nへ来て半年近くなる伸子の感情には、結婚や家庭のありかたについて、ぼんやりした新しい予測と、同時に、どこかがちぐはぐな疑問が湧いて来ていた。伸子がみるソヴェトの生活で、たしかに社会的な施設は幸福の可能に向って精力的につくり出されていた。だけれども、彼女のふれたせまい範囲では、伸子の女の気持がうらやましさで燃え立つほど、新鮮でゆたかな結合を示している男女の一組を見たと思ったことはなかった。ルイバコフの夫婦にしろ、ケンペル夫妻にしろ、そして、並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》をぞろぞろと歩いている無数の腕をくみ合わせた男女たちにしろ。
 然し、そういう何の奇もない男と女とが、平凡な勤勉、多忙、平凡な衝突、平凡な移り気や官僚主義など、ソヴェト風な常套の中に生きている姿の底を支えて、伸子が生きて来た日本の社会では、どんな秀抜な資質のためにも決して存在しなかった一人一人の女の、働く女として、妻として、母として、お婆さんとしての社会保護が、社会契約で実現されていることに思い及ぶと伸子はやはり感動した。自分も女であるということに奮起して、伸子は元気を与えられるのだった。伸子の心の中にいくらかごたついたまま芽生えはじめた女としての未来への期待、確信めいたものが、二木準作のコロンタイズムに対して、女にだけわかる猛烈さで抗議するのだった。
 コロンタイの本は、結局その古本屋にもなかった。帰って来て、ルイバコフのベルを鳴らすと、ドアをあけたニューラの顔が明るかった。すぐ素子が、
「どうした? ニューラ?」ときいた。
「犬に嗅いでもらったかい?」
 するとニューラは、うしろをふりかえってルイバコフたちの住んでいる室のドアがしまっているのをたしかめてから、
「わたしには犬の必要がなかったんです」
 小声で、勝ちほこって云った。
「あの人たちは、よその家の敷布もどっさり盗まれているのを見つけたんです――御覧なさい! あの人たちはいつもあとから分る[#「あとから分る」に傍点]んです」
 うれしくて仕方のない感情を、ほかの仕草であらわすすべを知らないニューラは、いそいで廊下を先に立って行って、伸子と素子とのための二人の室のドアをあけた。

        六

 メーデイの日のために、伸子たちは対外文化連絡協会から、赤い広場への入場券をもらった。
 その朝はうす曇の天候で、気温もひくかった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の街々では電車もバスもとまった。辻馬車の影もないがらんとした通りを、赤い広場へむかって、人々がまばらにいそいで行く。行進をする幾十万という人々は、みんなそれぞれの勤め先から旗やプラカートをもってくり出して来るから、ばらばらに赤い広場の方へ歩いているものはごく少数で、しかも何かの事情で行進には参加しない連中らしく見うけられる。伸子と素子も、そのばらばらの通行人にまじって、中央美術館前の大通りを、アストージェンカから真直に赤い広場へ歩いて行った。
 うすら寒いような五月一日の天気にかかわらず、歩道をゆく人々は、今朝はすっかり夏仕度だった。くすんだ小豆色のレイン・コートじみた合外套にハンティングをかぶった男連のシャツやルバーシカは、白かクリーム色だった。女の半外套の下からは、寒くないのかとびっくりするような薄い夏服の裾がひらめいた。伸子たちのすぐ前を、黒い半外套の下からヴォイルのような夏服を見せた三人づれの若い娘たちが歩いて行っていた。三人おそろいのプラトークで頭をつつんで、派手なその結びめが、大きい三つの蝶々のようにひらひらする。それを追うように伸子たちも無言で速く歩いた。午前十時から赤い広場の行進がはじまる、その三十分前に、参観者たちは広場の中のきめられた場所へ到着しているように指定されているのだった。
 猟人広場まで来ると、もうトゥウェルスカヤ通り一杯につまって、行進が定刻の来るのを待機していた。大きい赤地のプラカートをもった行進の先頭はトゥウェルスカヤ通りが猟人広場に向ってひらく鋪道のギリギリの線まで来ていて、ゆるく上りになっている通りをずっとかみてへ見渡すと、トゥウェルスカヤ通りは、目のとどく限り人と赤い旗の波だった。左右の高い建物の窓から窓へとプラカートが張りわたされている。広場をこして大劇場通りの方を眺めると、こっちにはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の商業地帯、官庁地帯から出て来た幾列もの行進で、赤く賑やかにつまっている。いまにも溢れんばかり街すじに漲っている巨大なエネルギーを堰《せ》きとめて、特別清潔に掃除されている猟人広場の石じきの空間は、けさ全く人気が少なかった。ところどころに、整理のための赤軍兵と民警が立っているだけだった。
 きれいに掃かれてがらんとしている猟人広場を横ぎって赤い広場の方へ歩いて行きながら、伸子はたがいちがいに運ぶ自分の脚の短かさを妙にぎごちなく意識した。伸子はこれまでに、人間のこんな陽気な大群集を観たことがなかったし、その大群集がこんな秩序をもって待機している光景を見たことはなかった。まして自分が、特権でもあるように、箒目《ほうきめ》の立った清潔な広場を整理員に見まもられながらよこぎってゆく経験ももっていなかった。伸子は、厳粛な顔つきで、赤い広場の右側、クレムリンの外壁沿いにつくられている観覧者席へ入って行った。
 各国の外交団のための観覧席と、伸子たちの入った民間日本人の観覧席との間に、赤い布で飾られた高い演壇がこしらえられていた。そこがソヴェト政府の指導者たちの立つところらしかった。そこはまだ誰も見えていない。
 太い綱をはって、広場の片隅を区切っているだけの観覧席には、秋山宇一、内海厚、そのほか新聞関係の人とその細君などが先着していた。
「や、来られましたね」
 ハンティングをかぶった秋山宇一が、入って来た伸子たちに向ってうなずいた。
「あいにく、寒いですね」
「それでも降らなかったから大助りですよ」
 素子が答えながら、はすうしろに立っていた新聞の特派員とその細君に会釈した。大柄な体に、薄手な合外套のボタンを上までしめている特派員はいくらか近づいて来るようにしながら、
「あなたがた、最近の日本の新聞を御覧でしたか」
と伸子たちに話しかけた。
「――最近のって云ったところで、わたしたちのは、どうせ幾日もかかってシベリアをやって来るんですがね――何かニュースがあるんですか」
「日本の共産党事件――よまれましたか」
「ああ、よみました――ひどく漠然とした記事ですね、何が何だか分らなかった」
「――そう云えばそうだが、吉見さんなんか、あらかじめこっちへ逃避というわけじゃなかったんですか」
 うす笑いをしながらそういう特派員の言葉を、素子はぼんやりした顔つきできいていたが、急にその特派員の方へくるりと向きかわって、
「冗談にしろ、そんなこと、迷惑ですよ」
 きめつけるように、真顔で云った。そして、秋山宇一をかえりみながら、いくらか皮肉な調子をこめて、
「秋山さんこそ、どうなんです?」
と云った。
「あなたは、大丈夫なんですか」
「今も塩尻君に様子をきいていたところですがね」
 例の癖で自分に向ってうなずくように首をふりながらその特派員の名を云って秋山宇一が答えた。
「友人のなかには、やられたものが相当あるらしい工合ですよ」
 そう云いながら、秋山宇一はどことなく肩をすぼめるようにして、それも癖の、小さい両手を揉み合わせながら、仕切り綱に上体をのり出させ、
「――まだ誰も見えませんか?」
 赤い布飾りのついた演壇の方をのぞいた。折角、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のメーデイを見に来ているところで、これからじき帰って行こうとしている日本では、共産党という秘密結社が発見されて、全国で千余名の人々がつかまった、というような報道を、どこかその身に関係がありそうに話されたのを秋山宇一が快く感じていない表情は、ありありとうけとられた。
 秋山宇一が、その話をさけたそうに体をのり出させて眺めている赤い演壇の方を一緒に見ながら、伸子も、メーデイの朝の気分にそぐわない、いやな気持でそのことを思いだした。伸子たちは、ついおととい着いた日本からの新聞で、一ヵ月近く前の三月十五日の明け方、「官憲は全国一斉に活動を開始し」という文句で書かれている共産党検挙の事件が解禁になった記事をよんだのだった。初号の大見出しで一面に亙って、五色温泉で秘密の会合をした仮名の人々のことだの、大学教授や大学生がどっさり関係していること、内相談、文相談と、いかにも陰謀の一端を洩《もら》すという風につかみどころなく、しかも動顛のおおえない調子で報道されていた。動坂の家からモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいる伸子あてに送ってよこした朝日新聞の四月十一日のその記事の大見出しのところには、赤インクで長いかぎ[#「かぎ」に傍点]がついていた。銀行ペンに濃い赤インクをつけて、大きく、長く、抑揚のある線でかけられたかぎ[#「かぎ」に傍点]は、まぎれもない父の泰造の手蹟であった。
 三月十五日の記事にかけられている赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]を見たとき、伸子は、いやな刺戟を感じた。記事そのものが漠然としている上に、そういう運動を知らない伸子には、全国的検挙という事実さえ、実感に迫って来なかった。共産党という字が、いたるところで目にふれるモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では政治について知らない伸子も、世界の国々に資本家の代表政党があるからには、勤労階級の共産党があるのは当然と思うようになっていた。泰造のペン先でつけられた赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]は、そんな風にのんびりと、日本の現実について無知なまま自由になっている伸子の体のどこかを、その赤いかぎ[#「かぎ」に傍点]でひっかけて、窮屈なところへ引っぱり込もうとするような感じを伸子に与え、伸子は抵抗を意識した。
 うす曇りのメーデイの朝、赤い広場の観覧席の仕切り綱の中に立って、まだ空っぽの赤い演壇の方を眺めながら、伸子は、素子と記者との間に交わされた話から、赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]の形を生々しく思い出した。抵抗の感じがまた全身によみがえって来た。その抵抗の感じは、すべての感受性をうちひらいてメーデイの行事を観ようとして来ている伸子の軟かい心と、瞬間鋭く対立した。観覧席で、まわりの人々は腕時計を見たり、とりとめなく話し合ったりしながら折々期待にみちた視線を赤い広場の入口へ向けている。その中に交っている伸子の背の低い丸い顔は、質素な紺の春コートの上で、弱々しいような強情のような一種の表情を浮べた。
 そのとき、何の前ぶれもなしに、突然猟人広場の方から轟くようなウラーの声がつたわって来た。観覧席は俄に緊張し色めきたった。
「スターリンですか」
「さあ……」
「見えますか」
「いいや」
 尾の房々と長く垂れた白馬にまたがった一人の将校を先頭に黒馬に騎《の》った十余人の一団が、猟人広場の方から赤い広場へ入って来た。広場へ入ると、その騎馬の一団は広場のふちにそって※[#「足+(枹−木)」、第3水準1−92−34]足《だくあし》で外交団席の前を通り、赤い演壇の下を進んで、伸子たちのいる観覧席の少し手前まで来た。観覧席に向って進んで来る白馬の騎兵をじっと見守っていた伸子が、
「ブジョンヌイよ!」
 びっくりしたような、よろこばしいような声を立てた。
「あの髭! あの髭はブジョンヌイだわ!」
 白馬にのった将校の顔の上には、ほかの誰もつけていない大きい黒髭が、顔はばを超して左右にのびていた。
「ほんとだ!」
 素子も、おもしろそうに肯定した。一九一七年から二〇年にかけてウクライナで革命のために活躍した第一騎兵隊と云えば、その英雄的な物語は戯曲のテーマにもなっていた。ブジョンヌイは、その第一騎兵隊の組織者、指導者として、コサック風の大髭とともに、伸子のような外国人にさえ親愛の感情をもたれていた。
 騎馬の一団は、伸子た
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