ワたかえりにここへちょいとよります、こっちはないしょですが……」
と健康そうな白い歯を見せて笑った。ソヴェトへ来て、自分というものは一つところに置いたまま、見聞ばかりをかき集めてもって帰ろうとするような人たちとちがって、吉之助や中館公一郎の態度は、伸子に共感を与えた。吉之助がふるい歌舞伎の世界のどこかをくいやぶって、自分を溢れ出させずにはいられなくなっている情熱。中館公一郎が映画監督として、自分の持てる条件を最大限まで押しひろげて見ようとしている目のくばり。そんな気持はどれもはげしく明日に向って動いている心であり計画であった。明日《あした》は、明日《あした》に杙《くい》をうちこんで前進してゆこうとしているこれらの人たちの生活気分は、保が死んでからソヴェト社会へつきささった小さいくさびのように自分を感じている伸子の感情にじかにふれた。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来た歌舞伎は、そのふるい伝統の底から思いがけない新しいもの、種子を、そうとは知らず後にのこして、好評をみやげに日本へひきあげた。吉之助とあと三四人の若手俳優が、すぐベルリンへ立ち、中館公一郎も別に一人でハンブルグ行きの汽船にのった。

        三

 歌舞伎がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で公演していたとき、左団次の楽屋で、伸子と素子とはさくら[#「さくら」に傍点]と光子という二人の日本語を話すロシアの若い女に紹介された。二人とも東洋語学校を出ていて、日本名をもち、さくら[#「さくら」に傍点]はたまに短歌をつくったりした。色のわるい面長な顔に黒い美しい眼と髪をもっている文学的なさくら[#「さくら」に傍点]とちがって、光子はがっしりとしたいつも昼間のような娘で、脚がわるく、ステッキをついて伸子たちのホテルの室へ遊びに来た。またそのステッキをついて毎日どこかの役所につとめてもいるのだった。
 さくら[#「さくら」に傍点]や光子が、それとなしベルリンから吉之助が帰って来るのを待っているきもちが伸子によくわかった。吉之助には、歌舞伎俳優の型にはまっていない人柄の生々した力があって、それが外国人であるさくら[#「さくら」に傍点]や光子を魅していた。伸子が吉之助に快く感じるのも同じ点からであった。若い男に対して、いつもうわて[#「うわて」に傍点]の態度で辛辣な素子が、
「吉之助、なかなかいいね」
と伸子に云ったことがあった。それは、レーニングラードのジプシーの音楽をききながら食事をする店でのことで、素子と伸子とはスタンドのついた小卓にさし向い、素子はグルジア産の白い葡萄《ぶどう》酒をのんでいた。吉之助、なかなか、いいねと素子が云ったとき、伸子は素子の眼や頬がいつもとちがった艷《つや》やかさをたたえているのを感じた。
「そう思う?」
 のまない葡萄酒のコップをいじりながら、伸子は、ききかえした。
「――ぶこちゃんだってそう思うだろう?」
 素子が、俳優としての吉之助だけを云っているのでないことを伸子は女の感覚で直感した。軽いショックで伸子は上気した。素子がいいと思う男がいたということは思いがけない一つのおどろきであった。そして、それが伸子も好感をもっている長原吉之助だということは。しかし、その長原吉之助だから素子がすきというのもわかるところがあるのでもあった。素子の珍しいその心持のうごきを、伸子は自分の手もそえて、こぼすまいとするような気持で、だまってスタンドの灯に輝く琥珀《こはく》色の葡萄酒を見ていた。でも、吉之助に対する素子のそのこころもちは、どう発展するものなのだろう。素子自身は、どう発展させたいと思っているのだろう。
 一途《いちず》な、子供らしい恋愛の経験しかない伸子は、ぱらりとした目鼻だちの顔に切迫したような表情をうかべて、スタンドのクリーム色の光の中から素子を見あげた。
「あなた、本気なら、話してみたら?」
「…………」
「じゃ、わたしが話す?」
 素子はだまったまま、葡萄酒をのみ、スタンドのかさのまわりでタバコの煙がゆるやかに消えて行くのを見まもっている。じゃ、わたしが話す? 思わずそう云って、伸子は、当惑した。素子に対して吉之助がどう思っているか、知りようもなかったし、仮に、互の間にいい感情があったにしろ、吉之助の歌舞伎俳優としてのこまごました生活の諸条件と断髪で洋装の素子とはどうつながるものなのだろう。素子が吉之助にひかれるのはわかるけれど、二つの生活の結びつく現実的な必然が見つからなくて、伸子はとまどう心持だった。
 当の素子よりも解決にせまられているような伸子の表情をいくらかぼっとしたまなざしで眺めていた素子はやがてゆっくり、
「まあ、いいさ」
とひとりごとのように云った。そして、給仕をよんで勘定をさせはじめた。

 歌舞伎がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]からひきあげ、吉之助たちがベルリンへ行って二週間とすこしたったある朝のことだった。朝の茶を終ったばかりの伸子たちの室の戸がノックされた。素子が大きな声で、
「お入りなさい」
とロシア語で云った。
 ドアがあいて、そこに現れたのは黒っぽい背広をきた吉之助だった。
「ただいま!」
 吉之助は、ベルリンへ行けるときまったとき、見て来ます、と簡明に力をこめて云った、あの調子でただいまと云った。
「ゆうべ帰って来ました、こんどはここへ部屋をとりましたからどうぞよろしく」
 握手の挨拶をしながら伸子が、
「ひどく早かったんですね」
と、おどろいた。
「そんなに早くいろんな芝居が見られたの?」
「ええ。マチネーと夜と必ず二度ずつ見ましたから」
 素子は、思いがけず吉之助の姿があらわれたのを見てかすかに顔を赧《あか》らめていたが、しっとりした調子で、
「何時についたんです」
ときいた。
「よく部屋がとれましたね」
「ええ。カントーラ(帳場)の人が顔をおぼえていてくれましてね。パジャーリスタ、コームナタ(どうぞ、部屋)って云ったら、ハラショー、ハラショーでした」
「どこです?」
「この廊下のつき当りの左の小さい室です」
「ああ、じゃあ一番はじめわたしたちがいた室だ。ね、ぶこちゃん」
 それは雪の夜アーク燈にてらされて中央郵便局の工事場が見えた部屋だった。
 ベルリンへ行くということが、むしろ一行のあとにのこって自由行動をとるための一つのきっかけであったように、吉之助は一人になってベルリンからモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ戻って来た。そして、外国人はめったにとまらない、やすいパッサージ・ホテルにとまった。
 秋山宇一や内海厚が同じパッサージに泊っていた時分、伸子も素子もモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]生活に馴れなかったこともあって、気やすくその人たちの部屋をたずねた。こんど吉之助の部屋が同じ廊下ならびになったが、伸子も素子も吉之助の室へは出かけなかった。吉之助がちやほやされつけている若い俳優であるということは伸子たちに理由もなく彼の部屋を訪ねたりすることに気をかねさせた。それにレーニングラードのジプシー料理屋のスタンドのかげで素子の吉之助に対する好意がわかっているものだから、なお更彼の部屋へ訪ねかねた。二三日まるで顔を合わさないまま過ぎることが珍しくなかった。
 そんな風にして数日が過ぎた或る晩、吉之助の方から伸子たちの室を訪ねて来た。
「なにたべて生きてたんです? 大丈夫ですか」
 ロシア語のできない吉之助に素子が云った。
「パジャーリスタ、オムレツ。パジャーリスタ、カツレツでやっていますから、大丈夫です」
 艷のいい顔を吉之助は屈托なさそうにほころばした。
「オムレツとカツレツだけは日本と同じらしいですね」
 吉之助は用事があって来たのだった。あした朝のうちにメイエルホリド劇場俳優のガーリンが吉之助にあいにホテルへ来る。歌舞伎の演技のことについてじかにききたいことがあるのだそうだ。素子か伸子に通訳をしてくれるようにということだった。
「じゃ吉見さんでなくちゃ。わたしのロシア語なんて、長原さんのオムレツに二三品ふやしたぐらいのところなんだから」
「――わたしはいやだよ」
 素子はかけている長椅子の背へもたれこむようにして拒絶した。
「芝居の話なんて出来るもんか」
 芝居ずきで、俳優一人一人の演技についてもこまかい観賞をしている素子が、通訳なんかいやだという気持は、伸子にわからなくもなかった。ガーリンは『検察官』のフレスタコフを演じたりしてメイエルホリドの若手の中で近頃著しく評判になっている俳優だし、一方に吉之助がいることだし。
 そんなこころもちのいきさつを知らない吉之助は、当惑したように慇懃《いんぎん》な調子で、
「すみませんが、じゃあお二人でいっしょに会って下さいませんか、おかまいなかったら、ここを拝借して」
と云った。
「それがいい。ここで、みんなで会いましょうよ。そして、わたしが主に通訳するわ」
 伸子が、あっさりひきうけて云った。
「そのかわり、わたしは、みんな普通の云いかたでしか云えなくてよ。だから吉之助さんはかん[#「かん」に傍点]を働かして、ね」
「それで結構ですとも。ガーリンさんは型のきまり[#「きまり」に傍点]のことが知りたいらしいんです」
「それ見なさい」
 素子が伸子の軽はずみをからかうように睨《にら》んでおどかした。
「きまり[#「きまり」に傍点]なんか、ぶこちゃんの軽業だって、説明できるもんか」
「そうでもないでしょう」
 とりなすためばかりでない専門家の云いかたで吉之助が説明した。
「わたしに、どういう場合ってことさえわからせてもらえばいいんです。あとは、どうせ体で説明するんですからね」
「なるほどね」
 その晩は吉之助にも約束がなくて例外のゆっくりした夜だった。三人はテーブルをかこんでモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の書生ぐらしらしくイクラや胡瓜《きゅうり》で夜食をした。吉之助は、しんからそういう単純な友人同士の雰囲気をたのしく感じるらしく、
「こんなにしていると、日本にある自分たちの暮しかたが信じられないほどです」
と云った。
「外国へ出て見るとほんとにわかるんですねえ」
「ふるさがですか?」
「あんまり別世界だってことですね」
 吉之助は、レモンの入ったいい匂いの熱い紅茶をのみながら、若い顔の上に白眼の目立つような目つきでしばらくだまっていたが、
「伝統的なのは舞台ばかりじゃないんですからね、歌舞伎の俳優の私生活の隅々までがそれでいっぱいなんだ……」
 ため息をつくようにした。
「かえられませんか」
 伸子は、思わずそういう素子の顔を見た。素子は、伸子が見たのを知りながら、吉之助の上においている視線を動かさなかった。
「むずかしいですね」
 これまでにもう幾度か考えぬいたことの結論という風に吉之助は云った。
「自分一人、そこから、ぬけてしまうならともかくですが、あの中にいて何とか変えようったって、それはできるこっちゃありません」
「かりに、あなたがそこをぬけるとしたら、どういうことになるんです」
 素子が何気なくたたみかけてゆく問いのなかに、伸子は、自分だけしか知らない素子の吉之助への感情の脈うちを感じるように思った。かたわらで問答をきいていて伸子の動悸が速まった。
「そこなんですね、問題は」
 テーブルにぐっと肱をかけ、吉之助はまじめなむしろ沈痛な声で言った。
「まず周囲が承知しませんね」
「周囲って――細君ですか」
「細君も不承知にきまってるでしょうが、親戚がね。歌舞伎の世界では、親戚関係っていうのが実に大したものなんです――義理もあるし」
 吉之助は、歌舞伎俳優だった父親に少年時代に死なれ、その伝統的な家柄のために大先輩である親戚から永年庇護される立場におかれて来ているのだった。
「もう一つ自分として問題があるわけなんです。僕には舞台はすてられない。これだけはどうあっても動かせません。俳優としての技術の蓄積ということもあります。ただ、やめちまうというなら簡単でしょうがね。自
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