qの誰かが丹念に息をふきかけ、厚く凍りついた氷をとかしてこしらえた覗き穴がまるく小さくあいていた。その穴に顔をよせて外をのぞいていると、蒼白くアーク燈にてらし出されている並木の雪のつもった枝だの灯のついた大きい建物だのが、目の前を掠《かす》めてすぎた。白く凍ってそとの見えないバスの中で、思いがけずこんな一つの穴を見つけた伸子は、そののぞき穴を守って、チラリ、チラリと閃きすぎる深夜のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を眺めた。
断片的なそとの景色につれて、伸子の心にも、いろいろな思いが断片的に湧いて消えた。ポリニャークにいきなり体ごと高く掬い上げられ、その刹那意識の流れが中断されたようだった変な感じが、まだ伸子の感覚にのこっていた。ポリニャークは、どうしてあんなことをしたのだろう。自分も何か用事で廊下へ出て来た拍子に、小さい伸子が来かかるのを見て、ひょいと掬い上げたというのならば、そうするポリニャークに陽気ないたずらっ子の笑いがあったはずだし、伸子も、びっくりした次には笑い出す気分がうつったはずだった。ポリニャークのポヤポヤ髪をもった大きい赤い顔には、ひとつもそういうあけっぱなしの陽気さや笑いはなかった。伸子が本能的に体をこわばらして抵抗する、そういう感じがあった。男が女に何かの感情をつたえる方法としてならば、あんまり粗野だった。ポリニャークが育ったロシアの農村の若衆たちに、ああいう習慣でもあるのだろうか。また女優である細君の楽屋仲間をよんだりすると、酔った男優女優は、主人のポリニャークもこめてああいう騒ぎをやるのかもしれない。
伸子は、客に行ったさきであんな風に掬い上げられたことは不愉快だった。自分の態度のどこかに、すきがあったと思われた。伸子は、「やあ にぇ まぐう」を思い出した。柔かくすべっこくされた日本の女のロシア語が、酔った男の感覚にどう作用するかというようなことを、伸子は今になって、考えて、はじめて推測できた。伸子は、屈辱の感じで思わず凍った窓ののぞき穴から顔をそむけた。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てたった二週間しか経たなかったとき、伸子は鉄工組合の労働者クラブの集会へ行った。にわかに演壇に立たされて、困りながら伸子は、自分がたった二週間前に日本から来たばかりなこと、ロシア語が話せない、ということを云った。そのとき、伸子は、どんなしっかりした立派な発音でヤー ニェ マグウ ガバリーチ パ ルースキー(わたしはロシア語は話せません)と云ったというのだろう。いまよりもっとひどいフニャフニャ にぇ まぐう で云ったにちがいなかった。それでも、あの会場に集っていた二三百人の男女は、瞳をそろえて、下手なロシア語を話す体の小さい伸子を見守り、その努力を認め、声をかけて励してくれる者もあった。あの人々が、ポリニャークに掬い上げられたりしている伸子をみたら、どんなにばかばかしく感じるだろう。そんな伸子に拍手をおくった自分たちまでが、同時にばかにされたように感じるだろう。伸子はその感情を正当だと思った。そして、あの人々に、このいやさを訴えたいこころもちと半ばして、訴えることさえ愧《はずか》しいと感じる心があった。伸子はこの意味のはっきりしない不愉快事を素子にさえ、話す気がしなかった。
ホテルへかえりつくと、素子も秋山も、浅い酔いがさめかかって寒くなり、大いそぎで熱い茶を幾杯ものんで、部屋部屋にわかれ、じき床に入った。
八
あくる日、臨時にマリア・グレゴーリエヴナの稽古の時間が変更になって、伸子がトゥウェルスカヤ通りをホテルへ帰って来る頃には、もうモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の街々に灯がはいった。歩道に流れ出している光を群集の黒い影が絶間なくつっきって足早に動いている。そのなかにまじっていそぎ足に歩いていた伸子は、ふと、トゥウェルスカヤ通りの見なれた夕景が、霧につつまれはじめたのに気づいた。日本の晩秋に立ちこめる夕靄《ゆうもや》に似て、街々をうすくおおう霧にきがついたとき、もうその霧は刻々に濃くなって、商店の光もボーッとくもり、歩道の通行人もさきの見とおしが困難なくらいになって来た。大通りの左右に並んだ高い建物のきれめでは、煙のように灰白色の霧が流れてゆくのが見えた。伸子はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で、こんな霧のなかを歩こうとは思いがけなかった。急に見とおしのきかなくなった街をいそぐ伸子の気持には、外国の都にいるらしく、孤独の感じがあった。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来て暮したふた月ほどの間、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の人々に対する伸子の一般的な信頼と自分に対する信頼とを、動かされるような目に会っていなかった。ところが昨夜、ポリニャークのところへよばれて、あんなにひょいと、二本の脚でしゃんと立っていた筈の自分が床の上から体ごと掬い上げられた経験は、伸子が自分についてもっていた安定感を、ひっくるかえした。ポリニャークに、あんな風にやすやすと掬い上げられてしまったことには、体力も関係した。ポリニャークの大さ、力のつよさに対して、あんまり伸子は小さかった。日本人の男と伸子との体力の間にはあれだけの開きはない。あいてになりようない力を働かしてポリニャークは一人前の女である伸子をあんなにいきなり掬いあげた。無礼ということばの、真の感覚で伸子はそれを無礼と感じた。同時に、ひとから無礼をはたらかれるような理由も動機も自分はもっていないように天真爛漫だった伸子のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]暮しの気分も、ゆらいだ。これからも屈辱的な扱いにあうかもしれないモメントを自分がもっているということを伸子は知らされたのであった。二月の夜霧が流れるトゥウェルスカヤ通の、下り坂になった広い歩道をいそいで来る伸子のこころの孤独感は、素子にも話さない、そういう感情とつながっていた。
その晩は、これまでなら、素子のところへモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河のむこうから女教師が来るはずの日だった。そして、伸子は二時間ばかりどこかへ行っていなくてはならないわけだった。今週からその女教師は、むこうからことわって来て、やめになった。伸子が、未払いになっていた授業料を届けがてら、素子のつかいで、病気だというハガキをよこしたその女教師のところへ行った。丁度午後三時すぎの日没がはじまる頃で荒涼と淋しい町はずれの一廓の、くずれかかったロシア風の木柵に沿って裸の枝をつきたたせている白樺の梢に、無数のロシア烏が鈴なりにとまって塒《ねぐら》につく前のひとさわぎしているところだった。その空地に壁を向けて建っている建物の、スープを煮る匂いのこもった薄暗い室で、その女教師はアボルトしたあとの工合がよくなくて、出教授は当分やめなければならないと云った。煤がかかってよごれていたその界隈の雪の色や、空地にくずれた柵、裸の梢に鈴なりに群れさわいでいた烏の羽音など、伸子の印象にのこる景色だった。
そういうわけで今夜は、伸子も室にいてよかった。素子が自分の勉強がてらプレハーノフの芸術論をよもうということになった。素子がひとりで音読し、ひとりで訳した。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のどこの劇場へ行っても、劇評を見ても、弁証法的な演出とか手法とかいうことがくりかえされていたが、伸子たちにはどうもその具体的な内容がのみこめなかった。メイエルホリドでは「トラストD・E」を上演していて、解説には資本主義の批判をテーマとした脚本の弁証法的演出とあった。しかし伸子たちが観た印象では、その芝居は極端な表現派の手法としか感じられなかった。プレハーノフをよもうといい出した素子の動機は、そういうところにもあるのだった。
素子のよむプレハーノフの論文の一字一字を懸命に追ってゆくうちに、伸子は、この芸術論が、案外ジョン・リードの「世界を震撼させた十日間」よりもわかりやすいのを発見した。時々刻々に変化する緊張した革命の推移を、ジャーナリスティックな複雑さと活溌なテムポとで描き出し記録しているリードの文章よりも、理論を辿って展開されてゆくプレハーノフの文章の方が、感情的でないだけに、伸子についてゆきやすかった。
「こうしてみると小説ってむずかしいわねえ」
「そりゃむずかしいさ、文章が動いているもの――」
「わたしには、とても小説の方はのぞみがないわ。――一字一句格闘なんだもの」
「なれないからさ」
「それもあるだろうけれど……」
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てからは、とくに字をよむよりさきに耳と口とを働かせなければならない必要が先にたって、伸子のロシア語のちんばな状態は一層ひどくなった。話す言葉は、間違いだらけでも、必要によって通用した。伸子の読み書く能力は、非常に劣っていた。自分の片ことのロシア語についても、伸子は昨夜の「にぇ まぐう」のことから不快を感じはじめているのだった。
「いまの作家で、だれの文章がやさしいのかしら」
素子は、考えていたが、
「わからないね」
と云った。
「外国人にわかりやすい文章とロシア人にわかりやすい文章とは、すこしちがうらしいもの。大体、ロシア人は新しい作家のは、やさしいっていうけれど、わたしたちには反対だ、訛《なまり》や慣用語、俗語が多くて――バーベリなんかどうだい。文章はがっちりしていてきもちいいけれど、やさしいどころか」
それは伸子にも推察された。
「ケンペルの文章、ほんとにやさしいのかしら」
本屋でヴェラ・ケンペルの『動物の生活』というお伽噺《とぎばなし》めいた本を伸子が買って来たことがあった。やさしそうなケンペルの文章は、言葉づかいがいかにも未来派出身の女詩人らしく、それがわかれば気がきいているのだろうが、伸子にはむずかしかった。
「ありゃ、たしかに気取ってるよ」
「――でも、わたしたちが、彼女の文章はむずかしいと云ったら、大変きげんがわるかったわねえ」
「そうそう、御亭主に何だか云いつけてたね」
それは半月ばかり前のことであった。伸子たち二人が秋山宇一のところにいたら、そこへ、シベリア風のきれいな馴鹿《となかい》の毛皮外套を着て、垂れの長い極地防寒帽をかぶったグットネルが入って来た。まだ二十三四歳のグットネルはメイエルホリドの演出助手の一人であった。秋山たちが国賓として日本を出発するすこし前にグットネルが日本訪問に来たとき、彼は、メイエルホリドの演出家として紹介された。演劇人でソヴェトから来たはじめての人であったため新劇関係の人々に大いに款待され、日本でその頃最も新しい芝居として現れていた表現派の舞台を、メイエルホリドの手法に通じる斬新なものという風に語られた。秋山宇一と内海厚とは、帰国するグットネルと一緒にモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来た。そして、自然、若いグットネルがメイエルホリドの下で実際に担当している活動の範囲も、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の現実の中で理解した。それから、ずっと普通の交際をつづけているらしかった。伸子たちは、それまでに二三度秋山の室でグットネルにあったことがあった。
その晩、秋山の室でおちあったグットネルは、伸子たちをみると、まるでその用事で来たように、二人をヴェラ・ケンペルの家へ誘った。
黄色と純白の毛皮をはぎ合わせた派手なきれいな毛皮外套をきたままの若々しいグットネルにタバコの火をやりながら、素子はうす笑いして、
「突然私たちが行ったって、芝居へ行っているかもしれないじゃありませんか」
と云った。
「ケンペルは、こんや家にいるんです。僕は知っています」
寒いところをいそいで歩いて来た顔のうすくて滑かな皮膚をすがすがしく赤らませ、グットネルは若い鹿のような眼つきで素子を見ながら、
「行きましょう」
と云い、更に伸子をみて、
「ね、行きましょう(ヌ・パイディヨム)」
すこし体をふるようにして云った。
素
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