秤ョと同じ混乱があった。

 建物の同じ棟の一階下に、ともかく部屋が見つかったのは三日目の正餐のあとのことだった。細君は、まるで一家のごたごたが伸子たちのせいででもあるように、がんこに寝室から顔を出さなくなった。正餐には帰らなかったソコーリスキーが五時ごろ、いそいで十五分間ばかりもどって来て伸子たちのドアをたたいた。やっと同じ棟の三階に一部屋できたこと、四十分たったら荷物をはこぶために門番が来ることを通告して、ちょいと寝室へ入ってゆき、ドアの間へ外套の裾をはさみこみそうにあわただしくまた出て行った。伸子たちはアニュータに心づけをやり、太って息ぎれのする門番について三階の新しい室へおりて行った。

 いかにも醇朴な若くないロシア女の眼をもった主婦の顔を見て、まず伸子がふかい安心と信頼を感じた。そのルケアーノフ一家はソコーリスキーの家庭と比較にならないほど質朴で、住んでいる人に虚飾がないように調度も余計なものはなに一つなかった。
 伸子たちのための部屋というのは、しかしながらひどい部屋だった。この建物には、どこへ行っても一部屋はそういう室があるらしい狭い小部屋が、ルケアーノフのクワルティーラでは、建物の内庭に面して作られていた。暗い外ではしきりなしに雪の降っている内庭に面して一つの窓が開いているばかりで、寝台が一つ、デスクが一つ、入口のドアのよこにたっている衣裳箪笥で、きわめて狭いその部屋はもういっぱいだった。
 ソコーリスキーが苦しまぎれに、こんな部屋でも無理に約束したことは明白だった。伸子たちにしても、ソコーリスキーの破局的な不安にとらえられている家庭の雰囲気中にいるよりは、どんな窮屈でも、さっぱりしたルケアーノフの室がましだった。伸子たちが、苦心して荷物を片づけているのをドアのところに立って見ているルケアーノフの細君の素朴な鳶色の目に、真面目な親切と当惑があらわれた。
「この室は、わたしの娘がつかっている部屋でしたのを、ソコーリスキーが、たってと云われるので、お二人のためにあけたんですけれど――二人が暮せる部屋ではありません」
 一層困惑したように、ルケアーノフの細君は、手縫いの、ロシア風にゆるく円く胸もとをくったうすクリーム色のブラウスのなかで頸筋をあからめた。
「わたしどものところでは、あなたがたのために正餐をおひきうけできるかどうかもきまっていないんです」
 伸子も素子もそれぞれに働きながら、困ったと思った。素子が、
「ソコーリスキーがおねがいしませんでしたか」
ときいた。
「あのひとは、そのことをあなたにお話ししなければならなかったわけです」
「ソコーリスキーは話しました。けれども、わたしの夫がいま出張中なのです。この部屋をおかししたことさえ、彼は知らないんです」
 ソコーリスキーが何かの関係でことわりにくいルケアーノフの細君をときふせて、部屋のやりくりをさせたことはいよいよ明瞭になった。ゆっくり口をきく真面目な細君は、伸子たちに対して、主婦としてはっきりしたことの云いきれない極りわるさとともに、夫に独断で外国人を家庭に入れたりしたことに不安を感じているのだった。
「いいじゃないの、パッサージへたべに行けば」
 日本語で伸子が云った。
「うちの人が気持いいんだもの」
 素子が、むしろ細君の不安をしずめるように、
「かまいませんよ」
と云った。
「何とかなります。心配なさらないでいいんです」
「オーチェン・ジャールコ(大変残念です)」
 心からの声で細君がそう云った。しばらく考えていて細君としては些細《ささい》な、けれども伸子たちにとっては大いに助かる申し出が追加された。
「お茶は、わたしどものところで用意できます。朝と晩――」
 翌々日出張さきから帰って来たルケアーノフは、物の云いかたも服装も地味な五十がらみの小柄な撫で肩の男だった。大して英雄的な行動もなかったかわり、正直に一九一七年の革命を経験して、実直に運輸省の官吏として働いている、そういう感じの人物だった。ルケアーノフの眼も、細君の眼と同じ暖い鳶色をしている。二つのちがいは、ルケアーノフの眼の方が、細君の眼の明るさにくらべて、いくらかの憂鬱を沈めているだけだった。娘が二人いた。やせて小柄で気取っている上の娘は去年モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学を卒業してどこかへ勤めている。下の娘は、来年専門学校へ入るぽってりとした母親似の少女で、母親よりもっと澄んだ鳶色の眼に、同じ色の艷のいい髪をおかっぱにしている。この下の娘が伸子たちの室へ茶を運んで来た。ドアをゆっくり二つノックして、
「いいですか?(モージュノ?)」
 どこかまだ子供っぽい声で、ゆっくり声をかけ、ついにっこりする笑顔で茶の盆をさし出した。
 ルケアーノフの質素な家庭には、伸子と素子の語学の教師であるマリア・グレゴーリエヴナとその夫でヴ・オ・ク・スに働いているノヴァミルスキー夫妻のクワルティーラにあるような雰囲気があった。みんながそれぞれに自分たちのすべき仕事を熱心にし、乏しくないまでも無駄のゆとりはない暮しぶりだった。夫のノヴァミルスキーと妻のマリア・グレゴーリエヴナが、夫婦とも同じように外気にさらされて赤い頬と、同じようにすこしその先が上向きかげんの鼻をもっているように、ルケアーノフの夫婦と二人の娘たちは、みんな鳶色の眼とゆっくりしたロシア風の動作とをもっている。
 ルケアーノフ一家の暮しぶりには、伸子の心に共感をよびさます正直さがあった。ルイバコフのうちでは夫婦ともが日常生活のどっさりの部分をニューラに負担させ、細君がそうであるように夫も目的のはっきりしない時間のゆとりのなかで暮していた。ソコーリスキーの家庭は、伸子にとって思いもかけずまぎれこんだソヴェト社会の一つのわれめだった。ルケアーノフの一家の、飾ることを知らない人々の自然で勤勉な簡素さは、保が死んでのち伸子の心から消えることのなくなった生活への真面目な気分に調和した。保がいなくなってから、ヴォルガ河やドン・バスの旅行から帰ってから、伸子は、はためには大人らしさを加えた。素子に対しても、おとなしくなった。しかし、それは伸子の心が沈静しているからではなくて、反対に、生活に対するひとにわからない新しい情熱が伸子の内部に集中しているからだった。ますます生きようとしている伸子のはげしい情熱は、ひそかに体の顫えるような、保は死んだ、という痛恨で裏づけられている。まぎらしようのないその痛みは、新しく生きようとしている伸子の情熱に音楽の低音のような深い諧調を与えていた。伸子は自分の内にきこえる響に導かれて、もっと、もっととソヴェト生活にはまりこんで行こうとしているのであった。

 ルケアーノフの主婦が伸子たちの正餐をひきうけてもよいときめたのと、素子が、パッサージ・ホテルに部屋をとったのとが同じ四日目のことだった。
「惜しいな、折角そういうのに――」
 丁度パッサージに部屋をきめて帰ったばかりの素子が、部屋にのこっていた伸子からその話をきいて残念がった。
「――でも、これじゃ、とてもやってかれないし……ぶこちゃんだってそうだろう?」
 伸子は黒っぽい粗末な毛布のかかったベッドの上に坐っていた。
「無理ね。ほんとに一人分だわ、この部屋は」
「正餐だけたべにこっちへ来ることにするか」
 パッサージ・ホテルとアストージェンカは近いけれども、素子は往復の時間が惜しいらしかった。
「ついおっくうになっちゃうからね、いまの天気じゃ。こっちで正餐をたべりゃ、ついどうしたってこっちで夜まで暇つぶししちゃう」
「わたしがパッサージへ行ったら? 暇つぶししないの?」
「いいさ、おっぱらっちゃうもの」
 笑いもしないでそう云いながら考えていて、素子はやっぱり予定どおり自分だけパッサージに移ることにした。そうなれば、たった一人で降る雪ばかり見える窓に向いて、正餐をたべる勇気は伸子になかった。正餐には伸子がパッサージへ出かけて行くことにきまった。

        七

 舞台では、人々の耳になじみぶかい華麗な乾杯のコーラスの余韻をひきながらオペラ「椿姫」の第一幕めのカーテンがおりたばかりだった。
 二階のバルコニーの第一列に並んでいる伸子と素子のところへ、一人の金髪のピオニェールのなりをした少年があらわれた。ピオニェールの少年は、素子のわきへよって来た。そして、そばかすのある顔じゅうにひどく陽気な好奇心を踊らして、
「それ、望遠鏡ですか」
 素子のきなこ色[#「きなこ色」に傍点]のスカートの膝におかれていた双眼鏡をさした。
「ああ。――なぜ?」
「僕はじめてこういうものを見たんです。ずっと遠くまで見えるんですか」
「そんなに遠くは見えないさ、オペラ・グラスだもの――舞台を見るためのものだから」
 赤い繻子のネクタイをひろく胸の前に結んでさげているピオニェールは、ちょっと素子の云っていることがわからない表情をした。
「それで見てもいいですか」
 素子は、オペラ・グラスをそのピオニェールにわたした。そして、もちかたや、二つのレンズの真中にある銀色の軸をまわして、距離を調節する方法などを教えた。
「やあ素敵だ! あんな隅が、まるで近くに見えらあ」
 ピオニェールは、オペラ・グラスを目にあてて、そう大きくもないエクスペリメンターリヌイ劇場の円天井のてっぺんだの、下の座席だのを見まわした。そのころモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では万年筆だの時計だのが珍しく思われていた。そのピオニェールがオペラ・グラスをはじめて見たということは本当らしかった。でも、ピオニェールが、オペラ・グラスを目にあてがって、あすこも見える! こっちも見える! とはしゃぐ有頂天ぶりは何か度はずれだった。伸子は、
「ほんとにそんなによく見えるの?」
 そのピオニェールにきいた。
「そのグラスはもう古くて、よくない機械でわたしたちには舞台を見るにも不便なのに」
 オペラ・グラスは、伸子の母親が誰からか外国土産にもらって長い間つかい古したものだった。小さいねじ[#「ねじ」に傍点]で、レンズが倒れて、オペラ・グラス全体が薄くたたまれる。それが手ごろで、伸子はもらって来たのだった。
 伸子がそういうと、ピオニェールはレンズを目からはなして、瞬間かたまったような笑い顔で伸子をじっと見た。
「それ、ほんとですか」
 伸子は半分ふざけて云った。
「レンズだの自動車だのは、一年ごとに進歩して、よりよいものが作られているのよ」
 ピオニェールは、口のなかで、
「そりゃ本当だ」
と言いながらまたレンズを目に当ててバルコニーのうしろの方を眺めていたが、素子に、
「僕このレンズちょっとかりて下へもって行っていいですか。僕の席、あすこなんです」
 バルコニーの手摺りから、下のオーケストラ・ボックスの右よりの場所を示した。
「僕、下から上が見てみたいんだ。いいですか。すぐもって来ます」
 素子は、ちらりと伸子を見た。
「――いいだろう」
 その言葉の響には、少年を信用してもいいだろうという意味がききとれた。伸子は、だまって、口元でわからないという表情をした。その少年のピオニェールの服装が、どこやら信用しない自分のきもちの方が普通でないようにも伸子に感じさせるのだった。
「まあいい――」
 素子はロシア語で、
「かしてあげるよ。すぐもって来なさい」
と云った。少年はバルコニーから姿を消した。オーケストラ・ボックスに近い下の席にまた彼のピオニェール姿が現れるまでに、すこし時間がかかりすぎる感じだった。素子と並んで首をのばして下を見ながら、伸子は、
「あの子供、返しに来るかしら」
と云った。来ないような気がした。
「ピオニェールだよ」
「そりゃそうだけれど……」
 そう云ってなお下を見ている伸子の頭に、札束のことが思い浮んだ。
「あなた、お金どこにある?」
「こっちへうつした」
 伸子と自分との席の間に挾んでおいてある書類鞄を素子はたたいた。劇場へ来るまえに、伸子と素子とは国立銀行へまわって、三ヵ月間の生活費に
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