チたっていうの、少くとも吉之助さんとしては考えていい問題だと思うんだけれど」
「――歌舞伎だって世話ものには菊五郎のリアリズムだってあるよ」
 反駁するように芝居ずきの素子が云った。
「こっちじゃ、時代ものしかやりませんでしたからね。そのせいもあるかもしれませんね」

 吉之助が日本へ帰らなければならない時が迫って来た。けれども、同じホテルにいる伸子たちとのつき合いは、はじめと同じに、三四日顔も合わせないまますぎてゆく工合だった。吉之助と伸子たちの間にあるのは、もう不安定なところのない友人の気持だけだった。吉之助が珍しく伸子たちの室に長居して家庭生活の問題も出た夜、素子は、吉之助が去ったあともテーブルのところから動かなかった。そしてその晩、会話の底を流れて、吉之助の上へは影も投げず自分の心の内にだけ推移した心持を思いかえしているようだった。テーブルに背を向けベッドの毛布をはねて、そろそろ寝仕度をはじめている伸子に素子は、
「吉之助もあのくらいはっきり考えて居りゃ、何かになれるかもしれない」
と云った。その声の調子に、思いやりとおちついた期待が響いた。レーニングラードのジプシー料理の店で、クリーム色のスタンドの灯かげといっしょに伸子の気分まで動揺させた、あの、吉之助、なかなかいいね、と云った素子の三十をいくつか越した女の体がそのせつなふっと浮き上ったような切ないニュアンスは消されていた。
 あさってはいよいよ吉之助もモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を立つという晩だった。十二月の十日すぎで街は一面寒い月夜だった。八時すぎに、思いがけず若い女を二人つれた吉之助が伸子たちの部屋を訪ねて来た。
「お邪魔してすまないと思ったんですが、わたしにロシア語ができないんで、どうも……」
 吉之助は当惑そうに云って、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の若い女にあんまり見かけない捲毛を器量のいい顔のまわりに垂れた姉妹を、伸子たちに紹介した。
「こちらは姉さんなんだそうです、浪子さん」
 その娘は、紫っぽい絹服をつけていて、内気そうに伸子たちと挨拶した。
「こちらが妹さん、さくらさんていうんだそうです。――姉妹で度々楽屋へ訪ねて頂いたんですが……」
 妹も新しくないベージュの絹服をきていて、器量は美しいけれども艷のない若い顔に白粉がついていた。胸のひろくあいた古い絹服、睫毛《まつげ》の長い黒い眼にある一種のつやっぽさ。伸子と素子には、娘たちのなりわいが推察された。同じさくらという日本名をもっていても、この娘たちにくらべると光子とその友達のさくらは、まるで別の雰囲気の若い娘たちだった。
 一つ長椅子の上に並んでかけた姉妹は伸子たちと、ぽつりぽつりあたりさわりのない話をはじめた。二人ともほんとに内気らしく、二人ともどこにも勤めていない、と答えたりするとき、そんな質問をしたのが気の毒に思えるような調子だった。素子が間に日本語で、
「あなた、このひとたちの家へ行ったことがあるんですか」
と吉之助にきいた。
「ええ、一二度」
 そして、
「ひどいところに住んでいるんです。何人も一つ部屋にいて、カーテンで区切って。あんまり気の毒だったから少しおくりものして来ました」
と云った。娘たちの住居はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河のむこう岸らしかった。
 十分もすると吉之助は、ちょっと今のうちにすまさなければならない荷作りがあるから、と自分の室へ戻って行った。
 娘たちは、しきりに吉之助の立つ時間をきいた。それは、伸子たちも知っていないのだった。もう引きあげなくてはならないとわかりながら、吉之助を待って二人の娘たちが長椅子の上でおちつかなくなりはじめたとき、せっかちに伸子たちの部屋をノックするものがあった。
「おはいりなさい」
「こんばんは」
 鞣《かわ》の半外套を着て、小さいフェルト帽をかぶった中ぐらいの体つきの若くない女が入って来た。
「わたし、テルノフスカヤです――日本にいたことがある……」
 伸子は、思いがけないことに思いがけないことの重なったという表情で、ゆっくり椅子から立ち上った。テルノフスカヤという女のひとの名は、革命当時シベリアのパルティザンの勇敢な婦人指導者であったひととして、日本へ来ていた間はプロレタリア派の文学者たちと結びついて、伸子たちにも知られていた。このモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]でもむしろ、ホテル暮しなどをしている自分たちとは政治的にもちがった環境に属す人として、伸子も素子も、テルノフスカヤが今晩不意に現れたことに意外だった。
 いそがしく活動している婦人の身ごなしでテルノフスカヤは伸子たち娘たちと、事務的に握手した。そして、テーブルに向ってかけ、タバコを出して素子や娘たちにすすめ、自分も火をつけた。眉をしかめるようにタバコに火をつけているテルノフスカヤの髪は、ひどく黄色くて光沢がなかった。五人の女の中でたった一人タバコをすわない伸子は圧迫される感じで、テルノフスカヤの眼から自分の眼をそらした。テルノフスカヤの眼は黄色っぽい灰色でその真中に真黒く刺したような瞳があった。その目の表情があんまり豹の目に似ていた。精神の精悍さより、何か残忍に近いものが感じられ、それが女の顔の中にあることで伸子はこわかった。
「吉之助さんは、ここに住んでいるんでしょう?」
「ええ。この娘さんたちも彼のところへ来たお客さんなんですが、いま、いそぐ荷作りがあって、彼は自分の室で働いています」
「彼に会えますか」
「じきここへ来るでしょう」
 テルノフスカヤは素子と話している。伸子は、秋のはじめのいつだったか雨上りの並木道で、この人には会ったことがあると思った。雨はあがったが、菩提樹の枝から風につれてまだしずくが散るような道を、伸子の反対の方から一人の女が書類鞄を下げて通りがかった。伸子の眼をひいたのは、その雨上りの並木道を来るひけどきの通行人のなかで、その人ひとりがすきとおるコバルト色のきれいな絹防水の雨外套を着ていたからだった。それは、日本で若い女たちが着ているものだったが、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]でそんなレイン・コートを見たのは、初めてだった。コバルト色のレイン・コートとともに、特徴のあるその瞳の表情も、伸子の印象にのこされた。
 伸子は、思い出して、テルノフスカヤにその話をした。
「そうですか? わたしは思い出せませんよ」
 それきりで、テルノフスカヤはコバルト色のレイン・コートを自分がもっているともいないとも云わなかった。二人の娘たちは、自分たちに話しかけようともしないテルノフスカヤの出現に、やっと思いあきらめて腰をあげた。すると、テルノフスカヤが、
「あなたがた、吉之助さんの部屋へよって帰るんでしょう」
 見とおした命令的な口調で云った。
「荷作りがすんだら、こちらへ来るように云って下さい」
 思ったより早く吉之助が、どことなし腑におちない表情で伸子たちの室へ入って来た。テルノフスカヤを見ると、顔みしりではあると見えて、
「こんばんは」
 身についている客あしらいのよさで挨拶した。テルノフスカヤはだまって握手して、
「いそがしいですか」
 はじめて日本語で吉之助にきいた。
「ええ荷づくりが少しあったもんですから、……失礼しました」
 二人の娘をあずけたことをもこめて、吉之助は伸子たちにも軽く頭を下げた。先にかえった左団次一行からはたよりがあったか、とか、正月興行で、吉之助の配役は何かというような話が出た。
 テルノフスカヤがどういう用で吉之助のところへ来たのか、伸子たちに見当がつかないように、吉之助にもわからないらしかった。吉之助の室へ行こうとするでもなくて、四十分も雑談すると彼女は来たときのように余情をのこさない足どりで伸子たちの室から出て行った。
 伸子たちがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てやがて一年になろうとしていた。その間、ただ一度も来たことのないテルノフスカヤが、その晩不意に、しかもさがしもしないような的確さでパッサージの三階にいる伸子たちの室を訪ねて来たのは不思議な気持だった。
「長原吉之助のファンは、ああいうところまではいってるのかな」
 そういう素子に吉之助は却って訊ねるような視線を向けた。
「一度楽屋で見かけた方には相違ないんですが……」
 素子は何か考えるようにパイプをかんでいたが、やがて、
「気にすることはありませんよ」
と云った。
「俳優にどんなファンがいたって、ある意味じゃ不可抗力なんだから」
 一日おいた冬の晴れた朝、吉之助は予定どおりモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を出るシベリア鉄道へのりこんだ。

        五

 伸子と素子とは、また貸間さがしをはじめた。もう十二月で、伸子たちにとってまる一年のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]生活だった。春ごろ、貸部屋をさがしたときのようなまだるっこいことはしないで、こんどはいきなりモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊の広告受付の窓口で求間の広告をかいた。
 あしたにも雪が降りはじめそうな夕方だった。午後三時ごろから店々に灯がついているトゥウェルスカヤ通りをホテルへ帰りながら、伸子は、
「こんどもいい室が見つかるといいけれど」
と云った。
「でも、ルイバコフのところみたいに、あんまり短い期限は不便ね」
 レーニングラードへ出発するまでの暫くの間暮したフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根が窓からみえる家は、ルイバコフの家族が夏の休暇をとるまでという期限つきだった。
「あのときは、わたしたちだってモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]から出る前だったんだし、よかったのさ。こんどは少し腰をおちつけなくちゃ」
 伸子たちの夏の休暇は、間に保の死という突発の事件をはさみ、予定より長びいた。ひきつづいて歌舞伎が日本から来たことは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいた多くの日本人の気持にふだんとちがった影響を与えた。なかでも芝居ずきの素子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で歌舞伎を観るということに亢奮した。そして、その旧い歌舞伎の根元から思いがけない若さでひこ生えて来ているような長原吉之助の俳優としての存在が、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の環境で、伸子と素子との日常に接近した。伸子は、保に死なれ、生れた家や過去の生活ぶりから絶縁された自分を感じている心の上へ、長原吉之助や映画監督エイゼンシュタインが新しい生活と芸術を求めて動いているエネルギーを新しい発見としてうけとった。うち[#「うち」に傍点]はないようになっても、うち[#「うち」に傍点]よりほかのところに伸子の精神につながった動きがあるという確認は、伸子を力づけた。長原吉之助がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を立ってから、伸子は一層自分を、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]生活にくっささったものとして感じた。素子も、吉之助がパッサージ・ホテルを去った次の週から、またモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学へ通いはじめた。素子の勉強ぶりには、何となく、とりとめもなく煙のあとを目で追いながらタバコをくゆらしていたひとが、急に果さなければならない義務があったのを思い出して、灰皿の上へタバコをもみ消しながら立ち上った趣きがあった。
 素子の日常が、レーニングラードへ出かける前の初夏のころとあんまりちがわない平面の上で廻転しはじめた。一つ部屋に暮してそれを見ながら、伸子は平面で動けなくなっている自分というものを感じ、しかしくっささったぎりそれからさきの自分の動かしようはわからないでいる感じだった。
 二人の外国女として伸子たちの求間広告がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊の広告欄に出た二日後、伸子たちは一通の封書をうけとった。それはタイプライターでうたれた短い手紙だった。要求にふさわしい一室があいている。毎日午後二
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