「そう、そう、ほんとにそうだった。ヨシミさん、演芸通なんですね」
 興味を示して、テーブルの上にくみ合わせた両腕をおいてきいている細君の方へ目顔をしながらポリニャークが云った。
「しかし、ノウ(能)というものは、僕たちには薄気味が悪かった」
「ノウって、どういうものかい?」
 アレクサンドロフが珍しそうにきいた。
「見給え、こういうものさ」
 酒のまわり始めたポリニャークは、テーブルに向ってかけている椅子の上で胸をはって上体を立て、顎をカラーの上にひきつけて、正面をにらみ、腕をそろそろと大きい曲線でもち上げながら、
「ウーウ、ウウウウヽヽヽヽ」
と、どこやら謡曲らしくなくもない太い呻声を発した。その様子をまばたきもしないで見守っていたアレクサンドロフが、暫く考えたあげく絶望したように、
「わからないね」
と云った。
「僕にだってわかりゃしないさ」
 みんなが大笑いした。
「可哀そうに! 日本人だってノウがすきだというのは特殊な人々だって、話してお上げなさいよ」
 伸子が笑いながら云った。
「限られた古典趣味なんだもの」
「何ておっしゃるんです?」
 ポリニャークが伸子をのぞきこんだ。
「内海さんがあなたにおつたえします」
 話がわかると、
「それでよし!」
とアレクサンドロフをかえりみて、
「これで、われわれが、『野蛮なロシアの熊』ではないという証明がされたよ。さあ、そのお祝に一杯!」
 みんなの杯にまた新しい一杯がなみなみとつがれた。そして、
「幸福なるノウの安らかな眠りのために!」
と乾杯した。伸子は、また、
「わたしはだめです」
をくりかえさなければならない羽目になった。ポリニャークは、
「やあ にぇ まぐう」
と、鳥が喉でもならすような響で、伸子の真似をした。そして、立てつづけに二杯ウォツカを口の中へなげ込んで、
「自分の国のものでもわれわれにはわからないものがあるのと、同じことさ」
 タバコの煙をはき出した。
「たとえば、ム・ハ・ト(モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]芸術座)でやっている『トルビーン家の日々』あれはもう三シーズンもつづけて上演している。どこがそんなに面白いのか? 僕にはわからない」
「ム・ハ・トの観客は、伝統をもっていて特にああいうものがすきなんだ」
 アレクサンドロフが穏和に説明した。
「そりゃ誰でもそう云っているよ。しかし、僕にはちっとも面白くない。それだから僕がソヴェト魂をもっていないとでも云うのかい?――アキヤマさん」
 ウォツカの瓶とともに、ポリニャークは秋山にむいて云った。
「あなたは『トルビーン家の日々』を面白いと思いますか?」
「あれは、むずかしい劇です」
 それだけロシア語で云って、あとは内海厚につたえさせた。
「特に外国人にはむずかしい劇です。心理的な題材ですからね。科白《せりふ》がわからないと理解しにくいです」
 一九一七年の革命の当時、元貴族や富裕なインテリゲンツィアだった家庭に、たくさんの悲劇がおこった。一つの家庭のなかで年よりは反革命的にばかりものを考え行動するし、若い人々は革命的にならずにいられないために。或る家庭では、またその正反対がおこったために。「トルビーン家の日々」は、革命のうちに旧い富裕階級の家庭が刻々と崩壊してゆかなければならない苦しい歴史的な日々をテーマとしていた。科白がわからないながら、伸子は、雰囲気の濃い舞台の上に展開される時代の急速なうつりかわりと、それにとり残されながら自分たちの旧い社交的習慣に恋着して、あたじけなくみみっちく、その今はもうあり得ない華麗の色あせたきれっぱじにしがみついている人々の姿を、印象づよく観た。
「サッサさん、どうでした? あの芝居は気にいりますか?」
「いまのソヴェトには、『装甲列車』の登場人物のような経験をもっている人々もいるし、『トルビーン家の日々』を経験した人々も、いるでしょう? わたしは、つよくそういう印象をうけました。そして、あれは決してロシアにだけおこることじゃないでしょう。――吉見さん、そう話してあげてよ」
「いやに、手がこんでるんだなあ」
 ウォツカの数杯で、気持よく顔を染めている素子が、そのせいで舌がなめらからしく、ほとんど伸子が云ったとおりをロシア語でつたえた。
「サッサさん、あなたは非常に賢明に答えられました」
 半ば本気で、しかしどこやら皮肉の感じられる調子でポリニャークが、かるく伸子に向って頭を下げた。
「僕は、あなたの理解力と、あなたの馬鹿馬鹿しいウォツカぎらいの肝臓に乾杯します」
 舞台の時間が来てポリニャーク夫人が席を去ってから、ポリニャークが杯をあける速力は目立ってはやくなった。
 秋山宇一は額まで赫くなった顔を小さい手でなでるようにしながら、
「ロシアの人は酒につよいですね」
 頭をひとりうなずかせながら、すこし鼻にかかるようになった声で云った。
「寒い国の人は、みんなそうですがね」
「空気が乾燥しているから、これだけのめるんですよ」
 やっぱり大してのめない内海厚が、テーブルの上に置いたままあったウォツカの杯をとりあげて、試験管でもしらべるように、電燈の光にすかして眺めた。それに目をとめてアレクサンドロフが、
「内海さん、ウォツカの実験をする一番適切な方法はね、視ることじゃないんです、こうするんです」
 唇にあてた杯と一緒に頭をうしろにふるようにして自分の杯をのみほした。
「日本の酒は、啜《すす》るのみかたでしょう? 葡萄酒のように――」
「啜ろうと、仰ごうと、一般に酒は苦手でね」
 内海が、もう酒の席にはいくぶんげんなりしたように云った。
「日本の神々のなかには、大方バッカスはいないんだろうよ。あわれなことさ!」
 伸子はハンカチーフがほしくなった。カフスの中にもハンド・バッグの中にもはいっていない。そう云えば、出がけにいそいで外套のポケットへつっこんで来たのを思い出した。伸子は席を立って、なか廊下を玄関の外套かけの方へ行った。そして、ハンカチーフを見つけ出して、カフスのなかへしまい、スナップをとめながらまたもとの室へ戻ろうとしているところへ、むこうからポリニャークが来かかった。あまりひろくもない廊下の左側によけて通りすがろうとする伸子の行手に、かえってそっち側へ寄って来たポリニャークが突立った。
 偶然、ぶつかりそうになったのだと思って伸子は、
「ごめんなさい」
 そう云いながら、目の前につったったポリニャークの反対側にすりぬけようとした。
「ニーチェヴォ」
という低い声がした。と思うと、どっちがどう動いたはずみをとらえられたのか、伸子の体がひと掬《すく》いで、ポリニャークの両腕のなかへ横だきに掬いあげられた。両腕で横掬いにした伸子を胸の前にもちあげたまま、ポリニャークは、ゆっくりした大股で、その廊下の左側の、しまっている一室のドアを足であけて、そこへ入ろうとした。その室にはスタンドの灯がともっている。
 あんまり思いがけなくて、体ごと床から掬いあげられた瞬間伸子は分別が消えた。仄暗《ほのぐら》いスタンドの灯かげが壁をてらしている光景が目に入った刹那、上体を右腕の上に、膝のうしろを左腕の上に掬われている伸子は、ピンとしている両脚のパンプをはいている足さきに力をいっぱいこめて、足を下へおろそうとした。
「おろして!」
 思わず英語で低く叫ぶように伸子は云った。
「おろして!」
 背が高くて力のつよいポリニャークの腕の上から、伸子がいくら足に力をこめてずり落ちようとしても、それは無駄であった。伸子は、左手でポリニャークの胸をつきながら、
「声を出すから!(ヤー、クリチュー!)」
と云った。ほんとに伸子は、秋山と吉見を呼ぼうと思った。
「ニーチェヴォ……」
 ポリニャークは、またそう云って、その室の中央にある大きいデスクに自分の背をもたせるようにして立ちどまった。そこで伸子を床の上におろした。けれども、伸子の左腕をきつくとらえて、酔っている間のびのした動作で、伸子の顔へ自分の大きな赧い顔を近づけようとした。伸子は、逃げようとした。左腕が一層つよくつかまれた。顔がふれて来ようとするのを完全に防ぐには、背の低い伸子が、体をはなさず却ってポリニャークに密着してしまうほかなかった。くっつけば、背の低い伸子の顔は、丁度大男のポリニャークのチョッキのボタンのところに伏さって、いくら顔だけかがめて来ようとも、伸子の顔には届きようがないのだった。
 伸子の右手は自由だった。ザラザラする羅紗のチョッキの上にぴったり顔を押しつけて、伸子は自由な右手を、ぐるっとポリニャークの腕の下からうしろにまわし、デスクの方をさぐった。何か手にふれたら、それを床にぶっつけて物音を立てようと思った。
 そこへ、廊下に靴音がした。あけ放されているドアから、室内のこの光景を見まいとしても見ずにその廊下を通ることは出来ない。
 伸子は、ポリニャークのチョッキに伏せている眼の隅から赫毛のアレクサンドロフが敷居のところに立って、こちらを見ている姿を認めた。伸子は、デスクの方へのばしていた手で、はげしく、来てくれ、という合図をくりかえした。一足二足は判断にまよっているような足どりで、それから、急につかつかとアレクサンドロフが近づいて、
「ボリス! やめ給え。よくない!」
 ポリニャークの肩へ手をかけおさえながら、伸子にそこをはなれる機会を与えた。

 伸子は白々とした気分で、テーブルの出ている方の室へ戻って来た。いちどきに三人もの人間が席をたって、はぬけのようになっているテーブルに、ザクースカのたべのこりや、よごれた皿、ナイフ、フォークなどが乱雑に目立った。ポリニャークの席にウォツカの杯が倒れていて、テーブル・クローズに大きい酒のしみができている。秋山宇一と内海厚は気楽な姿勢で椅子の背にもたれこんでいる。反対に、素子がすこし軟かくなった体をテーブルへもたせかけるように深く肱をついてタバコをふかしている。伸子がまたその室へ入って行って席についたとき、素子のタバコの先から長くなった灰が崩れてテーブル・クローズの上に落ちた。
「――どうした? ぶこちゃん」
 ちょっと気にした調子で素子がテーブルの向い側から声をかけた。
「気分でもわるくなったんじゃない?」
 伸子は、いくらか顔色のよくなくなった自分を感じながら、
「大丈夫……」
と云った。そして、ポリニャークに掬い上げられたとき少し乱れた断髪を耳のうしろへかきあげた。
 程なく、ポリニャークとアレクサンドロフが前後して席へもどって来た。
「さて、そろそろ暖い皿に移るとしましょうか」
 酔ってはいても、格別変ったところのない主人役の口調で云いながら、伸子の方は見ないでポリニャークは椅子をテーブルにひきよせた。テーブルの角をまわってポリニャークの右手にかけている伸子は、部屋へ戻って来たときから、自然椅子を遠のけ気味にひいているのだった。
「われらの食欲のために!」
 最後の杯があけられた。アレクサンドロフが伸子にだけその意味がわかる親和の表情で、彼女に向って杯をあげた。ポリニャークは陽気なお喋りをやめ、新しく運びこまれたあついスープをたべている。食事の間には主にアレクサンドロフが口をきいた。部屋の雰囲気は、こうして後半になってから、微妙に変化した。しかし、少しずつ酔って、その酔に気もちよく身をまかせている秋山宇一や内海厚、素子さえも、その雰囲気の変化にはとりたてて気づかない風だった。

 伸子たち四人が、ポリニャークのところから出て、また雪の深い停留場からバスにのったのは、十一時すぎだった。市中の劇場がはね[#「はね」に傍点]た時刻で、郊外へ向うすべての交通機関は混み合うが、市の外廓から中心へ向うバスはどれもすいていた。伸子たち四人は、ばらばらに座席を見つけてかけた。秋山も素子も、バスのなかの暖かさと、凍った雪の夜道を駛ってゆく車体の単調な動揺とで軽い酔いから睡気を誘われたらしく、気持よさそうにうつらうつらしはじめた。伸子がかけている座席のよこの白く凍った窓ガラスに乗
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