ィさえて、出来るだけすらりとことを運ぼうと希望しているのは明瞭だった。
「あなたにもおわかりでしょう」
素子が、ソコーリスキーにタバコの火をつけさせながら云いはじめた。
「あなたの説明は、客観的にはよわい根拠しかもっていないと考えるんです。或る一つの室を、ちゃんとした契約でAという人が借りた。そして二日たったら、その部屋が急にいるからあけてくれ、というような場合、一般に、『やむを得ない事情』というのは、説明にならないと考えます」
「――なるほど」
ソコーリスキーはディヴァンに浅くかけて、その上に片肱をついていた膝をひっこめて、坐り直した。
「あなたの云われるとおり、わたしの説明は客観性をかいているとしてですね――、それをより具体的にする自由がわたしに許されていない場合、あなたならどうしますか」
きいていて、伸子はソコーリスキーの巧妙さと役人くさい抜け道上手に翻弄されてはいられない気がして来た。素子が、タバコをひと吸いしている間に伸子は、全く伸子らしい表現で云った。
「それは、ほんとにあなたの不幸だ、というしかありません」
ソコーリスキーは、思いがけないという表情で伸子を見守って云った。
「不幸は、そのことにおいて同情される性質のものです」
「そうかしら」
伸子は、思わず小さく笑った。
「残念なことに、あなたはあんまり権威にみちて見えます」
「それで、部屋は何日間必要なんですか」
素子が話を本筋にひきもどした。
「それは今のところわかりません」
「その間、わたしたちは子供部屋に暮して待っているわけですか」
「わたしは、むしろ、あなたがたが、この際別の部屋を見つけて移られる方が便利だろうと思うんです」
すっかり怒らされた眼つきと声で素子が、
「エート、ニェワズモージュノ(それは不可能です)」
議論の余地なし、というつよい調子で云った。
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に住宅難がないなら、あなたがたがわたしたちの広告に返事をよこすこともなかったでしょう」
伸子の心にもきつい抗議が湧いた。大体すべてこれらのいきさつには、伸子がこの一年の間に経験したソヴェト生活らしい、いいところがなかった。理由は曖昧だし、いやに高圧的だし、伸子の気質としてほかならぬこのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で、こういう妙なおしつけがましさに負けていなければならない理由が発見されないのだった。むっとして黙っているうちに、伸子は「クロコディール(鰐)」にでていた一つの諷刺画を思い出した。それは、ソヴェト社会にある官僚主義を鋭く諷刺したものだった。「氷でつつまれた」役人たちを、一枚のブマーガ(書類)がどんなに忽ち愛嬌のいい人間に「とかしてゆく」かという有様が描かれていた。伸子は、咄嗟《とっさ》の思いつきで素子に日本語で云った。
「わたし、これからヴ・オ・ク・スへ行ってくる」
ソコーリスキーが、ヴ・オ・ク・ス(対外文化連絡協会)という単語をききとがめた。
「何と云われたんですか」
伸子に向ってきいた。
「わたしは、ヴ・オ・ク・スへ行って、こういう場合、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]人はどう処置するのが普通なのか相談して来る、と云ったんです」
「ヴ・オ・ク・スにお知り合いがありますか」
「わたしたちは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てもう一年たっているんです」
ソコーリスキーは沈黙した。しかし、彼が伸子たちのいる部屋をあけさせなければならないことにはかわりないらしく、しかも、その時刻は、刻々に迫っているらしかった。考えながらソコーリスキーは腕時計をのぞいた。そして、また思案していたが、暫くすると、それよりほかに方法はない何事かを決心したらしく、
「わたしは、最後の協調案を提出します」
と云った。
「必ずあなたがたのために、最も早い機会にこの建物の中で部屋を一つ見つけましょう。今の部屋とちがわない部屋を。――これは約束します。心あたりもありますから。その条件で、子供部屋へ荷物を運ばして下さい」
「では、わたしたちは、あなたの言葉を信じましょう。部屋ができたら子供部屋からそちらへ移りましょう」
ソコーリスキーは、ディヴァンから立ちあがると、伸子たちに挨拶することも忘れて、あわただしい足どりで台所へ行った。
伸子たちは、机の上に並べたばかりの本や飾りものを自分たちで、食堂と壁をへだてた裏側の子供部屋へはこんだ。
アニュータは、子供寝台をその室からおし出し、あっちの室から折り畳式の寝台をもって来た。大きいトランクや籠は、外出のために外套をつけたソコーリスキー自身が運んだ。子供は前もって夫婦の寝室へつれてゆかれていて、白い壁の上に、復活祭の飾りか、誕生日祝の飾りか、赤と緑の紙で大きいトロイカの切り紙細工がのこされていた。ほかの室より燭光のよわい電燈で照されている子供部屋にはかすかに甘ったるく乳くさいにおいがしみついている。部屋そのものは、伸子たちのかりたところよりも倍以上ひろかった。けれども、窓ぎわにごたごた子供部屋らしい品々をのせたテーブルがあるきりで、デスクはないし、スタンドはないし、伸子たちは避難民のようにベッドの上に坐って、建物の内庭に面した暗い窓の外に降っている雪を眺めた。
その晩、伸子が手洗いに行ったら、まだ灯のついた食堂のドアが開いていて、細君が葡萄酒の壜とコップとをのせた盆をうやうやしげにもとの伸子たちの部屋へ運んでゆくところだった。
六
あくる朝、伸子と素子とは目ざめ心地のわるい気分で、乳くさい部屋の第一日を迎えた。顔を洗って来た素子が、男ものめいた太い縞のガウンを着て、手拭をもって、臨時にあてがわれている部屋へ戻って来るなり、
「保健人民委員にミャーコフっていう男がいるのかい」
ときいた。
「――知らない」
伸子は、ソヴェトの指導的な人々の名をいくつか知っていたし、ある人々の写真をエハガキにしたのも数枚もっていた。けれどもそれは一年もモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に暮している自然の結果で、政府の役人の一人一人についてなど、知っていなかった。
「その人がどうかしたの?」
「あの部屋へ来ているのは、その保健人民委員のミャーコフだとさ」
ソコーリスキーが伸子たちに部屋をかわらした熱中ぶりの意味がそのひとことで説明された。同時に、伸子は疑いぶかい、さぐるような表情を二つ目にあらわして、じっと素子を見た。
「そんな人間が、なぜ、こそこそこんなとこへ部屋なんかもつ必要があるんだろう」
ゆうべその人物がアパートメントへ来たのは、劇場のはねる前の、一番人出入りのすくない時刻だった。表ドアのそとについている別入口から直接部屋の鍵をあけて入ったらしく、ベルの鳴る音もしなかった。偶然細君が酒を運ぶところを見かけて、伸子は、自分たちをどけたその室に予定のとおり人が来ているのを知ったのだった。
「何かあるんだね」
「いやねえ」
去年ドン・バスの反ソヴェト陰謀が発覚してから、ソヴェトの全機構と党内の粛正がつづけられていた。収賄、不正な資材や生産物の処分、意識的な指導放棄などが、いろいろの生産部門、協同組合などの組織の中から摘発されて「プラウダ」に記事がのせられる場合がまれでなかった。一人の人民委員が、その地位にかかわらず非合法めいた住居のかえかたをしたりすることは、外国人である伸子たちに暗い想像を与えた。そして、その暗さは、ソヴェト生活の中では特殊な性格をもった。みんなから選ばれた人民委員が大衆の批判をおそれて、こそこそ動く。そのことが、ソヴェト生活の感情にとって不正の証明であるという印象を与えるのだった。その感情は素朴かもしれないが強くはっきりしていて、伸子は、そういう者のために自分たちがいるところをとりあげられるいわれは絶対にないという気が一層つよくおこった。自分たちは外国人で、共産党員でもなければ、革命家でもない。だけれども、少くともソヴェトの人々の真剣な建設の仕事をむしばむ作用はしていない。こそこそアジトをもったりする人民委員よりも、伸子たちの方が心性と事実とにおいてソヴェトの人々の側にいるのだ。伸子は、
「それならそれで結構だわよ、ね」
挑戦的な元気な表情で云った。
「ソコーリスキーがわたしたちをおい出す理由がますます貧弱になっただけだわ」
朝晩は部屋へ運ばれることになっている茶を注ぎながら、素子が幻滅したような皮肉な口調で、
「人民委員は、バルザック(ロシア産の白葡萄酒)がお気に入ったとさ。朝はコーヒーしかめし上らないんだそうだ」
と、唇をゆがめて笑った。
「アニュータは、うちへそういう人が来たっていうんで亢奮してだまっちゃいられないんだね。絶対秘密だってみんな話してきかせた。どうせしゃべらずにいられないんならわたしを対手にした方が安全だから、アニュータもばかじゃない」
伸子は茶をのみながら考えていて、
「部屋がみつかりさえしたら、ひっこしましょうね」
と云った。
「たとえわるい部屋でもね」
いかがわしい事件にかかわりのある家に自分たちがいることを伸子はいやに思った。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来て一年たつ間、伸子たちの存在は何の華々しいこともないかわり、平静で自由であった。もしミャーコフという保健人民委員のいざこざにつれてどういういきさつからかそれに荷担しているソコーリスキー一家の生活がひっくりかえった場合、それにつれて自分たちの生活まで一応は複雑な角度から見られなければならない。そういうことは伸子にいやだった。保が死んでから、かっきりソヴェト生活へうちこまれた自分しか感じられずにいる伸子にとって、そういう事態にまきこまれるような場面に自分をおくことはあんまり本心にたがった。
それには素子も同じ意見で、熱心に自分のきもちを話す伸子を半ばからかいながら、
「わかってるじゃないか。そんなにむきにならなくたって」
と云った。
「しかし、ソヴェトもなかなかだなあ。アニュータはその男がコーヒーをのむ(ピヨット)というところを、わざわざプリニマーエットと云ったよ。特別丁寧に云ったわけなんだ。ナルコム(人民委員)はただ飲むんじゃなくて――召しあがるというわけか」
プリニマーチという動詞を、伸子は薬なんかを服用する[#「服用する」に傍点]というとき使う言葉としてしかしらなかった。
その日も一日雪だった。伸子たちがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ着いて間もなかった去年の季節の風景そのまま、来年の春まで街々をうずめて根雪となるこまかい雪が間断なく降りつづけた。
正餐のとき、それまでどこにも姿を見せなかった細君が不承不承な様子で寝室から出て来た。そして、テーブルにつき、
「いやな天気ですね」
おちつかない視線を伸子たちからそらして台所の方を見ながら、両手をこすり合わした。素子が平静な声で、
「特別でもないでしょう」
と云った。
そのアストージェンカ一番地の大きいアパートメントには、中央煖房の設備があって、各クワルティーラは台所まで居心地よい温度にあたためられているのだった。
細君は、すこし乱れた褐色の髪の下にエメラルドの耳飾りを見せながら、スープをのんだきりだった。両肱をテーブルの上について、時々指でこめかみをもみながら、二番目の肉の皿にも乾果物の砂糖煮にも手をつけなかった。ソコーリスキーは正餐にかえって来ず、伸子たちの出たあとの部屋へ来た人物同様、いつ帰っていつ出てゆくのかわからなかった。
翌日、正餐のときも細君は寝室にとじこもったきりだった。アニュータの給仕で二人だけの食事を終って、伸子は食堂の窓からアストージェンカの雪ふりの通りの景色を眺めようとした。寝室のドアがすこしあいていて、更紗《さらさ》模様の部屋着を着た細君がだるそうな様子で、子供寝台の上に立っている女の子に白エナメルの便器をとってやるところが、ドアのすき間から見えた。ちらりと隙間洩れに見えた寝室の様子にも、伸子たちのいる子供
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