黷オてみえた。
 ひいきがいう調子で、素子は中館に、
「吉之助、いくつです?」
ときいた。
「八ぐらいじゃないんですか」
「これからってとこだな」
「――吉ちゃんは、あれで考えてますからね、ここまで出て来たってことだけでも、歌舞伎俳優としちゃ謂わば千載一遇のことなんだから、おめおめかえっちゃいられないって気もあるでしょう」
 吉之助のことを云っている中館公一郎の言葉の底に、計らず中館自身の映画監督としての気がまえが感じとられ、わきできいている伸子はひきつけられた。中館公一郎は、日本の映画監督のなかでは最も期待されている一人だった。
「若い連中のなかには、だいぶ千載一遇組がいるらしいですよ。吉ちゃんなんか、この際ベルリンあたりも見ておきたいんじゃないかな」
「そう云うわけだったんですか」
 新しい興味で目を大きくした素子は、
「吉之助の今のたちばなら、出来ないこともないんでしょう。――行きゃいいさ」
 好意のあらわれた云いかたをした。

        二

 吉之助のベルリン行きの希望とその実現計画について話すにつけても、中館公一郎は、歌舞伎が滞在しているという自然な機会のうちにモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で吸収できるだけの収穫を得ようとする自分の熱心もおさえかねる風だった。あしたのソヴ・キノ見学について、素子とうち合わせた。
「エイゼンシュタインも偉いですよ。そりゃたしかにすごい偉さなんでしょうけれどもね、僕らは製作の実際で、お話にもなんにもならないしがない苦労をさせられているんでね。ソヴ・キノの製作企画や、仕事のしぶりみたいなことも知ってみたいんです」
 三人が行ったときエイゼンシュタインは、丁度ソヴ・キノの大きい撮影室で、農民が大勢登場して来る場面を準備しているところだった。舞台は、農民小屋の内部だった。古風な小さい窓の下におかれた箱の上にかけて泣いている婆さんと、そのわきに絶望的にたっている若い女、二人の前でたけりたって拳固《げんこ》をふりながらおどしつけているルバーシカに長靴ばき、赤髯の強慾そうなつらがまえの中親父。そこへ、上手のドアが開いて、どっと附近の農民たちが流れこみ、ぐるりと三人をとりかこんでしまう、そのどっとなだれこんで三人をとりまく瞬間の農民の集団の動きを、エイゼンシュタインが必要とするテムポと圧力とでカメラに効果づけるために、練習がくりかえされているところだった。
 舞台からすこしはなれたところに腰かけているエイゼンシュタインは、映画雑誌などに出ている写真で伸子もなじみのあるくるりとした眼と、ぼってり長い顎の肉あつな精力的な顔だちだった。立って練習を見物している中館や伸子たちに彼は、この三十人ばかりの男女の農民がボログダの田舎から来ているほんとの農民で、カメラというものをはじめて見た連中だと説明した。
「御覧のとおり、彼等に演技はありません。しかし、彼等は生粋の農民の顔と農民の動作と農民の魂をもっているんです。その上に何がいります?」
 エイゼンシュタインは『オクチャーブリ』(十月)でも素人の大群集を非常に効果的につかった。
「集団とその意志を、芸術の上にどう生かすか、ということは、ソヴェトの社会が我々に与えた課題なんです。映画はそれに答える多くの可能性をもっています」
 そう云って言葉をきり、エイゼンシュタインは同業者である中館公一郎のまじめに口を結んで舞台を見ている顔を仰むいて見るようにしながら、
「もしわれわれに十分の忍耐力と技倆さえあるならば――」
とユーモラスにウィンクした。それがとりもなおさず彼の目下の実感にちがいなかった。
 伸子たちがスタディオに入って行ったとき、もう何回めかの、
「一! 二! 三!」
で、戸口からどっと入る稽古をしていた農民たちの六列横隊の動きは、どうしても足なみと速度がばらばらで、スクリーンの上にいっせいに展開し肉迫する圧力を生みださない。運動の密度が農民の感覚に理解されていないことが伸子にも見てとられた。
 中館とエイゼンシュタインとが素子を介して話している間、なお二度ばかり同じ合図で同じ失敗をくりかえした演出助手は、首をふってダメをだし、しばらく一人で考えていたが、やがて一本の長い棒を持ってこさせた。農民の群集の最前列の六人が、一本のその棒につかまらせられた。棒の一番はじを握っている奥の一人はそのまま動かず、あとの五人が棒につかまって大いそぎで扇形にひらいてゆく。従って舞台のはじ、カメラに近い側にいる農民ほど早足に大股に殆ど駈けて展開しなければならない。
 棒が出て、ボログダの農民たちにはやっと自分たちに求められている総体的な動作のうちで一人一人がうけもつ早さやかけ工合の呼吸が会得されたらしかった。三度目に棒なしで、
「さあ、戸口からどっと入って!」
 農民がぐるりと三人をとりまく集団の効果は、テムポも圧力も予期に近づいた。エイゼンシュタインは、そのときはじめて、
「ハラショー」
と腰をもたげた。カメラがのぞかれ本式の撮影にすすんだ。
 ソヴ・キノのスタディオから帰りに伸子たちのとまっているパッサージ・ホテルへよった中館公一郎は、映画監督らしいしゃれたハンティングをテーブルの上へなげ出して、
「われわれにこわいものがあるとすれば、あの根気ですね」
と、椅子にかけた。
「しかもそれがエイゼンシュタインばかりじゃないところね。――それにしてもいい助手をもってるんだなあ」
 素子のタバコに火をつけてやり、自分のにもつけて、うまそうに吸い、中館はいい助手をもっているエイゼンシュタインをうらやむような眼ざしをした。
「ちがいがひどすぎますよ。徹夜徹夜で、へとへとに煽って、根気もへちまもあったもんですか――あのみんなが腰をすえてかかっている根気よさねえ――あれが計画生産の生きてる姿なんです」
 伸子もその日はじめてソヴ・キノの大規模な内部をあちこち見学した。一九二八年度のソヴ・キノ映画製作計画表も説明された。その中では文化映画何本、教育映画何本、劇映画何本、ニュース幾本と、それぞれに企画されていた。
「こういう企画でやっていますから、われわれは資材のゆるすかぎり、適当な時が来ると次の作品のためのセットから衣裳、配役その他の準備をします。しかし、残念なことに、まだ革命からたった十年ですからね。ソヴ・キノは決して必要なだけの設備をもっていません、もう五年たったら、われわれは遙にいい設備をもてると信じています」
 スポーツのスタディアムのように天井の高いセット準備室から別棟のフィルム処理室へと、きのうの雨ですこしぬかるむ通路を行きながら中館公一郎は、
「あきれたもんですね」
と、わきを歩いている伸子に逆説的に云った。
「俳優から大道具までが八時間労働で映画をつくっているなんて話したところで、本気にする者なんかいるもんですか」
 ソヴェトへ来てから、映画におけるプドフキンとかエイゼンシュタインとかいう監督の名は、いちはやく伸子たちの耳にもつよくきこえた。その一つ一つの名を、伸子は何となし文学の世界でバルビュスとかリベディンスキーという名が云われるときのように、そのひとひと固有の達成の素晴らしさとしてききなれた。ソヴェトでもこれらの監督たちは新しい映画の英雄のように見られてもいる。
 小柄な体としなやかなものごしをもって、柔軟の底に見かけより大きい気魄をこめている中館公一郎が、エイゼンシュタインの才能について多く云わないで、いきなりそのエイゼンシュタインに能力を発揮させているぐるりの諸条件につよい観察と分析とを向けていることが、伸子にとって新鮮な活気のある印象だった。中館公一郎がもちまえの腰のひくいやわらかな調子で、エイゼンシュタインは偉いですよ。そりゃたしかにすごい偉さなんでしょうけれどもね、というとき、彼の言葉のニュアンスのなかには、同じ仕事にたずさわるものに与えられている世間の定評に対する礼儀と、その礼儀をはねのけている芸術上の不屈さが感じられた。それは、伸子にも同感される感情だった。映画監督としての才能そのもので中館公一郎は、あながちエイゼンシュタインを別格のものとしているのではないらしかった。彼にとっては、エイゼンシュタインよりむしろソヴェトの映画製作そのもののやりかたが重大な関心事なのだった。ソヴ・キノのスタディオからかえったとき、素子が、
「あの棒はいい思いつきだったじゃありませんか」
と、云ったのに答えて中館は、
「棒をつかってみようとするところまでは、大体誰しも考えることなんじゃないのかな」
と云った。
「ただ棒のつかいかたね……そこのところですよ」
 つづいてドイツ映画の話も出た。伸子がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来たウファの『サラマンドル』という映画をみたことを話した。
「ユダヤ人の学者が迫害されて、外国へ逃げる話なんですけれどね、へこたれちゃった。その学者が深刻な表情をしてピアノをひくと、グランド・ピアノの上におそろしくロマンティックな荒磯の怒濤が現れるんですもの」
「ヤニングスみたいな俳優にしろ、もち味がいかにもドイツ的でしょう」
 中館の言葉を、素子が、かぶせて、
「でも、ヤニングスぐらいになれば相当なものさ」
と、ヤニングスの演技の迫力をほめた。
「リア・ド・プチとヤニングスのあの組み合わせなんか、認めていいものさ」
「中館さん、あなたにベルリンてところ、随分やくにたつの?」
 伸子がむき出しにきいた。
「そりゃあ……日本から行って役にたたないってところの方が少ないんじゃないかな」
「わたしには、ドイツの映画、なんだか分らないところがあるんです。だって、ツァイスのレンズって云えば、世界一でしょう? それは科学性でしょう? それなのに、『サラマンドル』であんなセンチメンタルな波なんかおくめんなく出してさ。――ドイツの文化って、一方でひどく科学的で理づめみたいなのに、ひどく官能的だし、暗いし――わからないわ」
「――ツァイスのレンズだけあってもいい映画にならないところに、われわれの生き甲斐があるわけでしょう」
 歌舞伎がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来たにつれて、一座の俳優の或るひとたちや中館公一郎のような映画監督がそれぞれに芸術の上に新しい意欲を燃やし、どこかへ展開しようとして身じろいでいる。その雰囲気は、はじめ歌舞伎がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来て公演するときいたころの伸子たちには、予想もされなかった若々しく激しいものだった。
 ソヴェトの見物人たちは、歌舞伎の舞台衣裳の華やかで立派なことを無邪気に驚歎し、ごくわずかの体の動きで表現される俳優の表情や科白《せりふ》の節まわしに歌舞伎の独特性を認め、好意にみちていた。それにこたえて、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]一週間の公演を熱演しながら、長原吉之助と数人の若手俳優たちは、舞台におとらぬ熱心さでベルリン行の手順をすすめていた。歌舞伎の一行には、興行会社である松竹の専務級の人もついて来ていた。ベルリンへ行きたい俳優たちはその計画を左団次に承知してもらうばかりでなく、会社の人たちの承諾も得なければならず、それには、正月興行に必ず間に合うように帰ることを条件として申出ることそのほか、伸子たちには想像できないこまかい順序といきさつがあるらしかった。そして、そういう順序のはこびかたそのものに、また歌舞伎の世界のしきたりがあるらしくて、率直な吉之助でさえも、伸子たちが、そのことについてせっかちに、
「どうです、うまく行きそうですか」
ときくと、
「ええ、まあ」
と笑いまぎらすことが多かった。
「左団次さんは自分も若いときイギリスへ行ったりなんかしているから、自然話もわかるんですがねえ」
 それでも吉之助たちのベルリン行の計画は歌舞伎がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]での公演を終る前後には実現の可能が見えて来た。
「見てきます」
 吉之助は俳優らしさと学生らしさのまじりあったような若い顔を紅潮させた。
「そして
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