら、ピオニェールは、そこにいなかった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の電車で車掌はいつも伸子たちののりこんだ後部にいて、日本のように車内を動きまわらない。見ればちゃんと婦人車掌は、こみながらも彼女の場所として保たれている片隅に立っている。ピオニェールは切符を買うために奥へ入る必要はないのだ。
やられた! 伸子は瞬間にそう思った。それといっしょに伸子は黙ったまま猛烈な勢で電車の奥へ人ごみをかきわけて突進しはじめた。伸子はすり[#「すり」に傍点]という言葉を知らなかった。泥棒という言葉も思いうかばなかった。咄嗟に叫ぶ声が出なかった伸子は、ぐいぐい人をかきわけて奥へすすみ、停留場へ着く前に自分で赤ネクタイをつかま
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