フ時分すべての報告演説の中に使われる表現の一つであった。
「彼女は、ソヴェト文化部へ質問して来ているんです。ソヴェト権力は、亭主が妻をなぐることを認めているでしょうか。わたしの亭主は革命前に、わたしをなぐっていました。そしていまもなぐります。――ヴォート!」
 パシュキンは、さきの太い鉛筆の大きな字のかいてある水色の紙きれをテーブルの上において、大きい手の平を上向けに、また、
「ヴォート!」
と、云って左眼をつぶった。
「ソヴェト権力がどんなに広汎な問題に責任を問われているかということが、わかりますか」
 やがてパシュキンは、ユーモラスな眼の輝きのなかに集注した注意を浮べた。
「彼女は、坊主にこれを訴えないで、ソヴェト文化部へ手紙をよこした。ここにはっきり我らの十年の意味が語られています」
「返事をやりますか?」
 伸子がそうきいた。
「もちろんやりますとも。――この手紙は我々のところから婦人部へまわします。残念なことにロシアにはまだ、なぐる夫や親たちが少なからずいるんです。子供たちも加わって、なぐられる習慣のある子供たちを保護する団体をつくりました。誰からそのことをききましたか?」
 こういう話しぶりの間に、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では伸子がめぐり合うことのなかったゆるやかさでスモーリヌィでの時が経過した。迅すぎない時間の流れのなかに、伸子は変化しつつあるソヴェトの人々の感情の、横姿やうしろ姿までを見まもるゆとりを与えられた。
 はじめて、スモーリヌィの婦人部へ行ったときのことだった。
 二台のタイプライターの音が交互にきこえて来る隣りの室のドアがあいて、一人の瘠せがたの白ブラウスをつけた婦人が出て来た。黒いスカートをはいて背のすらりとしたそのひとの皮膚はうすくて、ヴ・オ・ク・スで会った若い女のひとと一種共通したレーニングラードの知識婦人の雰囲気をもっていた。
 そのひとは、伸子たちの問いに答えて婦人部の活動を話してきかせるより先に、伸子たちが共産党とどういう関係をもっているかときいた。伸子たちとして、行った先でそういう質問をうけたのははじめてだった。
「わたしたちは党外のものです」
 伸子が返事した。
「政治活動家でもありません。わたしたちは文学の仕事をしているから――けれども、わたしたちはあなたがたの仕事について知りたいと思って居ります」
 白黒のなりの女は、役所風に、
「モージュノ(出来ます)」
と云った。そうひとこと云ったきりで、片手にもった鉛筆で、機械的に片手の手のひらをたたきながら不得要領にしている。その態度に刺戟されたように、素子が独特の悧巧で皮肉な鋭い片頬笑みを浮べながら、
「ソヴェト婦人部の仕事は、党員婦人だけのためにされるべきものなんですか」
と質問した。黒白の女は、急に目をさましたように伸子たち二人をみて、弁明的な早口で云った。
「そんなことはありません。ソヴェト代議員には、党外婦人の方がより多勢選挙されているぐらいですから」
 しかし、この白黒の女に、東洋という観念がはっきりつかめていず、日本の女を見たのも初めてなのは明らかだった。ヴ・オ・ク・スの若いひとも、日本の女に会ったのは伸子たちがやっぱり初めてらしくて、どこか調子のわからないようなばつのわるさを、優美なそのひとらしく内気さと社交性であらわした。スモーリヌィの白黒の女は、なお自分に求められている婦人部の活動についての説明は回避して、自分の知らない未開地の状況の報告でもきくように、日本では女子のための大学があるかなどと質問をつづけた。
 ますます焦《じ》れて来た素子がいまにも日本語で、こんな女を対手にしてたって仕様がないよ、とでも云い出しそうになったときだった。伸子たちが入って来た廊下の方のドアが勢よくあいた。そして、白い木綿のちょいとした半袖ブラウスの上から、鼠色地にこまかい更紗《さらさ》模様のあるサラファンを着て、クリーム色のプラトークで陽気に頭をつつんだ血色のいい大柄な女が入って来た。窓ぎわにいる二人を認めると、
「――わたしどものところへのお客様ですか?」
 こだわりのない足どりで真直伸子たちに近づいて来た。
「こんにちは」
 太くて力のある手で握手しながら白黒の女と伸子たちとを半々に見た。
「どちらから?」
 白黒の女は、椅子から立ち上りながら、
「わたしたちの主任です」
 伸子たちにそう告げて、サラファンのひとに向って伸子たちが日本の婦人作家であること。ヴ・オ・ク・スから紹介されて来ていること。婦人部の仕事について学びたいと云っていることを報告した。サラファンのひとは、クリーム色のプラトークの結びめのはじを、日焦け色をしたむきだしの頸のうしろでひらひらさせながら、
「大変うれしいです」
と、伸子たちにうなずいた、すると、白黒の女は、すこし声をおとし、しかしそれは十分伸子たちにきこえる程度で念を押すように、
「彼女たちは、党員でありません」
とつけ加えた。その瞬間、伸子は火のような軽蔑と反撥が胸の中を走ったのを感じた。党員でなければどうだ、というのだろう。どんな人だって、党員より前に人間であるしかないのだ。そして、女であるか男であるかしかないのだ。――
 クリーム色のプラトークのひとは、到って平静で、伸子たちの上に視線をおいたまま、声の高さをかえず、
「それは重大なことじゃありません」
と云った。
「わたしたちは、みんなのために働いているんだから……」
 白黒が立ってそこから去ったあとの椅子に、かわってサラファンのひとがかけた。
「さて、何からはじめましょう。あなたがたは遠くから来ていらっしゃるのだから、ここでの時間は有効につかわなくてはなりません」
 サラファンのひとは、その室にいた別の女に云ってソヴェトの構成図の印刷したものを伸子たちに与えた。婦人のソヴェト代議員の大部分は村でも都会でも主として、教育、衛生、食糧の部門でよく活動していると説明した。
「非常に大部分の婦人が、特に農村では自分たちの文盲を克服すると同時に、すぐ村ソヴェトの活動に参加して来ているんです。わたしたちのところでは、子供たちもぐんぐん育っていますけれど、婦人たちの成長ぶりはすばらしいです」
 このサラファンのひとが、伸子たちを婦人代議員たちのために政治講習会が開かれている室へつれて行った。かなり広い、風とおしのいい白壁の室の真中に、色さまざまなプラトークで頭をつつんだ、さまざまの年齢の婦人たちが、どの額も頬も農村のつよい日光と風にさらされた色で、農業と電化の話をきいていた。うしろに空いていたベンチに伸子たちと並んでかけて、クリーム色プラトークのひとは、更紗模様のサラファンの下で楽々と高く膝を組み、その上へむきだしの太い肱をつき、顎を支え、断髪を赤いプラトークでつつんだ二十七八の講師の話が終るのを待った。講義が終ったとき、彼女は一同に伸子たちをひき合わせた。すると、講習生の中の一人で金の輪の耳飾りをつけた、いかにもしっかりもののおっかさん風の四十ばかりの婦人代議員から、伸子たちに向って、日本の婦人も参政権をもっているか、という質問が出た。
 伸子は、この村ソヴェト婦人代議員の質問の題目よりも、彼女の質問のしかたにつよい興味をひかれた。どこまでも実際家らしい体つきのそのおっかさん風の代議員は、単に知識上の好奇心からそういう質問を伸子にしているのではないことが、まざまざと伸子に感じられた。彼女は村での自分の生活がひろがり、日々に新発見があり、人生の地平線が遠く大きく見えはじめたその生活感の新鮮さから、日本の女はどうしているのだろうと、知りたがっているのだった。素子にたすけられながら、伸子は簡単に、ごく短かかった日本の自由民権時代、男女平等論の時代と、それからあと現代までつづいている婦人の差別的な境遇について説明した。おっかさん代議員は、伸子のその話をきくと、
「御覧!」
 肩をゆすりながらおこったようにとなりに坐っている同年配の女の脇を小突《こづ》いた。
「わたしたちのとこだって同じことだったんだ」
 楽な様子でベンチにかけながら注意ぶかくこの空気を見ていたサラファンのひとが、
「皆さん、どうですか」
と云った。
「この様子だと、わたしどもは、お互にもっと訊いたり、きかせたりすることがありそうじゃありませんか。明日、二時から、座談会をしましょう、どうです?」
 農村からのひとたちらしく、ゆっくり重くひっぱった。
「ハラショー」
「ラードノ」
が、あっちこっちからおこった。こうして、伸子たちは、思いがけずまた翌日もスモーリヌィへ来ることになった。丁度|正餐《アベード》の時間でサラファンのひとも講習生の婦人代議員たちも、講堂からぞろぞろ階下の大食堂へおりた。伸子たちが、そっちへ曲る廊下の角でわかれて帰りかけると、サラファンのひとは、
「どうして?」
 立ちどまって伸子たちを見た。
「どこへ駈け出すんです? わたしたちと一緒におたべなさい」
 わきを歩いていた一人の、手に火傷《やけど》のあとのある若くない婦人代議員が、いくらか躊躇している伸子に向って合点合点しながら、
「まったくのことさ!」
と云った。
「革命のときはみんながかつえたけれど、いま、パンは、たっぷりなんだから遠慮はいらないことさ」
 スモーリヌィからニェフスキー大通りの手前まで、電車にのって夕方の街々をぬけてかえる途中、伸子はサラファンのひとと、白黒のひととあんまり違いのひどかったことを、くりかえして心にかみしめた。サラファンのひとが戻って来るまで、伸子は、白黒を婦人部の責任者かしらと思っていた。白黒は、伸子たちにそんな風に思いこませるように応待をした。まるで素朴な外見で、自分のするべきことをよく知っていて、そのやりかたに、気持のさっぱりした洗濯上手の女のような自然の練達と確信がそなわっているサラファンのひとが、本当の責任者だったということは、すこし強く云えば、伸子に、ソヴェトというものに対する信頼をとりもどさせた。
「あなた気がついた?」
 がったん、がったん、と古びたレールの上ではずむ電車の中で、伸子は籐《とう》の座席に並んでかけている素子に云った。
「白黒さんが、わたしたちの主任です、と云ったときの、あの調子! なんてデリケートだったんでしょう。まるで、あのひとが間にあったのが残念みたいだったじゃないの」
「あれで、白黒の方がきっと大学ぐらいでているんだ。だからいやんなっちゃう――」
 翌日スモーリヌィへゆき、また次の日もゆき、ゆくたびに伸子はアンナ・シーモヴァというそのサラファンのひとにつよくひかれた。アンナ・シーモヴァは伸子よりも五つ六つ年上らしかった。一九一七年からの党員で、革命のときは働いていた工場のある地区ソヴェトの仕事をしていたということだった。いつみてもとりつくろわない風で、アンナ・シーモヴァは動きも気持も自然だった。彼女のうちにきわだって感じられるのは精神の均衡で、あっさりしたユーモアと具体的なポイントのつかみと一緒に、人に自信をめざませ、働かせ、それを愉快に感じさせる力がアンナ・シーモヴァのなかにある。
 一番おしまいにスモーリヌィへ行ったときのことであった。レーニンの室を見せて貰って帰りぎわに、伸子たちはもう一遍アンナ・シーモヴァのところへよった。彼女は室にいなかった。伸子たちが帰りかけて、三階の踊り場まで降りて来たとき、下からのぼって来るアンナ・シーモヴァに会った。伸子たちは、ほんとに心持よく多くのことを学んで過したスモーリヌィの四日間について礼を云った。
「あなたがたが満足されたのは、わたしもうれしいですよ」
 そして、伸子たちが秋まではレーニングラードに滞在する予定だと云うと、
「せいぜい愉快なときをおもちなさい、秋にまたお会いしましょう」
 そう云ってさようならをしかけたが、アンナ・シーモヴァは、急に伸子と握手していた手をそのままとめて、
「この講習会がすむと、わたしも休暇をとるんですよ」
と云った。アンナ・シーモヴァはうれしそうにそう云
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