ツよく集注されている。足蹴にされた少年給仕の、縊《くび》れて死んだ死体がその隅に横たわっている。少年は、きょうだけ足蹴にされたのではなかった。きのうも、おとといも、彼の労働がはじまった日から、彼が命令者をもたなくてはならなくなったその日から、少年の恐怖ははじまった。無限につながる明日への恐怖と絶望のために少年給仕は縊れて死んでしまった。その同じ恐怖が、この船艙によりかたまった弁髪の人々の存在にふるえている。岸壁で荷役をして、酷使されている灰色の苦力の大群のなかを貫きふるえている。その大量な恐怖は憎悪にかわりかかっている。憎悪は、感情からやがて組織をもって行動にうつろうとしている。|吼えろ《リチ》 支那《キタイ》! 彼等の憎悪は偉大であり、歴史のなかに立っている。観客席で伸子はかすかに身ぶるいを感じ、両腕で胸をかかえるようにした。あなたの国の人たちと、わたしの国の人たちと、どっちが苦しい生活をしているんでしょうねえ。ゆっくり、柔かく、沈んだ声でそう云ったのは、中国婦人のリン博士だった。それはメトロポリタンの奇妙な室でのことだった。いま、篝火《かがりび》のようにメイエルホリドの舞台いっぱいに燃え上って、観客の顔々を照し出している憎悪にくらべれば、伸子のもっている憎悪はほんとに古くて小さい。家だの血だのに絡まっている。「冷酷な血はあなたの心の中にも流れています。そのあなたがロシアへ行ってからの生活で――」ロシアに何があり、伸子がどうなるというのだろう。多計代の偏見では判断のつかない大きな憎悪が行動となって舞台に溢れ、真実の力と美の余波で伸子の小さい憎悪さえも実感にきらめかした。
 二日たった。ブロンナヤ通りの貸室の女主人に返事をする約束の日になった。
「ぶこちゃん、行ってことわっといでよ」
 朝の茶がすんだとき、素子が、テーブルの上を片づけている伸子に云った。
「家具の条件で?」
「――そうだろう? ぶこちゃんだって家具なんか買えないって云ってたんじゃないか」
「わたしにうまく云えるかしら――言葉の点で……」
「平気じゃないか。結局ことわるって意味さえ通じればそれでいいんだから……」
 その間に素子が机のところで、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊に出す求室広告をかいた。部屋の求め主を二人の外国女と書いた。
「大体こんなところでいいだろう?」
 二人の外国女《イノストランキ》などとかいたら、また経済能力を買いかぶられて、借りられもしないような条件で部屋主が手紙をよこしそうな気がした。伸子は、
「これでいいかしら……」
と、紙きれを見おろしながらためらった。
「外国女《イノストランキ》なんていうと、何だか毛皮外套《ファー・コート》でもきていそうじゃない?」
 素子は、だまって二吸い三吸いタバコをふかしながら、自分の書いた文面を眺めていたが、
「いいさ、いいさ」
 わきに立っている伸子の手に、草稿の紙きれを押しつけた。
「われわれは外国女《イノストランキ》にちがいないんだもの。――外套だって憚《はばか》りながら毛皮つきですよ、内側についてるのと外側についてるのとがちがうだけじゃないか」
 伸子はホテルを出かけた。ホテルの玄関と雪のつもった往来をへだてて向いあっている中央郵便局の建築場の前に、大きなトラックが来て、鉄材の荷おろしをやっていた。防寒用外套の裾を深い雪の面とすれすれに歩哨の赤軍兵が鉄材の運びこまれるその仕事を見ている。膝まであるフェルトの防寒長靴《ワーレンキ》をはいて、裏から羊毛がもじゃもじゃよれたれ下っている短皮外套をきた五人の若くない労働者が搬入の仕事をやっていた。
 合間に手洟《てばな》をかんだりしながらゆっくり重いビームをかつぎあげて運ぶ動作を、しばらくこっち側の歩道に佇んで見ていてから伸子は、ブロンナヤ通りへ歩いて行った。
 古びた外壁に黄色がのこり、歩道に面して低い窓のきられているその家は、きょうも窓のなかにシャボテンの鉢植えをみせていた。
 やっぱり捲毛の渦を頭いっぱいにして、しかしきょうは化粧をおとした顔で出て来た女主人が、伸子を玄関の廊下のところまで通した。伸子は、つかえるだけの単純な言葉で、彼女たちの経済では家具まで買えないからと云って、部屋をかりることをことわった。
「ようござんす。わかりました。(ハラショ パニャートノ)」
 女主人はこの前マリア・グレゴーリエヴナや素子と一緒にはじめて部屋を見に来たときの気取りいっぱいの調子とは別人のような素気ない早口で、役所でよくつかうようなふたことの返事をした。そして、ちょっとだまりこんでいたが、かすかに捲毛の頭をふり、自分で自分の気をひき立てでもするように、
「ニーチェヴォ」
と云った。
「わたしは、またあなたがたを、外交団関係の方たちだと思ったんです」
 なぜそう思ったんだろう。そう考えながらだまっていくらか仰向きかげんに向いあって立っている伸子の顔に、捲毛の女主人は瞬間全く別なことを考えている視線をおとした。が、やがてすぐ気がついたように、
「じゃあ、さようなら」
 伸子に向って手を出した。
「さようなら」
 入口をしめて雪の往来に出たとき、伸子は、やっぱりこのひとも、心の底では本当に部屋をかしたかったのだと、あわれな気がした。舞台の上にいるように、扮装だらけのいろんな表情で日々を送りながら、真実には不安があるのだ。伸子に向って云うというより自分に向って云ったような女主人のニーチェヴォの調子を思いかえしながら、伸子はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊社へ行く方角に歩いた。
 ニキーツキー門のところまで来たら、丁度|並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》まわりの電車が、屋根の上に白くて円い方向番号をつけて通過するところだった。そのために縦の交通が遮断された。伸子のすぐわきの歩道で、支那女が、濃い赤や黄の色糸でかがった※[#「毛にょう+(鞠−革)」、読みは「まり」、第4水準2−78−13]を、ゴム糸に吊り下げて弾ませながら売っている。※[#「毛にょう+(鞠−革)」、第4水準2−78−13]のはずむのを見まもっているうちに、伸子は、ふっとあることを思いついた。
 むきかわって、もと来た道を、二つ股のところまで戻り、左をとって大使館の陰気な海老茶色の門をくぐった。
 事務室のある二階へのぼって、廊下の受信箱をのぞいた。伸子のかん[#「かん」に傍点]はあたった。細紐で一束にくくられた新聞雑誌が、サッサと書いた仕切り棚へ入っている。シベリア鉄道は、一週のうちきまった日にしか通っていないのだから、さきおとといのように多計代からの手紙だけが一通別に届くということはあり得なかった。
 伸子は、何となしはずみのついた気持で、棚に入れられている郵便物をすっかりさらい出した。そして、一段一段とのろのろ二階を下りながら、紐の間をゆるめるようにして、どんな雑誌が来たのか、のぞいた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てからずっと送ってもらっている中央公論。婦人公論。その間に大型の外国郵便用ハガキが一枚まぎれこんだように挾まっているのをみつけた。保の字だ。
 丁度壁が高くて薄暗くなった階段口を、伸子はかけおりて外へ出た。菩提樹の根もとを深い雪が埋めている大使館の庭の柵のそばに立って、そのハガキをよみだした。読みながら伸子は無意識に一二度そのハガキの面を、茶色の鞣手袋をはめた指さきで払うようにした。保の字は例のとおり細く力をぬいたうすいペン字で、こまかく粒のそろった字面が、遠いところをもまれて来たハガキの上で毛ばだち、読めはするのだけれども伸子のよくよく読みたい感情には読みにくいのだった。
「姉さん、僕にあてて書いてくれた手紙をありがとう」
 先ず冒頭にそう書いてある。伸子は、よかった、と思った。多計代は、あんなに当然なことのように保に書いた伸子の手紙を勝手に開け、読み、おこってよこした。それでも伸子の手紙を保からかくしてはしまわなかった。そういうところは多計代らしいやりかただった。
「僕は、姉さんの手紙を幾度も幾度もくりかえして読んだ。いま、返事を書きはじめる前にも、また二度くりかえして読んだ。そして姉さんのいうことは正しいと思う。姉さんが外国へ行って、まるでちがう生活をしていても、僕のことをこんなに考えていてくれるということがわかって、僕は、ほんとにびっくりした」
 簡単に云いあらわされている文句のなかに、保が、姉・弟としての自分たちの関係について改めて感じなおしている気持が、はっきり伸子につたわった。
「姉さんが温室について書いてよこしたことは、もちろんただ僕を責めたり叱ったりしているのではない。また、温室をこしらえて下すったことを非難しているわけでもない。僕にそのことはよくわかる。姉さんは、僕に、もっとひろい社会の関係を知らそうとしただけなのだ」
 伸子は、涙ぐむようになった。保の書いている調子は重々しく真面目で、そこには、姉である伸子のいうことをちゃんと理解しようとしている心が滲《にじ》んでいるばかりでなく、保自身、自分のうけとりかたの正当さを、周囲に確認させようとしてつよくはりつめている意志が感じられた。保の書きぶりは、伸子のかいたあの手紙一通のために動坂の家の食堂でまきおこされた論判の光景を思いやらせた。
「僕は温室について姉さんの考えるようなことは一つも考えていなかった。これは大変恥しいことだと思う」
 最後の一行のよこに線が引いてあった。字を書いているのと同じ細いうすいペンの使いかたで、これは大変恥しいことだと思う[#「これは大変恥しいことだと思う」に傍線]、と。
 伸子は、考えるとき時々クンクンと鼻の奥をならす保の初々しい和毛のくまのある瞼の腫れぼったい顔や、小さくなった制服のズボンの大きい膝が、雪の中に立ってよんでいる自分のすぐそのそこにあるように感じた。これは大変恥しいことだと思う[#「これは大変恥しいことだと思う」に傍線]。――そして伸子は自分の心にもその一本の線が通ったのを感じた。恥しいことだと思う[#「恥しいことだと思う」に傍線]、と。伸子が勢はげしく保へあててあの手紙をかいたとき、こんなに軟く深い黒土の上にくっきりと轍《わだち》のあとをつけるように保の心にひとすじの線をひくことまでを思いもうけていたろうか。
 門のわきの番小舎の戸があいた。大外套をきた門番が伸子の立っている庭の方へ来かかった。番人は、そこにいたのが時々見かける伸子だとわかると、
「こんにちは」
と、防寒帽のふちに指さきをあてた。そして、伸子がよんでいるハガキに目をくれながら通りすぎた。番人とは反対の方向へ、大使館の門の方へ伸子も歩き出した。歩きながら、ハガキをよみおわった。温室は、折角こしらえて頂いたものだから、みんなのよろこぶように使いたい。この夏はメロンを栽培してお父様、お母様そのほかうちのみんなにたべて貰おうと思う。そうかいたハガキの終りに、やっと余白をみつけて、
「僕は姉さんにもっと手紙を書きたいと思っている」
と、その一行は本文よりも一層こまかい字で書かれていた。ハガキはそれで全部だった。
 並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》のベンチの前には乳母車がどっさり並んで赤坊たちの日光浴をやっていた。遊歩道の上で安心しきっておっかけっこをしている小さい子供らが、外套の上から毛糸の頸巻きをうしろでしょっきり[#「しょっきり」に傍点]結びにされたかっこうで、駈けて来ては通行人にぶつかりそうになる。伸子は、物思いにとらわれた優しい顔つきで、いちいち、つき当りそうになる子供たちの体に手をかけて、それを丁寧によけながら、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊社のある広場まで歩いて行った。僕は姉さんにもっと手紙を書きたいと思っている。――保がそう云っているのはどういう意味なのだろう。日頃から、もっと書きたいと思っている、というわけなのだろうか。それとも、これからはもっとちょくちょく書きたいと思って
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