Rニーにはメーデイの閑寂の裏がある。台所のバルコニーに立ったニューラの姿は伸子に印象づけられた。伸子の心は象徴的に形を大きくした赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]の形を忘られていなかった。

        七

 メーデイがすぎると、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の街々には一足とびの初夏がはじまった。すべての街路樹の若芽がおどろくようなはやさで若葉をひろげた。フラム・フリスタ・スパシーチェリヤの大理石の胸壁を濡らして明るい雨が降った。伸子が、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の印象記を書き終ろうとしている机のところから目をあげて雨のあがったばかりの、窓のそとを見ると、雨の滴をつけた一本の電線に雀が七八羽ならんでとまっていたりした。
 伸子は、このごろ直接多計代あての手紙は書かなくなってしまっていた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の町に雪があったころ、保にかいた手紙のことで多計代から来た手紙を、伸子は半分よんだだけでおしまいまで読めなかったことがあった。それ以来、伸子は時々エハガキに近況をしらせる文句をかき、佐々皆々様、という宛名で出していた。動坂の家からは、伸子が東京あてのエハガキをかくよりも間遠に、和一郎がかいたり、寄せ書きしたりした音信が来た。相かわらずとりとめなく、どこへドライヴしたとかいう出来ごとばかりを知らせて。
 メーデイの前後しばらくの間、伸子はちょくちょく父のペンでつけられた赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]つきの新聞記事を思い出してこだわった。
 泰造が、例によって一人がそこにいる朝の食堂のテーブルであの新聞を読み、無意識に、入歯のはいっている奥歯をかみ合せながら、しっぽのひろがった太く短い眉をひそめてすぐテーブルの上においてあるインクスタンドからペンを執り、せっかちな手つきで赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]をかけたときの顔つきが、手にとるように伸子にわかった。泰造のその表情や、わるく刺戟的な赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]をかけた新聞を送らせるようなやりかたのなかに、伸子は、これまで心づかなかった父と自分との心のへだたりを知った。
 三月十五日に日本で共産党の人々が検挙されたという記事に、泰造は、どんなつもりでそんな、衝動的な赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]をかけ、伸子へ送らせたのだろう。伸子が仮にパリにいたとして、泰造はやっぱりこうして新聞をよこすだろうか。娘がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいるということだけで、泰造はその新聞記事から普通でない衝動をうけたのだ。どう表現していいか泰造自身にもわからなかったのだろうけれども、赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]は、泰造の受けた衝撃の感情の性質を語っていることが伸子を悲しくさせた。
 去年の秋、伸子たちがソヴェトへ来るときめたとき、そして旅券のことについて動坂の家へ行ったとき、母の多計代は「ロ・シ・アへ?」と、ひとことひとこと、ひっぱって云って、いやな顔をした。半年近くたったこの間、伸子がそこまでよんで先がよめなくなった多計代の手紙には、「冷酷なあなたの心は、ロシアへ行ってから」とかかれていた。父の泰造は、旅券のことで助力をたのみに行ったときも、伸子がともかく自分の力で借金ができて、外国へも行くようになったことをよろこんで、行くさきについて意見は洩さなかった。その後の泰造の簡単なたよりにも、ロシアというものへの先入観や偏見はちっともあらわされていなかった。
 ところが、こうして、日本にも世界のよその国と同じようにいつの間にか共産党が出来ていて、それがわかった、と大臣や役人があわてて右往左往している様子のわかる新聞記事が出たら、泰造の心の安定はたちまち動揺した。程度のちがいこそあれ多計代と同じような性質で、ロシアというところ、そこにいる伸子というものについて普通でない心の作用をあらわしている。
 伸子には、無条件で父を肯定する習慣があった。母の多計代はどうであっても、父の泰造は、と思う習慣があった。その習慣的な父への安心が、伸子の心の中ではげしく揺られた。父と母とは、生れ合わせにもっている気質がちがって、そのちがいは永い年月が経つ間に双方からつよめられ、その間で育った娘の伸子には、父と母とがものの考えかたや感じかたで全くちがうように思えていた。けれども、いま伸子は、父と母との気質のそのちがいを実際よりも誇張して感じていたのは、自分の甘えだったとさとる心持になった。父と母とは、夫婦だったのだ。いざというところでは、いつも一致した利害を守って生きて来た夫婦だったのだ。伸子が、自分の都合のいいように誇張してそれに甘えて来たような本質のちがいが、両親のものの考えかたにあるという方が変だったのだ。
 四月の末モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の中央美術館でひらかれたゴーリキイ展を見に行ったとき、伸子は、そこでゴーリキイに子供のときの写真が一枚もないことを発見した。そして赤坊のときからの写真をどっさりもっている自分に思いくらべた。それにつれて、写真に対する自分の浅薄さを非常に苦しく自覚したことがあった。母親と仮借なく対立しながら、父にだけは批評なしに甘えられそうに思っていた自分の心の姿も、伸子にはじめて同じような醜さとして見えた。父の泰造が、よく云っていた見識とか常識とかいうことも、窮極では、母の多計代の量見とどこまでちがったものだったろう。
 泰造は役所や役人ぎらいであった。大学を出たばかりで勤めた文部省の営繕課をやめたいばかりに、若い旧藩主のお伴のような立場でイギリスへ行った。泰造が官庁の建築家として完成したのは札幌の農科大学のつましい幾棟かの校舎だけであった。伸子が十九のとき札幌へ行ってみたら、その校舎は楡の樹の枝かげに古風な油絵のように煉瓦建の棟を並べていた。外国から帰ってから泰造はずっと民間の建築家として活動して来ている。
 泰造はよく、判断のよりどころのように常識があるとか、ないとかいうことを云った。それがイギリスには在って日本にはないものであるかのように「コンモンセンス」と英語で云って、常識が低いとか、常識がないとか云うことは、泰造にとって軽蔑すべきことだった。でも泰造が、あるとかないとか重々しくいう常識というものは、どういうものだったのだろう。考えつめながらもお父様というよび名が心にうかぶとき、伸子は懐しさにうごかされた。泰造の暖くて大きくてオー・ド・キニーヌの匂いのする禿げ頭をしのんだ。そのなつかしい父に、伸子は自分について発見していると同じ性質の浅薄を感じた。父の泰造も、つきつめてみればほんとに常識と呼ぶだけつよい常識はもっていないのに、コンモンセンスと英語でいうようなところがある。ほんとに分別にとんだ常識というものなら、資本主義の一つの国で法律が共産党を禁じるという事実があるなら、とりも直さずそのことがそういう改革的な政党の生れるような社会的条件をその国がもっていることを語っているのだと、理解するはずだった。
 五月の夜、若葉の香の濃い並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》のアーク燈の下をぞろぞろ散歩しているモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の人々にまじって歩きながら、伸子はこの群集の流れの中で、あの赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]を負っているのは自分だけだと思うと変な気がした。わきに並んで、時々腕をくみ合わせたりして歩いている素子にさえ、伸子のその奇妙な感じはわかっていない。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の生活は、伸子を、日本にいたときはあることさえわからなかった広い複雑な社会現象のなかへつき出した。伸子はそれだけ自由にのびやかになった。そしたら、これまで気づかずにいたいろんな意味での赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]が、自分にかかっていて、周囲に動いているモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の人たちにはかかっていないことを、見出しているのだった。
 こういう心の状態で夜の並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》を散歩しているときなどに、伸子がもうちょっとで素子に話しそうになっては、話さなかった一つの気もちがあった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来る年の秋、駒沢の奥の家に素子と住んでいたころ、素子が買って来て伸子も読んだブハーリンの厚い本の中に書いてあったことにつながっていた。駒沢の、柘榴《ざくろ》の樹のある芝生に庭を眺めながら伸子はその本をよんで、今日の社会で資本というものが演じている役割や働く階級の歴史的な意味を知り、自分たちの属している小市民層というものの、どっちへでも動く可能をもった浮動的な立場の本質を知った。そのころ、伸子は父の泰造の建築家という仕事がもっている社会的な関係に新しく目をひらかれた。たとえ泰造がローヤル・アカデミーの特別会員であろうとも、アメリカの建築学会の名誉会員であろうとも、今の日本で建築家として働く佐々泰造は、日本の、建築工事を起すだけの金のある人々に奉仕するものであることを伸子は知った。そうわかって、泰造が折にふれてもらしていた依頼者の我ままな注文に対しての鬱憤に、娘として同情をもった。
 ところが、赤インクのかぎ[#「かぎ」に傍点]は、伸子のその理解を、もう一遍ひっくりかえしにして見せた。泰造のうそのない役人ぎらいは、そのまま泰造を、金をもっている人々ぎらいの人間にはしてはいないという現実を、伸子は理解したのだった。
 父の泰造のバロン、バロンとよんで話す或る富豪は美術と音楽の愛好者であった。同時に日本の大財閥で政党を支配し、日本の権力をにぎっている人の一人だった。その富豪と父の泰造とはイギリス時代からのつき合いで、友人の一種ではあったろうが、伸子たちをふくめる家族は、そのつき合いのなかに入れられていなかった。
 伸子が十か十一ぐらいのときだった。泰造が何かの用で箱根へ行くことができて、伸子もつれられた。夏のことで、伸子ははじめて箱根というところへ父につれられてゆく珍しさに亢奮し、自分が着せられている真白なリネンの洋服に誇りを感じた。箱根へ行って、大きな宿屋で御飯をたべて、それから泰造が少女の伸子でも知っていたその富豪の名を云って、その別荘へよって行こうと云った。
 伸子が父の泰造につれられて行ったその富豪の別荘は、伸子が少女小説の絵で見知っている城のようだった。大きな鉄の蝶番《ちょうつがい》をつけた玄関の扉があいて、入ったところは、二階まで天井がつつぬけになっているホールだった。高いところに手摺が見えて、そこから赤い美しい絨毯が垂れていた。一つの大きいドアの左右に日本の緋おどしの甲冑《かっちゅう》と、外国の鋼鉄の甲冑とが飾られていた。そのほかホールには壺や飾皿があった。それらの飾りものは、ホールについている窓の、緑にいくらか黄色のまじったようなステインド・グラスを透してさし込んで来る光線をうけて、どれもどっしりと生きているようだった。
 少女の伸子は父とつれ立って目をみはりながらも、勝気な少女らしく、そのホールの絨毯の上を歩いた。自分が、よく似合うリネンの白い洋服をつけ、桃色のリボンで頭をまき、イギリス製のしゃれたサンダルをはいていることに伸子は満足していた。
 伸子は、帰るまでにはきっとここの主人に会うものと思っていた。けれども父の泰造は伸子をつれて、執事の男と二つ三つの室をまわって見ただけだった。それきりで、また夏の日が土の上に照りつけている外へ出てしまったとき、伸子はあてがはずれ、辱しめられたような、がっかりしたいやな感じがした。あとで伸子に、主人が留守だから自分をつれて行ってくれたのだったということがわかった。
 泰造はまた、財閥としてはその富豪と対立の立場にいて、同時に対立する政党を支配しているような人々とも同じような友人めいた交渉があった。全然政治的な興味も野心も持たない泰造の気質は、ひろい趣味をもっていて、或る意味では至極さっぱりし
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