ソが目をはなさず見守っている観覧席の前を通りすぎて、一番はずれの観覧席のところまで行った。そこで馬首をめぐらして、広場の遠いむこう側を、すこし速めた※[#「足+(枹−木)」、第3水準1−92−34]足で、再び入口に向ったときだった。それが合図のように、赤軍の行進が猟人広場の方の門から広場へ流れこんで来た。見る見る広場が埋められはじめた。すると、一台、大型オープンの自動車が伸子たちの観覧席の前をすべるようにすぎて、クレムリンの河岸に近い門の方へ去った。
「自動車が行きましたね。じゃ、スターリンが来たんです」
秋山宇一が確信ありげにそう云って、伸子と一緒に仕切り綱の上へのり出したとき、クレムリンのスパースカヤ門の時計台からインターナショナルの一節がうちだされた。それから一つ、二つ、と時をうって十時を告げ終ったとたん、赤い広場からそう遠くないところで数発の号砲がとどろいた。
メーデイの儀式と行進とはこうして、うすら寒い五月の赤い広場ではじまった。真横にあたる伸子たちの観覧席からは、骨を折っても赤い演壇の上の光景は見わけられなかった。広場の四隅につけられている拡声機から、力のこもった、しかし誇張した抑揚のちっともない、語尾の明晰なメーデイの挨拶の言葉が流れて来た。演壇の上が見られない伸子は気をもんで、かたわらの素子に、
「いま話しているの、スターリン? そう?」
ときいた。
「そうなんだろう、わたしにだって見えやしないよ」
声にひかされるように、伸子は、見えない演壇の方へ爪先立った。伸子は、日本の共産党検挙の記事や、その記事に父のペンでかけられていた赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]のことを忘れた。
スターリンの声と思われた演説が終ったとき、広場をゆるがし、その周囲にある建物の壁をゆすってソヴェト政権とメーデイのためにウラーが叫ばれた。ブジョンヌイは、その間じゅう白馬に騎って、演壇の下に、赤軍の大集団に面して立っていた。
やがて、拡声機から行進曲が流れ出して、赤軍が動きはじめた。歩兵の大部隊がゆき、騎兵の一隊が、隊伍に加った大髭のブジョンヌイを先頭に立てて去り、機械化部隊が進行して行った。つづいて労働者の行進が広場へ入って来た。
まちまちの服装で、ズック靴をはいて、プラカートをかかげた人々の密集した行進が来るのを見たとき、伸子の眼のなかにさっと涙が湧いた。この人々は何とむき出しだろう。なんとめいめいが体一つでかたまりあっているだろう。いかつく武装をかためた機械化部隊のすぎたあとから行進して来た労働者の隊伍は、あんまりむきだしに人間の体の柔かさや、心や血の温かさを感じさせ、伸子は自分の体をその生きた波にさらいこまれそうに感じた。年をとった男、若い男、同じようにハンティングをかぶり、娘もおかみさん風の婦人労働者もとりどりのプラトークで頭をつつみ、質素な清潔さで統一されているが、ソヴェトの繊維品生産はまだ足りないということは行進する人々の体に示されていた。何という様々の顔だろう。さまざまの顔のその一つ一つに一つずつの人生がある。心がある。けれども、きょうのメーデイに行進するという心では一つに繋《つなが》っていて、クレムリンの城壁をこして空高くゆるやかに赤旗のひるがえっている広場へ入って来る列は、演壇から行進に向って挨拶されるローズング(スローガン)に応えて心からのウラーをこだまさせてゆく。蜿蜒《えんえん》とつらなる行進の列は、演壇の下を通過するとき、数百の顔々を一斉に演壇へ向けて、ウラーを叫んだ。広場には行進曲が響いている。それにかまわず自分たちのブラス・バンドを先頭に立てて来る列もある。さっきから祝い日の低空飛行として広場の上空に輪を描いている二台の飛行機の轟音さえも愉《たの》しい音楽の一つとして、八十万人と予想されている大行進は猟人広場の方の門から入って来てはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河岸の門へ流れて出てゆく。
そっちの方角を埋める人波と、人波の上にゆれるプラカートの林立を眺めていて、伸子は、いつも特別な思いで眺める|首の座《ローブヌイ・メスト》が見えないのに気がついた。赤い広場のその方角に、いつも灰色の大きい石の空井戸のような円形の姿をみせて、そこでツァーが首斬った人民の歴史を語っている|首の座《ローブヌイ・メスト》は、メーデイの人波とプラカートの波の下にかくれてしまっている。そのまわりに来たとき、人々は列をくねらしてよけて通って行っているのだろうけれども、伸子のところからは、そのうねりさえ認められなかった。|首の座《ローブヌイ・メスト》はメーデイの行進の波にのまれてしまっている。
伸子の心には閃くように、三月十五日の記事にかけられていた赤インキのかぎ[#「かぎ」に傍点]の形が浮んだ。それはいま、一つの象徴として伸子の心に浮んだ。実際よりもはるかに巨大な形をもって。父の泰造が伸子に送る新聞につけてよこした赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]はいまその形をひきのばされ、|首の座《ローブヌイ・メスト》を埋めて動いている数万の人々の上に幻のように立つようだった。しかし、そんな不吉の赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]を見るのは伸子一人にちがいなかった。そしてそのかぎ[#「かぎ」に傍点]の下に入れられそうな感じに抵抗しているのも伸子一人にちがいなかった。伸子は実にはっきり自分がちがう歴史のかげの下にいるのを感じた。
終りに近づいたメーデイの行進は、数十万の靴の下でポクポクにされ熱っぽくなった広場の土埃りの中を、きょうは一日中おくられる行進曲につれて、いくらか隊伍をまばらに通っている。
最後の行進が通過した。気がついた伸子が演壇の方を見たら、いつかそこも空になっていた。伸子、素子、秋山宇一、内海厚の四人はひとかたまりになって、ぐったりとくたびれたようになった赤い広場を猟人広場へ出て来た。
この辺はひどい混雑だった。行進を解散したばかりの群集が押し合いへし合いしている間を縫って、赤いプラトークで頭をつつんだ娘をのせた耕作用トラクターが、劇場の方からビラを撒《ま》き撒きやって来た。伸子たちは、やっとそこを抜けてトゥウェルスカヤの通りの鋪道へわたった。赤いプラカートの張りわたされているここも一杯の人出で、空気はもまれ火照《ほて》っている。
「ぶこちゃん、ちょっとパッサージへよってお茶をのんで行こうよ」
素子がそう云って秋山に、
「パッサージ、やっていますか」
ときいた。
「さあ――どうでしょう――やっているでしょう」
「やってます、やってます」
内海厚が、わきから早口に答えた。
伸子たちは、靴を埃だらけにして、アストージェンカへ帰って来た。朝のうちは、電車のとまった通りを赤い広場の方へゆく人かげはまばらだったのに、帰り途は、同じ大通りが、赤い広場から家へ歩いてかえる群集で混雑していた。赤い紙の小さい旗をもったり、口笛をふいたりしながら、みんなが歩きつかれたメーデイ気分でゆっくり歩いている。
「くたびれた!」
部屋へ入ると、すぐ窓をあけて伸子がディヴァンへ身をなげかけた。
「立ってるのはこたえるもんさ」
美味《おい》しそうに素子がタバコを吸いはじめた。
いつもなら窓をあけるやいなや、ごろた石じきの車道をゆく荷馬車の音だの、電車のガッタンガッタンがひとかたまりの騒音となって、フラム・フリスタ・スパシーチェリヤの大きな石の建物にぶつかってから伸子たちの狭く浅い部屋へなだれこんで来る。きょうは、窓をあけても、騒々しい音は一つもなかった。午後の柔かく大きな静けさが建物全体と街をつつんで、伸子がディヴァンにじっとしていると、四階の窓へはかすかに人通りのざわめきがつたわって来るだけだった。伸子にとってメーデイの行進は感銘ふかかった。こうしてメーデイにはいそがしいモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]全市が仕事をやめて休み、祝っている。その祭日の気分の深さには、やはり心をうたれるものがあった。メーデイの前日からアルコール類は一切売られなかったから、きょうの祝い日の陽気さはどこまでもしらふ[#「しらふ」に傍点]だった。そういうところにも一層伸子に同感されるよろこびがあるのだった。
伸子と素子とは、しばらく休んでから埃をかぶった顔を洗い、着ているものをかえた。そしたら、また喉がかわいて来た。素子が、
「お湯わかしといでよ」
と伸子に云った。
「いいさ、メーデイじゃないか」
伸子たちとルイバコフとの間の日頃の約束では、朝晩しかお湯はわかさないことになっていた。
伸子が台所へ行ってみると、さっき入口をあけてくれたニューラの姿が見えない。ルイバコフの細君や子供も出かけてしまったらしく、アパートメントじゅう、ひっそりとしている。伸子は、自分たちの水色ヤカンが、流しの上の棚にのっているのを見つけた。伸子は、ニューラが見えないのに困った。うちのものが誰もいない台所で、勝手なことをするようなのがいやで、伸子は水色ヤカンを眺めながら、半分ひとりごとのように、
「ニューラ、どこへ行っちまったの」
節をつけるようにひっぱって云った。すると、台所のガラス戸のそとについているバルコニーからニューラが出て来た。何をしていたのか、すこし上気《のぼ》せた顔色だった。
「歩いたんで、喉がかわいたのよ、ニューラ。お湯をもらえるかしら」
「よござんす」
ニューラはすぐヤカンをおろして水を入れ、ガスにかけた。
「ありがとう。お湯はわたしがとりに来るから」
そう云って台所を出ようとした伸子に、ちょっとためらっていたニューラが、
「ここへ来てごらんなさい」
バルコニーへ出るドアをさした。鉄の手摺のついたせまいバルコニーの片隅には、空箱だの袋だのが積まれていて、ニューラが洗濯するブリキの盥《たらい》もおいてある。バルコニーは、この建物の内庭に面していて、じき左手から建物のもう一つの翼がはり出しているために日当りがわるかった。内庭のむこう側にコンクリート壁があって、ギザギザの出た針金が二本その上にまわしてある。そこにくっついて塀の高さとすれすれに赤茶色に塗られたパン焼工場の屋根があった。その屋根の上に、もうメーデイの行進から帰って来たのか、それとも行かなかったのか、三人の若者が出てふざけていた。ニューラがバルコニーへ出ると、その若者たちのなかから挑むような鋭い口笛がおこった。
伸子は反射的にドアのかげに体をひっこめた。
「ヘーイ! デブチョンカ(娘っこ)!」
「来いよ、こっちへ!」
屋根の上から笑いながら怒鳴る若者の声がきこえた。むこう側からはこちらの建物の、内庭に面しているすべての窓々とバルコニーとが見えるわけだった。若い者たちはおそらくその窓々がきょうはみんなしまっていて、バルコニーで働いている女の姿もないのを見きわめて、たった一つあいているバルコニーのニューラをからかっているらしかった。
赤茶色の屋根のゆるい勾配にそって横になっていた一人の若者が、重心をとりながら立ちあがって、ポケットから何か出した。そして、それを、ニューラのいるこちらのバルコニーへ向って見せながら、伸子にはききわけられない短い言葉を早口に叫んだ。そして、声をそろえてどっと笑った。一人が口へ指をあてて高い鋭い口笛をならした。それは何か猥褻《わいせつ》なことらしかった。ニューラは、メーデイだのに着がえもしなかった汚れたなり[#「なり」に傍点]で、両方の腕を平べったい胸の前に組み合わせ、いかついような後姿でバルコニーに立ち、笑いもしないが引こみもしないで、じっとパン工場の屋根を見ている。
伸子はそっと台所から出て、自分たちの部屋に戻った。建物の表側にある伸子たちの部屋では、あけ放された窓ガラスに明るくフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根の色が映って、祭り日の街路を通る人々の気配がかすかにつたわって来る。こっちには祭日のおもて側があった。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のメーデイのよろこびの深さがわかるだけに、建物のうら側のバル
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