桙ノは在宅。来訪を待つ。部屋主からの事務的な通知だが、伸子たちはそのアドレスを見て、
「まあ!」
と、手紙の上に集めていた二つの頭をはなして互の顔を見合わせた。
「またあの建物の中よ! なんて縁があるんでしょう!」タイプライターの字が、アストージェンカ一番地とあった。
「じゃ、またあのフラム・フリスタの金の円屋根ね」
「さあ」
 素子が実際家らしく、思案した。
「そうとも限るまい。だって、こっちはクワルティーラ(アパートメント)五八とあるもの」
 また伸子が下検分の役だった。
 六ヵ月ぶりで来てみるとアストージェンカの街角には、やっぱり黒地にコムナールと大きく白字で書いた看板をかかげた食糧販売店の店が開かれており、そのわきからはじまる並木道の樹々は、葉をふるいおとした梢のこまかい枝で冬空に黒いレース模様を編みだしている。フラム・フリスタ・スパシーチェリヤの石垣の下に春ごろ、空のまま放られていたキオスク(屋台店)に、人がはいっていまは新聞だのタバコ、つり下げたソーセージなどを売っていた。
 一番地の板がこいには、まだ「この中に便所なし」と書いた紙がはりつけられている。
 伸子は、そこを出入りしなれている者独特のこころもちで、一番地の木戸をはいって行った。ルイバコフの入口はとっつきの右だったけれども、クワルティーラ五八というのは、その建物の内庭に面して並んでいる四つの入口の、左はじから二番目に入口があった。
 相かわらず人気のない内庭から四階までのぼって、五八のドアの呼鈴《よびりん》をならした。スカートのうしろまで鼠色麻の大前掛をかけた、太った年よりの女が出て来た。伸子が用向きを告げると、小柄な伸子の上から下まで一瞥しながら、
「おまち下さい」
と、奥へ入って行った。入れちがいに、大柄の、耳飾りをつけた年ごろのはっきりわからない中年の女が出て来た。この女も、こんにちは、と云いながら一目で伸子の上から下までを見た。それが主婦であった。
 ここで貸そうとしている部屋は、ルイバコフで借りていた浅い箱のような室を、丁度たてにして置いたような細長い部屋だった。フラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根はその窓からは見えず、したがって街の物音の反響もすくなかった。
「この室には、別入口がついているんですよ」
 ぱさぱさした褐色の髪や皮膚の色にエメラルドの耳飾りがきわだつ顔を奥のドアへ向けながら主婦が伸子に説明した。
「そのドアをお使いなすってもかまわないんですが、もし不用心だといけませんから、表から出入りしていただきたいと思います」
 翌日、伸子たちはソコーリスキーというその家の表部屋へ移った。アストージェンカの界隈には馴れていたし、シーズンのはじまった芝居の往復にも、そこからは便利だった。ソコーリスキーでは食事つきの契約ができた。もうじき厳冬がはじまるモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で、毎日正餐をたべに出ないでもすむのはのぞましい条件だった。
「アニュータの料理はわたしたちの自慢です」
 耳飾をさげた細君のいうとおり、太ったアニュータのボルシチ(濃いスープ)やカツレツは、パッサージ・ホテルの脂ぎった料理よりはるかにうまかった。伸子たちにとってやや意外だったのは、正餐がソコーリスキーの夫婦といっしょなことだった。白いテーブル・クローズをかけ、デザート用の小サジまでとり揃えたテーブルで。
 食後、細君はすぐ子供部屋へひっこんだ。
「われわれのところには、三つになる娘がいるんです。可愛い子です。二三日風邪気味でしてね……もっとも母親に云わせると、娘の健康状態はいつも重大な注意を要するんだそうですが」
 どっちかというと蒼白いぬけめない顔の上に気のきいた黒い髭をたてて大柄でたるんだ細君よりずっと若く見えるソコーリスキーは、皮肉そうに本気にしない調子でそう云った。
「日本でも――概して母性というものは、驚歎に価しますか?」
 食後のタバコをくゆらしていた素子が、そんな風にいうソコーリスキーの気分を見ぬいた辛辣さで、
「どこの国でも、雛鳥をもっている牝鶏にかなう猫はありませんよ」
と云った。
「なるほど! それが真実でしょうな」
 皮ばりのディヴァンにふかくもたれこんで、よく手入れされたなめし革の長靴をはいた脚を高く組んでいたソコーリスキーは、
「さて」
と、ルバーシカのカフスの下で腕時計を見た。
「失礼します。こんやはまだ二つ委員会があるもんですから。――必要なことは、何でもアニュータに云いつけて下さい」
 ルイバコフの家庭には、いかにも下級技師らしい生活の気分があり、正直と慾ふかさとがまじっていたが、飾りけがなく、そこで働いていたニューラの体からしめっぽい台所のにおいがしていた。ソコーリスキーの家庭の雰囲気には、上級官吏らしい艷のいいニスがなめらかにかけられていて、伸子はなじみにくかった。
 部屋へかえって、伸子は素子に、
「わたしルイバコフの方がすきだわ」
と、ふくれた顔で云った。
「ここの連中は、ミャーフキー(二等車)にしか乗らないときめてるようなんだもの」
 素子は、
「まあいいさ」
と、伸子の不満にとりあわず、それぞれに風のある家の仕くみを興がるようだった。
「ここじゃ、アニュータが実質上の主婦だね。あの太った婆さんで全体がもててる感じだ」
 おそく生れたらしい娘にかかりきりになっている細君にかわってソコーリスキーの家庭の軸がアニュータのおかげで廻転している。それが一度の正餐でもわかった。アニュータの給仕ぶりは自信と権威とにみちていて、いかにも、さあ、みなさんあがって下さい。いかがです? という調子だった。アニュータは、主人の地位をほこっていて、そこで権威を与えられている自分自身に満足している様子だった。
 二日目の午後、伸子たちは下町の国際出版所へ出かけ、正餐にやっと間に合う時刻に帰って来た。その日は朝から初雪だった。二人が外套についた雪をはらっているところへ、ノックといっしょにドアがあいた。そして、耳飾りをした細君の顔があらわれた。
「入ってもようござんすか?」
 いいともわるいともいうひまもなく細君は伸子たちの狭い室へ体を入れて、自分のうしろでドアをしめた。細君は、体の前で両手を握りあわすような身ぶりをした。握りあわせた手をよじるようにしながら、
「きいて下さい」
 奇妙な赤まだらの浮いたようになった顔で伸子たちに云った。
「さっき、わたしの夫から電話がかかりまして、非常に思いがけないことが起って、どうしてもこの室が必要になったんです」
 あんまり突然で意味がわからないのと、勝手なのとで素子と伸子とは傷つけられた表情になった。だまって、デスクの前の椅子に腰をおろした素子に追いすがるように、細君は一歩前へ出て、また、
「スルーシャイチェ(きいて下さい)」
 圧しつけた苦しい声でつづけた。
「どう説明したらいいでしょう、――つまり、――非常に重大な人物に関係のあることが起ったためなんです」
「…………」
「わたしの夫の役所の関係なんです。――どうしても避けられない事情になって来たんです。すみませんが、子供部屋と代っていただきたいんです。アニュータがあっちへ、あなたがたの荷物や寝台の一つを運びますから」
 伸子が、
「大変わかりにくいお話だこと!」
というのにつづいて素子が、
「妙じゃありませんか」
と言った。
「わたしたちは、きのうこの部屋に移って来たばかりですよ。あなたがたは、この部屋に、そういう突然の必要がおこることを、おととい知っていらしたんですか。知っていて、われわれと契約したんですか」
「どうしてそんなことがあるでしょう! ほんとに思いがけないことになったんです」
 細君の混乱ぶりはとりみだしたという以上で何か普通でない事件がふりかかって来ようとしていることを示している。それはこの大柄で、不似合な耳飾りをつけ、娘にかかりきっている細君に深い恐怖を抱かせる種類のことであり、部屋の問題も、それが夫の命令であるからというばかりでなく、夫婦を危機から守るためにも、細君として必死な場合であるらしく見えた。しかし、おそらく決して説明されることのないだろうその内容は不明で、したがって伸子も素子も、いきなりきのううつって来たばかりの部屋をあけろと云われている者の立場からしか、口のききようもないのだった。
 素子は、
「残念ですが、わたしどもに、あなたの話はのみこめないんです」
と云った。
「あんまり例外の場合だから。――あなたの旦那様とお話ししましょう。そして、わたしどもに話がわかることだったら、そのとき荷もつは動かしましょう。――この部屋がいるのは何時ごろからです?」
「多分夜だろうとは思うんですが……」
 細君は、途方にくれたように両手をねじりつづけ、顔のむらむらが一層濃くなった。そのまましばらく立っていたが、急に啜り泣きのような音をたてて息を吸いこむと、ドアをあけはなしたまま部屋を出て行った。

 立ってドアをしめながら、伸子が目を大きくして、
「何のことなの?」
 小声で素子にきいた。
「何がもちあがったっていうんだろう」
 素子は不機嫌に唇のはしをひきさげて、タバコに火をつけながら、自分にも分らない事件の意味をさぐりでもするようにドアをしめて来た伸子をじろじろ見た。
「何がどうさけがたいのか知らないが、バカにしてるじゃないか、いきなりここをあけろなんて。――そんなくらいなら貸さなけりゃいいんだ」
「ほかの部屋をつかえばいいんだわ。なぜわたしたちが子供部屋へ行って、ここをあけなけりゃならないのかわからない」
 いいことを思いついたという表情で伸子が、
「いいことがある!」
と云った。
「パ・オーチェリジ(列の順)と云ってすましてましょうよ、ね?」
 パンを買うにも、劇場や汽車の切符を買うにもモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の列の秩序はよく守られた。長い列の中でも、ちゃんと番さえとっておけば途中で別の用事をすまして来ても、番が乱されることはなかった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の市民生活のモラルの一つなのであった。
 伸子たちが評定している間もなく、玄関の呼鈴が鳴ってソコーリスキーが帰って来た。細君がいそいで出迎える気配がした。ひそひそ声で訴えるようにしゃべっている。夫婦の寝室になっている部屋のドアがあいて、しまった。
 するとアニュータが、伸子たちのドアをノックして、戸をしめたままそとから高い声に節をつけて、
「アーベェード」
と呼んだ。
 伸子たちがこっちのドアから出てゆく。その向い側のドアがあいて、ソコーリスキー夫婦が出て来た。下手な芝居の一場面のような滑稽なぎごちなさで四人がテーブルへついた。きょうもよく磨いた長靴をはいているソコーリスキーが、テーブルに向って椅子をひきよせながら、
「さきほど、家内が部屋のことについてお話ししたが、よく御諒解なかったそうでしたね」
と云いだした。
「ええ。突然のことだし、大体、あんまり例のないことですからね」
 ソコーリスキーは、気のきいた黒い髭に指を当ててちょっと考えていたが、
「そうです、そうです」
 自分にむかっても合点するように頭をふった。
「われわれの生活には、例のないことも起ることがあるんです。――ともかく正餐をすませてからにしましょう」
 細君はひとことも口をきかず、赤いむらむらは消えたかわり妙に色がくろくなったような顔で、まずそうに犢《こうし》の肉を皿の上でこまかくきっている。
 ほとんど口をきかないで食事が終った。細君はすぐ立って寝室の方へ去った。アニュータがテーブルを片づけに入って来た。うちのなかにおこることは何から何まで知られて困らない召使をもっている人間の気がねなさで、ソコーリスキーは早速、
「では、われわれの事務を片づけましょう」
と、ディヴァンの方へうつった。
 ソコーリスキーは、細君が伸子たちに云ったと同じことを、細君より順序よく、もっと重要性をふくめてくりかえした。ソコーリスキーが、神経の亢奮やいらだちを
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