「る、ということなのだろうか。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊社で広告を出す用事をすまし、トゥウェルスカヤの大通りへ出てホテルへ帰って来ながら、伸子は、そのことばかり考えつづけた。保がこれからはもっと伸子へ手紙を書きたいと思っているというだけならば、保の手紙にこもっている姉への感情からも、すらりとのみこめることだった。これまでも、もっと手紙をかきたいと思っている保の心もちが伝えられたのだとすると、伸子は、きょうの保からのたよりがハガキで来ていることにさえ、そこに作用している多計代の指図を推測しずにいられなかった。書いてある字のよめない人たちばかりの外国にいる姉へやるのだから、こんなに心もちをじかに語っているたよりも保はハガキで書いたのかもしれなかった。けれども、姉さんへ返事をかくならハガキにおし。そして、出すまえに見せるんですよ。そう保に向って云わない多計代ではなかった。
伸子は、素子も出かけて留守の、しんとした昼間のホテルの室へかえって来た。二重窓のガラスに、真向いの鉄骨ばかりの大屋根ごしの日があたっていて、日が、角テーブルのはずれまであたっている。抱えて帰って来た郵便物の束をそのテーブルにおろしてゆっくり手袋をとり、外套をぬいでいる伸子の目が、テーブルの上の本のつみかさなりの間にある白い紙の畳んだものの上に落ちた。それは、多計代の手紙だった。「そのあなたが、ロシアへ行ってからの生活で」というところまで読んで、伸子が、躯のふるえるような嫌悪からもう一字もその先はよまずに、そこへおいた多計代の手紙だった。封筒から出された手紙は、厚いたたみめをふくらませ、幾枚も重なった用箋の端をぱらっと開きながら、そこに横たわっている。
明るいしずかなホテルの室で外套のボタンをはずしている伸子の胸に、悲しさがひろがった。保の心はあんまり柔かい。その柔かさは、伸子に自分のこころのいかつさを感じさせる。伸子が自分として考えかたの正しさを信じながら保に向ってそれをあらわしたとき、そのときは気がつかなかった威勢のよさや能弁があったことを反省させ、伸子にひそかな、つよい恥しさを感じさせるのだった。伸子が、それをうけ入れようとする気さえ失わせる多計代の能弁は、手紙となってそこの机の上にさらされている。悲しいほど柔かい保の心をなかにして思うと、伸子は、多計代の保に対するはげしい独占的な情のこわさと、その娘で、その情のはげしさやこわさでよく似ている自分とが、向きあっている姿を感じるのだった。
外套をぬいで水色のブルーズ姿になった伸子は、ちょっと長椅子にかけていた体をまたおこして、清潔につや出しをされた茶色の床の上をあっちこっち歩きはじめた。
保の心のやわらかさは、こうして伸子に自分の心のきめの粗雑さを感じさせ、そのことで恥しささえ感じさせている。多計代のきらいなところが、自分にあることをかえりみさせる。だけれども、そうだからと云って、保の心の柔かさにうたれることで、伸子は自分の生きかたを保の道に譲ってしまうことは思いもよらなかったし、保のゆえに多計代の生きかたと妥協してしまうことも考えられなかった。
二重窓の前に立ちどまって、かすかにモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の冬の日向のぬくみがつたわっている内ガラスに額をおっつけ、黒い鉄骨と日かげに凍りついている薄よごれた雪を見ながら、伸子は心に一つの画面を感じた。そこは海の面であった。海の面はこまやかな日光にきらめき、時々雲が通りすぎると薄ら曇り、純粋でいのちをもっている。そのむこうに断崖が見える。断崖の上は青草がしげって、その青草の上にも、断崖の中腹にも、海の上と同じ日光がさしていて、断崖の根は海に洗われている。夜もひるも、断崖の根は海に洗われており、海はその断崖のために波をあげている。だけれども、断崖は海でなく、海は断崖ではない。しかし一つ自然の光のなかにつつまれて、そうしている。
海がそうなのか、断崖がそうなのか分らなかったが、伸子はそこに自分と保との存在を感じた。調停派ということは、決して調停されることはない人々によってつけられる名だ。海と断崖の心の絵の上に、伸子は、異様な鮮明さで、はっとしたように理解した。保が同級生から、佐々はバカだ。生れつきの調停派だと罵られたことを、いつか動坂のうちの客間できいた。あのとき伸子は、保のものの考えかたについてばかり、調停派ということを理解した。保の友達たちは、やっと伸子にいま、わかったこともふくめてそう云ったのにちがいなかった。考えかたや理窟だけでなく、保の心の悲しいくらいの柔かさが、柔かさそのもので、いくつかの心を若々しい一本気な追究から撓わせそうにする。保の友人たちには、保のその異様な柔らかさが、いやなのだ。だといって、保に、自分の心のそんな柔かさをどうすることが出来るだろう……。
伸子は、三月近いモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のよごれてふくらみのへった雪の見えるホテルの二重窓の前に長いあいだ佇んでいた。
第二章
一
それは、ほんとに狭い室だった。ヴェラ・ケンペルが彼女夫婦の暮している鰻《うなぎ》の寝床のように細くて奥ゆきばかりある住居をモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の壁と壁とのわれめ、といったのが当っているとすれば、伸子と素子とがアストージェンカの町角にある建物の三階に見つけた部屋は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の壁と窓とのすき間住居と云うようだった。
マリア・グレゴーリエヴナと、三人であっちこっちさがして歩いた貸間には住めそうなところがなくて、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊に出した求室広告に案外三通、反応があった。
一通はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河の向う岸にいる家主からだった。一通はトゥウェルスカヤの大通りをずっと下って鷲の森公園に近いところ。最後の一通がアストージェンカ一番地、エフ・ルイバコフという男からだった。
「変だな、ただアストージェンカきりで、町とも何ともないんだね、どの辺なんだろう」
その手紙は、ぞんざいに切った黄色い紙片に、字の上をこすったり濡《ぬら》したりすると紫インクで書いたように色が浮きでて消えない化学鉛筆で書いてあった。簡単に、われわれのところに、あなたがたの希望条件に叶《かな》った一室がある、お見せすることが出来る、という男文字の文面だった。ひろげたその手紙とひき合わすように、テーブルの上にかがみかかってモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]市街地図をしらべていた素子が、
「へえ。――こんなところに、こんな名がついているんだね。ぶこちゃん! 場所はいかにも、もって来いだよ」
地図をみると伸子たちがいるホテル・パッサージから狩人広場へ出て、ずっと右へ行き、クレムリンの外廓を通りすぎたところにデルタのようにつき出た小区画があって、そこがアストージェンカだった。
「一番地て云えば、とっつきなんだろうな」
地図に見えている様子だと、そこはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河にも近いらしいし、並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》もついそこらしい。それらの好条件は却《かえ》って伸子と素子を信じがたい気持にさせた。リンゴを四つ割にした一片のような角度で、トゥウェルスカヤからなら歩いてだって行ける距離だった。二人はマリア・グレゴーリエヴナと、そのアストージェンカを包括する何倍かの円周でモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]じゅうをさがしまわったのだ。
「妙だな……ともかく、ぶこちゃん、見るだけ見といでよ、どんなところだか」
「ひとりで?」
出しぶって伸子が素子を見た。
「ともかく、散歩のつもりで行って見てさ、ね。ほんのついそこじゃないか。一番近いところから片づけて行こうよ」
小一時間たったとき、伸子が、ホテルの階段を駈けあがるようにして戻って来た。ノックもしないで自分たちの室のドアをあけるなり、
「ちょっと! すばらしいの。――早く来て」
手袋をはめたなりの手で、素子の外套を壁からはずした。
「すぐ、友達をつれて来るからって、待ってもらっているんだから」
「ほんとかい?」
「ほんと! 絶対のがされないわ」
二人は大急ぎで狩人広場まで出て、そこから電車にのった。
「よっぽど先かい?」
「四つめ」
クレムリンをすぎると、左手の小高い丘の雪の上に、金ぴかの大きな円屋根と十字架をきらめかして建っている大きな教会があった。その停留場で伸子たちは電車を降りた。
「おや、まるでこりゃ並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》の根っこじゃないか」
「そうなのよ!」
亢奮している伸子はさきに立って、すぐその右手からはじまっている並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》とは反対の方角へ折れた。茶色外套をきた素子は、鞣帽子をかぶって、伸子と並び歩道の外側をついて来る。その歩道を一ブロック行った右手に、板囲いが立っていて、木戸があいていた。それは、まだ未完成な普請場によく見うけられるような板囲いと木戸だった。板囲いの上に、「この内に便所なし」と大きく書いたはり紙がされている、伸子は、わざと素子に予告なしで急にその木戸を入った。
「なんだ、こんなとこを入るのか」
素子もついて木戸の中へ入ると、樽だの古材だのが雪の下からのぞいている細長い空地があって、そこをぬけるとかなりひろい内庭へ出た。雪の上に四本黒く踏つけ道がついている。コンクリートの新しいしっかりした五階の建物が、コの字形にその内庭をかこんで建っていた。
伸子は、まだ黙ったまま、四本の踏みつけ道の一番とっつきの一本を辿って、一つの入口から、階段をのぼりはじめた。
入口や階段口にはむき出しの電燈がともっていた。コンクリート床の隅に、建築につかったあまりらしいセメント袋がつみ重ねられたままある。手すりもコンクリートで武骨にうち出されている。あんまりひろくない階段を、伸子は、素子をおどろかしているのがうれしくてたまらない顔つきで、一歩一歩無言のままのぼった。建築されてからまだ一二年しか経っていないらしいその大きい建物の内部は、適度な煖房のあたたかみにまじってかすかにコンクリートの匂いをさせている。
三階へのぼり切ると、伸子は防寒扉の黒いおもてに35と白ペンキで書いた扉の前にとまった。
「ここなの」
「なるほどね。これじゃ、ぶこちゃんが亢奮するのも尤だ」
さっき伸子が一人で見に来たときには、髪にマルセル・ウェーヴをかけて、紺のワンピースをきた大柄な細君と五つばかりの男の児しかいなかった。こんどは、赭《あか》っぽい鼻髭をつけ、藪のような眉をした丸顔のルイバコフそのひとが帰って来ていた。入口に、ソヴェトの技師たちがみんなかぶる緑色の鍔《つば》つき帽がかかっていた。
ルイバコフの話によれば、建物は、鉄道労働者組合の住宅協同部が建てたものなのだそうだった。
「鉄道の組合は、ソヴェトの労働組合でも化学をのぞけば最も大規模な一つですからね、おそらく、この建物は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に建った組合の建物の中じゃ、一番早かった部でしょう」
十年の年賦がすむと、その四つの部屋と浴室、共同の物干場をもったアパートメントはルイバコフの所有になるのだった。あいている一室を利用することは伸子たちの便利と同時に、ルイバコフの経済にも便利だ。従って室代も決して不合理には要求しようと思わない。
そんな話を、ルイバコフ夫婦、伸子、素子の四人がこれから借りようとし、貸そうとしている室で話しあったのだったが、赭っぽい鼻髭のルイバコフは人はわるくないがいくらか慾ふかそうな顔つきで、その室の入口の左手に置いてある衣裳箪笥にもたれて立って話している。マルセル・ウェーヴがやや不釣合な身だしなみに見える味のない大柄な細君はドアを入ってすぐのところで、縦におかれている寝台の裾
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