チて頬が微笑で輝いた。
「わたしに、三つの娘がいるんです」
つづけて、アンナ・シーモヴァが柔かい低い声で云った。
「わたしの夫は、集団農場の組織のために地方へ行っていますが、彼も一週間たつと休暇になります」
アンナ・シーモヴァが、
「わたしたちは、三人で暮すんです。少くとも一ヵ月――」
と云ったとき、伸子は思わず、
「おめでとう!」
そう云って、アンナ・シーモヴァを抱擁しそうに手をひろげた。アンナ・シーモヴァの幸福感はそれほど新鮮で、伸子をうち、感染させた。三つの娘がいるんですよ。わたしの夫は地方から休暇をとって来ます。わたしも講習会が終ったら休暇になります。そして、わたしたちは三人で暮すんです。歌のような活動のリズムと勁《つよ》い生活の歓喜がそこにあった。
もうスモーリヌィへ行かなくなってから、伸子は一層しばしばアンナ・シーモヴァを思いおこした。あの、歌の|繰返し《リフレーン》のようだったよろこびの囁きと一緒に。――わたしたちは三人で暮すんです、少くとも一ヵ月。そこには、一ヵ月一緒に暮すことさえ珍しくうれしいほどの活動の響きがうらづけられていた。――
それを思うごとに、伸子の心に憧れがさまされた。アンナ・シーモヴァのあの歓喜のある生きかた。ひとまで幸福にするあの清冽な幸福感。
「アンナ・シーモヴァって、いいわねえ。あのひとは、ほんとに生きているという感じがぴちぴちしている。――そう思わない?」
レーニングラードの白夜もややすぎかけて薄暗くなりはじめた夜ふけの窓によりかかり、ネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]からの風にふかれながら、部屋靴にくつろいだ伸子が、ひかれる心を抑えかねるように素子に云った。
「あんな風に生きるってこと――羨しくない?」
素子は、正面から噴水のしぶきでもあびたときのように、伸子の横溢の前にちょっと息をひくようにした。
「そりゃ、あのひとはほんものさね」
「あんな人に会えたの、思いがけないことだったわねえ」
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で暮した六ヵ月あまりの間に、その面影が伸子の心に刻まれたひとが無いわけではなかった。正体のわからないような三重顎のクラウデに紹介されて、ホテル・メトロポリタンのごみっぽい室で会った中国の女博士リンの思い出は、そのときの情景を思い出すごとに伸子をしんみりと真面目にした。あなたの国の人たちとわたしの国の人たちと、どっちが苦しい生活をしているんでしょうねえ。哀愁をこめたリン博士のその言葉は伸子の耳の底にのこっている。伸子は、そういうリン博士の言葉で、自分という者の運命が日本の見知らぬ数千万の人々の運命とかたく結ばれたその一部であることを知らされたのだった。けれども、伸子がリン博士に感じた尊敬や真摯さは、伸子が伸子でないものになりたいような刺戟を与えるものではなかった。リン博士のゆたかさ、伸子の貧弱さ、その間には非常に大きな差があった。けれども、その厳粛な差のなかにリン博士の本質は伸子の本質と通じるものであることが感じられた。
アンナ・シーモヴァに伸子のひかれているこころもちは、惹きつけられる感情そのものが、もう伸子を伸子のそとへ押しだすものだった。リン博士と伸子との間に流れかよった共感というのとはちがった。アンナ・シーモヴァって何といいのだろう。そう思うとき伸子は、自分という意識から解き放されて、アンナ・シーモヴァという一人の女性に表現されているこのましい生活ぶりへの想像に惹きこまれるのだった。
六月も終ろうとする晩で、伸子がよりかかっている窓のあたりは、人気ない河岸どおりをへだてて、ふんだんなネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の夜の水の匂いがして来るようだった。
「あなた不思議だと思わない?」
くつろいでいる全身に、金ぶち飾りのついた天井からの隈ないシャンデリアの光を浴びながら伸子がまたつづけた。
「アンナ・シーモヴァとゴーリキイと、どこか共通な感じがあるのに気がついた?」
「――そうかなあ」
ベッドよりに置かれているテーブルのはじに左肱をかけて、タバコのついていないパイプを指の間でいじりながら、素子がのみこめなさそうな眼ばたきをした。
「そう云えば、あのひとたちは、どっちも働く人の中から出ているんだから、そういう意味では共通な感じがあるかもしれない」
「そればかりじゃなく――革命を経験した人たちだというだけでもなく。――ゴーリキイはあんなに人間で、まるで人生そのものみたいに見事で、それで日向《ひなた》の年とった糸杉の匂いのようなまじりけない男が感じられたでしょう。アンナ・シーモヴァに、似たものが感じられるわ。あのひとの人間らしさに、くっきりと女がはめこまれているわ」
「…………」
素子はだまってじっと伸子を見つめた。そして、無意識な手つきでからのパイプを口に咥《くわ》えた。伸子は、窓の前をゆっくり行ったり来たりしはじめた。窓からは、広く暗いネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の面を越して対岸の街燈が淋しくまばらに見えている。
「立派な、人間らしい人たちの中に、それぞれの完全な性があるのは美しいことだわねえ」
素子の方へ背をむけて歩いていた伸子は、あこがれに小波だっているような調子でそう云ったとき、きいている素子がさっと上気したのを知らなかった。
「わたしも、ああいう風に咲き揃ってみたいと思うわ。――あの人たちのように……何て人間らしいんでしょう。咲きそろうって……」
でも、と伸子はすぐつづけて考えた。自分には、自分を咲き揃わせるどんな方法が現実にあるだろう。誰の真似でもなく、間に合わせでもなく、この自分が咲き揃うために。――ゴーリキイやアンナ・シーモヴァが生きて来て、自身を咲き揃わせた道は、それが心を魅する内容をもっていればいるほどその人たち固有のもので、伸子にそのままくりかえせるものでも、真似するすき間のあるものでもなかった。いつかまた窓ぎわに戻って、目に映るものをほんとには見ていない視線を、明るく照し出されている素子の顔の上におきながら、伸子は思いつづけた。人間の善意は大きく真面目で、その中で一人一人が自分の正直な意志や希望を生かしてゆくためには、何ときびしいその人ひとの道があるだろう。その道の前途は、伸子にとって空白だった。そのことが伸子に明白に意識されるばかりだった。伸子が口を開こうとした瞬間、
「ぶこ!」
低い迫るような素子の声が先をこした。
「なに考えてる――」
複雑なこころもちを云おうとしていたその出鼻をくじかれて、伸子は言葉につまった。
「――当てて見ようか」
素子のなめらかな小麦肌色の片頬に、不自然な片頬笑みがあらわれた。
「いままでぶこが考えなかったことを考えてる――ちがうかい?」
亢奮を強いて抑えているような素子の声音や凝視が、伸子を警戒させた。
「そうかしら……でも、どうして?」
「はぐらかさなくたっていいだろう」
そう云いながら、素子は椅子のなかで膝を組み重ねている体の重心をぐっと落すようにした。
「率直に云ったらどんなもんだい。いつだってぶこは正々堂々がすきなはずだったじゃないか」
まごつきをあらわしている伸子の顔を素子はくらいつくような眼で見据えた。そして、ふん、というように顔をそむけ、その顔をもどして、
「わたしへ遠慮はいらないよ」
と云った。
「そんなに咲き揃いたいんなら、さっさと咲き揃ったらいいじゃないか。――さいわい、ここなら、内海君とちがった男たちもいるんだから」
かたく、大きく見開かれた伸子の目の前で、素子は挑発するように伸子を見ながらパイプをもっている片手で自分の顎から頬へさかなでした。
「――せいぜい全き性を発見するさ!」
ガスへバッと音をさせて火がついたように、伸子の気持が爆発した。
「それはどういうことなの」
素子につめよろうとする衝動をやっと制しながら窓ぎわから伸子がひしがれた声で反問した。
「何の意味?」
「わかってるじゃないか」
「わからなくてよ――なにを思いちがいしてるんだろう……」
厭《いと》わしさで伸子の唇が蒼ざめた。
「わたしは――複雑に云っているのよ」
素子は明らかにかんちがいしているのだった。伸子が云った全き性という感じや、咲き揃うということを、じかに男は女との関係、女は男との関係という風にだけうけとったのだ。しかもその関係というものを、素子の狭い傾いた主観の癖で、直接で露骨な性の交渉の絵図に局限して、
伸子は、素子を見ていればいるほど、素子の暗く亢奮してこちらを睨んでいる眼つきから、唇の両端を憎らしそうに、自虐的にひき下げている口つきから、いとわしさを挑発されるのに気がついた。伸子は、泣きたくなった頬を手でおさえて、窓の方へ向いてしまった。
ネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の上流に架かっている長い橋の上を、灯のついた電車が小さくのろく動いてゆく。日頃は、特別な意識をもたずにすぎてゆく伸子と素子との生活だが、伸子が何か男の影をうけたと素子が思うこういう瞬間に、素子は思いもかけない角度でぐらん[#「ぐらん」に傍点]と感情の平衡を失わせた。そして、その上に強《こわ》もてに全身で居直った。軟かい素子の女の体が、異常な激情に力をこめて居直るのを見ると、伸子は悲しさといとわしさで、自分たち女二人の生活にかくされている普通でないものを考えずにいられなくなった。こういう場合伸子はいつも、より普通でないものを素子の側に感じながら、
少女期を出たばかりにずっと年上の佃と結婚して、心がそこに安らわず、断続して遂に破壊された五年の結婚生活の経験で、伸子は女として、性的な意味でほんとに開花していなかった。伸子は、ほんとの意味では女にも妻にもなりきらないまま、素子と暮すようになったのだった。けれども、伸子は自分の女としてのその微妙な状態について、何と比較するよしもなく、従って知りようもなかった。本質ははげしいけれど今は半ば眠っている伸子の官能のなかで、まだその全能力を発揮させられずにいる強い愛の能力の範囲で、伸子は素子にひかれ、暮しているのだった。伸子としては、自分が自分の頬を素子の頬にふれさせたい気持になることがあること、唇をふれ合うこともあること。そういう感情や表現を、そっくりそのまま男と女との間のことと同じとは感じていなかった。それはちがうのだもの。素子は女なのだもの。未開のままその生活からはなれたと云っても、伸子は佃と恋愛した。夫婦の生活をした。伸子にとって男と女のちがいは、自然がそれを区分しているとおりはっきりしていて、素子は男の代償という意味ではなく、どこまでも女として、友達として、しかし、そこには頬をふれる気持になるようなところのある女友達として、伸子は結ばれているのだった。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来て暮すようになってから、伸子と素子の生活は、駒沢にいた時分より、ずっとのびやかに、解放された。特に男たちから、伸子と素子との表面の暮しのかげに、なにか偏奇なグロテスクなものでもありそうにのぞきこまれる苦痛がなくなった。それに抵抗して、強いても二人を一組に押し出そうとするような伸子のうらがえされた恥辱感も消された。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では、伸子たち二人が、つれだって遠い国から来ている外国の女たちだからと云うばかりではなかった。ソヴェトの社会生活では、男と女との接触が理性的にも感情的にも解放されていて、その間のいきさつはめいめいの自然の流れにしたがい、社会的責任で処理されている。そういう雰囲気の中では、性に関する好奇心とでもいうようなものも、表面で封鎖されているだけに、すべての下心が一枚はがれた下では、いつもかくされた亢奮ではりつめているような日本の状態とはちがった。すべてのことを感覚へじかにうけとるたちではあるけれども情慾的であるとは云えない伸子の気質は、ソヴェトのその雰囲気に調和した。そして、佃との苦しい生活で傷《いた》められた伸子が、異性への自然さを失わないな
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