ェを成長させ、日本の演劇も発展させる舞台っていうものは、どこにあるでしょう」
「いきなり築地でもないだろうし……」
「そこなんです」
 歌舞伎の息づまる旧さのなかに棲息していられなくなっている吉之助は、さりとていきなりドラの鳴る築地小劇場で『どん底』を演じるような飛躍も現実には不可能なのだった。
 吉之助の飾らない話をきいていて、伸子はやっぱりみんなこういう風にして変るものは変ってゆくのだ、としみじみ思った。丁度せり上りのように、生活の半分は奈落と舞台との間の暗やみにのこっていても、もうせり上ってそとに出ている生活の半分が、猛烈にのこっている半分について意識し苦しむのだ。伸子にはそれが自然だと思えた。相川良之介が自殺したとき、その遺書に、彼の身辺の封建的なものについてはふれない、なぜなら、日本の社会には多少ともまだ封建的なものが存在していると思うし、封建的なものの中にいて封建的なものの批判は出来ないと思うから、とかかれていたことが思い出された。当時伸子には、その文章の意味がよくのみこめなかった。けれども、こうして話している吉之助を見ても、伸子自身について考えて見ても、自分のなかに古いものももちながら、吉之助のようにはっきりそれを肯定しながらもその一方で新しいものを求めているのが真実だった。そこに矛盾があるということで新しい道を求める思いの真実性が否定されなければならないということはないのだ。伸子は、そういうごたごたのなかでひとすじの思いを推してゆく人間の生きかたを思い、悲しい気がした。保を思い出して。保には、こうやって矛盾や撞着の中から芽立ち伸びてゆく休みない人生の発展がわからなかったのだ。そして相川良之介にも。相川良之介の聰明さは、半分泥の中にうずまりながら泥からぬけ出した上半身で自分にも理性を求めてもがく人間の精神の野性がかけていた。
 伸子はその質問に自分の文学上の疑問もこめた心で、
「吉之助さんのような人でも、新劇へうつるということはできないものなのかしら」
とたずねた。
「気分では、いっそひと思いにそうしたら、さぞサバサバするだろうって気がします。しかしどうでしょう」
「歌舞伎のひとは、子役からだからねえ」
 身についた演技の伝統のふかさをはかるように素子が云った。
「あなただって、そうなんでしょう」
「初舞台が六つのときでしたから」
 吉之助は考えぶかい表情で、
「西洋の俳優も、芸の苦心はいろいろあるでしょうが、わたしのような立場で苦しむことはないんじゃないでしょうか」
と云った。
「古典劇が得意で、たとえばシェークスピアものをやる人だって、現代ものがやれるんでしょう。日本の歌舞伎と現代もののちがいみたいなちがいは、よその国にはなかろうと思うんです」
「考えてみると、日本てところは大変な国だなあ」
 からのパン皿のふちへタバコをすりつけて消しながら素子が云った。
「チョン髷のきりくちへ、いきなりイプセンがくっついたようなもんだもの」
「問題が問題ですから、てまがかかりましょうが、ともかく何とかやって見るつもりです」
 そう云ってしばらく考えていた吉之助は、やがてもち前の熱っぽい口調で、
「私生活からでも、思いきってかえて行ってみるつもりです」
 伸子には、吉之助が決心を示してそういう内容がすぐつかめなかった。歌舞伎俳優として、しきたりのような花柳界とのいきさつとかひいき[#「ひいき」に傍点]客との交渉とか、そういう点を整理するという意味なのか、それとも別のことなのか、判断にまよった。同じようにすぐ話の焦点のつかめなかったらしい素子が、
「私生活っていうと?」
とききかえした。
「粋すじですか」
 そうきいて、素子はちょっとからかう眼をした。
「わたしは、そっちはどっちかっていうとほかの人たちよりあっさりしているんです。自分がつくらなけりゃあそういう問題はおこらない性質のものでしょう。わたしのいうのは主に結婚生活ですね」
 ひろがっていた話題が、再び急に渦を巻きしぼめて、吉之助は知らない素子の感情の周辺に迫って来た。
「うまく行きませんか」
「――わたしの場合はうまく行きすぎているんです。そこが問題なんです」
 伸子は吉之助の話につよい関心をひかれた。同時に、良人によってそういう風に友人の間で話される妻の立場というものを、伸子は女として切ないように感じた。
 素子もだまった。しかし、吉之助は、歌舞伎のことを話していたときと同じまじめな研究の調子で、
「わたしたちの結婚は、土台わたしに妻をもらったというより、早くから後家で私を育てた母の助手をもらったみたいなところがありましてね」
と云った。
「よくやってくれることは、実によくやってくれているんです。その点一言もないんですが……細君には、俳優が芸術家だってことや成長しようとしているってことはわからないし、必要なことだとも考えられないんですね、役者[#「役者」に傍点]の生活の範囲ではうるさいつき合も、義理もきちんきちんと手おちなくやってくれて、全く後顧の憂いがないわけなんですが。これまでの役者の生活なんて、そんなことが第一義だったんですからね、無理もないが……。細君に一つもつみはないんです。けれども、わたしにはマネージャと妻はべつのものであるべきだと思えて来ているんです」
 つやのいい元気な吉之助の顔の上に、沈んだ表情が浮んだ。
「あなたがた、どうお思いです? あんまり我儘《わがまま》でしょうか」
 伸子も素子も、吉之助の気持がぴったりわかるだけに、すぐ返事をしかねた。
「――わたしは妻を求めているんですね。演劇そのものの話し合える……」
 するとわきできいている伸子をびっくりさせるような鋭さで、素子が、
「かりにそういうひとが細君になったって、やっぱりマネージャ的必要は起って来るんじゃありませんか」
と云った。
「ほんとに、わけられるもんなのかな――あなたに、わけられますか?」
「わけられないことはないと思いますね。ほんとに芝居のことがわかっているひとっていうなら、自然自分でも舞台に立つひとだろうし、舞台に立つものなら勉強の面とマネージャ的用事と、却ってはっきり区別がつくわけですから……」
 赤いパイプを口の中でころがしながら、じっと吉之助の言葉をきいていた素子は、ややしばらくして、
「なるほどねえ」
 深く自分に向って会得したところがあったようにつぶやいた。
「あなたは、リアリストですね」
 その云いかたに閃いたニュアンスが伸子に素子の気持の変化を感じとらせた。伸子が理解したと同じ明瞭さで、素子も、長原吉之助が求めている女性は、彼として現実のはっきりした条件をもって考えられて居り、少くとも伸子や素子たちとそのことについて話す吉之助の感情に遊びのないことを理解したのだった。
 伸子は段々さっぱりしてうれしい気持になって来た。吉之助にたいする自分たちの感情にはあいまいに揺れているところがあった。素子は素子の角度から、伸子はその素子の角度に作用された角度から、吉之助としては考えてもいない過敏さが伸子たちの側にあった。吉之助の考えかたがずっと前へ行っているために、素子の吉之助に対する一種の感情やそれにひっぱられていた伸子の気分が、吉之助の新しい人間らしさにひかれるからでありながら、その一面では、やっぱりありきたりの常識のなかに描かれている俳優を対象においた気分だったということが、伸子にのみこめて来た。伸子は、心ひそかに自分たち二人の女をいくらかきまりわるく感じた。そして、改めて吉之助を友達として確信するこころもちだった。
「わたし長原吉之助が、いわゆる役者じゃなくてほんとによかったと思うわ」
「へんなほめかたがあったもんだな」
 素子が笑った。吉之助も笑った。伸子は、素子のその笑いのなかにやっぱり転換させられた素子の気分を感じた。素子は、もうすっかり自分ときりはなした淡泊さで吉之助にきいた。
「ところで、あなたの希望のようなひとって、実際にいますか」
「どうなんでしょう」
 彼としてどこに眼ぼしもないらしかった。
「なにしろ、歌舞伎には女形しかないんですから……」
 そこにも歌舞伎の世界の封建的な変則さがあるという口ぶりだった。

        四

 あくる朝十時ごろ約束のガーリンが吉之助とつれだって伸子たちの室へ来た。くつろいだ低いカラーに地味なネクタイをつけて、さっぱりした風采だった。ガーリンが芸術座の名優たちとはまるでちがった顔だちで、アメリカの素晴らしい踊り手フレッド・アステアによく似たおでこの形をしているのが伸子の目をひいた。アンナ・パヴロ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ァも、ああいうこぢんまりとして横にひろいおでこをもっていた。少し鉢のひらいたような聰明で敏捷なガーリンの丸いおでこは、『検察官』のフレスタコフとはちがった役柄が彼の本領を発揮させそうに思えた。メイエルホリドは、前のシーズンから構成派風の奇抜な舞台装置で、蒼白くて骨なしめいたフレスタコフを登場させているのだった。
 ガーリンは、歌舞伎のきまり[#「きまり」に傍点]を直接自分の舞台の参考にしたいらしく、忠臣蔵で見たいくつかの例で吉之助に質問した。きのうの話し合いで、伸子がガーリンのいうとおりをあたりまえの日本語で表現すると、素子が、
「ああ、かけこみのきまりのことだ」
という風に補足した。
「そうですね、じゃ」
と、吉之助は洋服のまま、ホテルのむきだしの床に片膝をついて型をして見せた。
 そんな間にも伸子には、ガーリンの特徴のあるおでこが目についた。ガーリンが歌舞伎の型にこれだけ興味をもつことも彼の舞踊的な素質を示すことのように思えた。メイエルホリドの舞台は強度に様式化されていて、人物の性格描写も、ム・ハ・ト(芸術座)のリアリスティックな演技とは正反対に、観念で性格の焦点をつかんだ運動で様式化して表現された。フレスタコフもそういう演出方法だった。そういう舞台で、ガーリンのような額をもつ俳優が、鋭い運動神経で現在成功していることもわかる。しかし、伸子は、何だか芝居としてメイエルホリドの舞台に沈潜しにくいのだった。
 ガーリンは、一時間ばかりいて、帰って行った。一二度、吉之助のやる型を見習って、すぐ自分で床に膝をついてやって見たりした。
「こっちのひとたちは、あんな人気俳優でもあっさりしていますね」
 吉之助は師匠役に満足したらしく云った。
「われわれの間じゃ、何一つおそわろうたって、大したさわぎなんです。人を立てたり、つけ届けしたり」
「そりゃ能も同じですよ。家伝だもの――大したギルドですよ」
 伸子は、ガーリンのおでこのことを話した。
「気がつかなかった?」
「そうだったかな」
 運動神経のよさと、俳優としての人間描写の能力とは同じものでないし、いつも同じ一人の中にその二つの素質が綜合されてあるとも思えない。伸子は俳優としてのガーリンの一生を、平坦な発展の道の上に予想できなかった。
「それもそうだけれど、吉之助さん、どう思う? わたし、さっきガーリンと話していてふっと思ったのよ。こんど歌舞伎が来て、一番熱心に見学したり、特別講習をうけたりしたのはメイエルホリドだったでしょう。次は『トゥランドット』をやっているワフタンゴフ。ム・ハ・ト(芸術座)はその割でなかったでしょう? あれは、どういうことなんだろうと思ったの」
「ム・ハ・トには演技の伝統が確立しているからなんじゃないですか」
「そりゃそうだよ、ぶこちゃん」
「わたし、それだけだとは思わないなあ」
 伸子は、真面目な眼つきで吉之助を見た。
「ム・ハ・トは、リアリズムで押しているのよ、そうでしょう?『桜の園』から『装甲列車』へと移って来ているけれども、それはリアリズムそのものを押して発展させて動いて来ているんです。メイエルホリドはあんな風に様式化して、動的にやろうとしているけれど、ああいう線が本質的にどこまでも発展できるのかしら……。わたし、ム・ハ・トが、歌舞伎の隈《くま》に大して関心を示さなかったのに、メイエルホリドが熱心だ
前へ 次へ
全175ページ中53ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング